オリンピックが終わった。
今回はあまり見ていなかったのだけれど、最終日の男子マラソンをテレビで観た。
以前にフルマラソンを何回か走ったことがあって、わたしのタイムは4時間20分くらいで、札幌であったオリンピックで最後にゴールしたホンジュラスのイバン・サルコアルバレス選手の2時間44分36秒とも全然比べられないけれど、それでも、25キロを超えたところの苦しさ、給水で水を口に含んだときに一瞬楽になる感じ、途中で歩いてしまうときの身体の動かなさなどをテレビを観ながら想像することができた。
選手たちは、互いに言葉が理解できなくても、もっと共感しあえたのではないかという気がする。スポーツのよいところは、種目という形式を言語や文化の差異を超えて多くの人が共有するところにあるのだろう。
短歌にも似たところがあると思う。
短歌という形式を共有することで、わたしたちは、形式を共有する人たちとわかりあえる。わかりあっているというのが正確でなくても、すくなくともわかりあったような感覚をもつことができる。
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歌会で初対面の人の歌を読むとき、その人のことがよくわかるような気がすることがある。
そして、歌人に実際に会わなくても、その人のことが想像できたりもする。
短歌を始めてしばらくしてから、短歌とは関係のない心理学の講座で一緒になった友人の女性が、わたしが短歌をやっているのを知って、
「もう亡くなった私の祖母が短歌をやっていたんです」
と言って、祖母の歌集を貸してくれたことがあった。
一度も会ったことがない彼女の祖母の歌を読んでいくと、その祖母に親しみがわくし、歌集には歌集を貸してくれた友人(歌人の祖母からみた孫)のことを読んだ歌が収められていて、その友人とも共感しあったような気がしたのである。
実際の社会では、誰かとわかりあうことは少ない。オリンピックだって、100メートル走やスポーツクライミングは、すごいとは思うけれど、わたしには共感するという感じはない。その意味で、短歌という競技の共有は貴重なことのように思える。外国に行ってひさしぶりに母国の人に会って母語で話すときのような感じがする。
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オリンピックのあった8月前半、読もうと思ってなかなか読めていなかった歌集を順番に読んでいた。「人の生活」は同じ競技というには差異が大きいけれど、短歌という競技を観ていると、そう、25キロを超えたところから苦しくなりますよね、とか、給水で水を飲んだときはほんとに楽になりますよね、とか感じることができる。
身体はまた私を職場に連れて行く市営プールの脇をのぼって
毎日の誰のためでも無い時間出勤する前花に水遣る
(川本千栄『森へ行った日』)
受話器とるたびにコードは絡みゆき時々変な人につながる
「を」か「も」かで一週間もやり合つて稟議のための文書ととのふ
(田村元『昼の月』)
文具類いくつあっても欲しくなるなかでも虹の色の付箋紙
夫婦だからこその一人の時間なり山鳩の鳴くこゑを友とす
(外塚喬『鳴禽』)