「詩客」短歌時評

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短歌時評194回 いまだに「読み」の話題 桑原 憂太郎

2023-12-04 16:34:20 | 短歌時評

 「歌壇」(本阿弥書店)11月号の岩内敏行氏の時評「歌を読む場について」を読む。
 時評では、永田和宏が「歌壇」8月号で坂井修一との対談のなかで発言した「歌でいちばん大事なのは『読みのリテラシー』をきちんと伝えていくこと」という部分を引用し、そこから、現代の歌壇での「読み」の状況について、話題を展開している。
 「読みのリテラシー」は、従来、結社や学生短歌会、あるいは、同世代の歌人たちとの交流を通して鍛えられてきていたが、最近はそうなっていない、というのが岩内氏の認識のようだ。では、なぜ鍛えられなくなってきているのか。
 というと、岩内氏は、「読み」の場で起こっている次の変化から、その理由を論じる。
 1点目は、「読み」の希薄化。これは、結社や学生短歌会から、SNSへと「読み」の場が変化したことによる。川本千栄の『キマイラ文語』を引用し、SNSの影響により、今その場で発進される情報にすっかり慣れてしまったために、「歌への向かい方や読みも希薄に感じられ、世代間の考え方のギャップも想像以上にひらいているのかもしれない」と、論じる。
 2点目は、提出した歌を尊重する空気。時評では、馬場あき子のドキュメンタリー映画のシーンから、批評もほめて読むという昨今の傾向を、「あれ気持ち悪いよね」と馬場がこぼす場面を紹介しながら、こうしたほめて読むことが求められることによって、「健全な〈読み〉が醸成しない一因ではないのか」と論じる。
 こうして、岩内氏は、結社や学生短歌会からSNSへと「読み」の場が移ったことによる「読み」が希薄化したことと、そうした場では、提出された歌を尊重することが求められている空気によって、「短歌が長く蓄積してきたものが急速にうしなわれてしまうリスクもある」と述べる。そして、「リテラシーを磨く場」という意識の重要性を述べたのち、そんなリテラシーをもった読み手を育てるためにも、「これはこれからの結社の在り方や行方につよくかかわっていくのではないか」と結論づけている。

 以上が、岩内氏の時評の要旨だ。
 こうした、岩内氏の「読み」の主張について、私たちは、どのようにとらえたらいいのだろうか。
 というと、筆者は、何をいまさら、という感想を持つ。
 もうね、短歌の「読みのリテラシー」を磨くも何も、「読み」の場は、もうとっくに変化してしまったのだから、いまさら、どうにもならないの。
 岩内氏は、「結社の在り方や行方につよくかかわっていくのではないか」と、結社による「読み」の育成機能に期待を寄せるのだけど、そもそも「読み」の場が変化しているのだから、今さら結社に期待してもどうしようもない。
 時代はここ10年ほどで、すっかり変わってしまったの。だから、かつての歌会のように「読み」を戦わせる時代じゃなくなったし、いまさら、そんな時代に戻ることも絶対にない。
 だから、そんなもう戻ることのない「読み」の場を、結社や学生短歌会に担わせようとしても、どだい無理な話なのである。

 さらに言うならば、時代とともに短歌作品もまた変化している。
 それは、結社からSNSへというように、「読み」の場が時代とともに変化しているのと同様だ。時代が変化すれば、短歌作品だって変化していくだろう。
 そうであるなら、そんな時代の変化に対応した作品を読むための、新たな「読み」が必要になってくるのも当然といえるだろう。

 例えば、<私性>に関する「読み」。
 子規や茂吉の時代の近代短歌なら、<主体>といった概念は、短歌の「読み」に必要なかった。なぜなら、短歌の<私>は<作者>であったのが明白だからだ。
 しかし、前衛短歌以降、作品の<私>は<作者>ではなくなった。だからこそ、<主体>という新しい概念を「読み」に導入して、近代短歌とは違う「読み」が求められてきたのだ。
 今日、私たちは、作品ごとに、作品に登場する<私>は、<作者>のことなのか、あるいは<作者かもしれない主体>なのか、<作者とは別人格の主体>なのか、と、少なくとも、3つの<私>を使い分けて、それこそ「読み」のリテラシーを発揮しながら、実に器用に作品を読んでいる。
 つまり、<私性>の変化によって、「読み」もまたその変化に対応させてきているのだ。

