高校生の頃、大人になりたくないと思っていた。働き、結婚し、子を産み、家と車を買って……そうした大人にならねばならない、という義務を感じては、果てしない、将来設計とか無理、と思っていた。
あの頃、イメージしていた「大人」は噓だった気がする。映画やCMの中にいる人たちのきれいな生活と、自分のだらしない生活を比較して時々落ち込むことはあるものの、「まあ、これはフィクションで、観る人のためにうつくしくつくられたものだから」と心のどこかで疑っている。
普通の大人。理想の大人。そうした大人こそ、わたしにはいまやフィクションに思える。ふとしたときに、「あ、未来ない」と思うものの、べつに絶望もしない。人類だっていつか絶滅するし。
丁寧な暮らしとかじゃなくて、リアルな生活を描いたものを読みたい。そう思っているときに、永井祐の作品に出会い、やっと見つけてもらえた、と思った。
2012年に第一歌集『日本の中でたのしく暮らす』(BookPark)を上梓した永井。第二歌集である本書で第2回塚本邦雄賞を受賞した。
ブルーレイディスクは取り出されないまま 月曜火曜水曜になる
いままさにこの原稿を作成しているノートパソコンに、2年ほど前から同じDVDディスクを入れている。数年前なら曲を聞くたびにディスクを入れ替える必要があったけれど、もう今はYouTubeとSpotifyのおかげでそれもほとんどしない。入れっぱなしのものは永遠に入れっぱなしのまま、月曜火曜水曜とあっという間にすぎ、気づいたら日曜日の夜になる。歳を取りたくない。
でも歳は取るものだ、と永井の作品に触れることで思い直す。永井の歌には、かろやかな諦念がある。たとえば、「あさ」と名付けられた連作と、末尾に付された散文。
ドラッグストアで何かの旗がなびいてる 僕は昔を思い出してる
テナントだけがぐんぐん替わる駅ビルの長いエスカレーターを下りていく
公園の入り口にある桜の木 黒いダウンの子供も見てた
子供のころよく遊んだ広場には今はすっかりビルが建って…いない。広場はそのままで別の子供が遊んでいる。わたしは喪失を心に折り畳んで大人になったという実感がない。マイナーチェンジを繰り返しつついつか一緒に塵になるのだろう。
子供から大人になったくらいの時間の変化のなかで、劇的なことなどなかったという。あるのはテナントが入れ替わるくらいの「マイナーチェンジ」だけ。ドラッグストアの旗も、駅ビルのテナントも、エスカレーターも、公園も、その入り口にある桜の木も、子供も、子供が着ているダウンも、マイナーチェンジを繰り返して、最後は一緒に塵になる。そもそもいまここにいるわたしも、何百年も前の他人のマイナーチェンジでしかないのかもしれない。かけがえのないたった一度の人生を、自分らしく大切に生きていかねばならない。そう思いつめては焦るばかりで華々しいことなどなにも起こらず、「ああ今日もなにもできなかった」と無駄に落ち込む日々を送るなか、永井の平熱の視線が捉える世界の手ざわりに、心が温まる。
プライベートがなくなるくらい忙しく踏切で鳩サブレを食べた
鳩サブレを会社の同僚にもらったのだろうか。鳩サブレは鎌倉土産。くれた相手は、鎌倉に旅行にでも行き、おみやげとして買ってきてくれたのだろう。それを踏切で食べる。余裕がない。時間がない。こっちは旅行になんて行けないのに。お皿の上に鳩サブレを載せる余裕すらない。踏切を待つほんの少しの間に食べる。鞄に突っ込んであった鳩サブレは、粉々に砕けていたかもしれない。
忙しさにプライベートは殺される。それでも次のような歌がある。
よれよれにジャケットがなるジャケットでジャケットでしないことをするから
いったい何をするのだろうか。ジャケットを着るとき、形式ばった、オフィシャルなことをする。会社に行ったり、えらい人と会ったり、崩してはいけないかたいことをする。そうしたことから遠い、「ジャケットでしないこと」をジャケットでする。どこか、強引で差し迫った性愛の最中、あるいは、寝そべってポテトチップスを食べるジャケットの人を思い浮かべる。生きていれば、ジャケットより優先したいこともある。
老人になったら何をするんだろう 床に紙コップを置いてみる
ただのコップではなく紙コップなのがいい(コップは洗うのがめんどうくさい)。老人になっても、紙コップを同じように床に置いているんじゃないか。人は生活して、生きて、生きて、いつか死ぬ。丁寧な暮らしができる人も、そうでない人も、何かしらをやり過ごして生きていく。第一歌集のタイトル「日本の中でたのしく暮らす」は、こんな日本で絶望しないでたのしく暮らしていくという覚悟だったのかもしれない。
君の好きな堺雅人が 電子レンジ開けてはしめる今日と毎日
あの堺雅人だって、電子レンジを開けてはしめる、そんな毎日を送っている。
フードコートでうどんを食べた僕たちは明るい光の花になりたい
雑多。即席。安っぽい。そんなイメージのフードコートがこれほど希望に満ちた場所として描かれたことがあっただろうか。見逃されてきた日常の風景を永井は描く。
人生とは、特別なことが起こらない日々の連続である。輝かしい未来がなくたって、たのしく生きていける。たかが生活。地味な生活。それをそのまま愛せたら、もう、無敵だ。