 短歌作品は時代とともに変化している。
 であれば、その「読み」もまた、その変化に対応して読んでいくのが当然だ。
 そんな「読み」の対応の一例として<私性>をあげてみたけど、それだけじゃあない。それは、「口語」だったり、「時制の変化」だったり、「構文」だったりするだろう。
 そして、そうした新しい時代の変化に対応した短歌には、従来の「読み」よりもSNS時代の希薄な「読み」の方が、ずっと的確に読めるのかもしれないのだ。
 また、相手を傷つけない批評というのも、筆者は、新たな「読み」につながると思っている。だって時代はどうやら、相手を傷つけない距離感で人間関係が構築されているらしい。そんな時代の空気を吸っている以上、短歌もまた、そうした時代にふさわしい歌が詠われることだろう。そして、そうした時代にふさわしい「読み」が生まれることだろう、と思うからだ。
 
 ……と、少し抽象的な主張になってしまったので、以下は、そうした時代の変化に対応した、新しい「読み」の具体案を提示して、この話題を閉じたいと思う。

 ここで筆者が提示する「読み」というのは、「テクスト読み」とでもいえるものだ。
 「テクスト読み」とは、その名の通り、作品をテクストとして扱う。そして、テクストに書かれてあること以外、例えば<作者>の属性とか社会背景とかは、「読み」の対象にしないのが原則だ。
 まさに、歌の尊重、誰も傷つけることのない「読み」だ。
 さらに、作品をテクストとして扱う以上、<私性>の問題もクリアだ。作品のなかの<私>は、<主体>以外にありえない。実にシンプルだ。そして、作品の中には、<作者>は存在しないのだから、どんなに<主体>の在り様を論じようとも、それによって一切<作者>は傷つくことはない。

 今回、取り上げた時評と同じく「歌壇」11月号には、小池光と大辻隆弘の対談がある。この対談で行われている大辻氏の「読み」こそが、筆者の主張する、「テクスト読み」の端的な例である。

 大辻氏は、対談のなかで、小池の次の作品を取り上げている。

死に顔にチャウシェスクは目を開きをり雪みだれとぶその妻もまた 小池光『山鳩集』

 これは、1989年、ルーマニアの大統領だったチャウシェスクが処刑されたときのことを詠った作品だ。
 さあ、この作品、どうやって評するか。
 というと、従来の批評なら、「目を開きをり」といったチャウシェスクの死体についての描写や、妻もともに処刑されたという状況を一首から読み取り、社会詠の文脈で批評をするのではないかと思う。それこそ、「読み」のリテラシーを駆使して、それまでの社会詠と比較したり、あるいは、実際の処刑が行われるまでに至った社会的背景といったものが、いかに作品へ投影されているかを批評したりするのではないか。それに、当然のことながら、作者である小池光の思想的立場といったことも批評の対象とするだろう。
 しかし、大辻氏は、そうした批評へは全く向かわない。
 大辻氏は言う。

この歌のすごいのは「死に顔に」の「に」だと思うんです。例えば僕だったら「死に顔のチャウシェスクは目を開いてをり」みたいにすると思うんです。「死顔に……目を開きをり」とすると、チャウシェスクが死んでいながらもまだ生きた意志を持っていて、自分の顔を他者に見せようとして目を開いた感じになる。死に顔「において」目を開いたという感じ。死者が目を開くというのがすごく生々しくて、あの映像を見たときの衝撃がすごく伝わりました。下の句の「雪みだれとぶその妻もまた」もよくって、石塀みたいなところにチャウシェスクと奥さんの死体が並べ置かれていて、そこに雪が降っていた。それを「雪みだれとぶその妻」と表現している。ここも面白いな、と思います。

(「歌壇」11月号「言葉を<歌>にする 小池光氏に聞く」)

 どうであろう。
 大辻氏は、あくまでも、作品をテクストとして批評しているのがわかるかと思う。
 ここで、大辻氏が評しているのは、端的にいえば「死に顔の」と「死に顔に」の構文の違いなのだ。そして、こうした構文の違いが、韻文として嵌め込まれることで、どのような効果の違いが生まれているか、ということを評しているのである。
 下句の「雪みだれとぶその妻もまた」の部分も、ここだけ取り上げると、どうにもおかしな日本語の構文なのだが、これが七七の韻文に嵌まっていることで、大辻氏は「ここも面白いな」と言っているのだ。

 こうした「読み」が、筆者のいう「テクスト読み」だ。
 時代の変化にともない、短歌の「読み」というのは、恐らくは、こうしたテクスト分析を基本とした「読み」へとシフトしていくのではないか、というのが、筆者の予想だ。