「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評164回 短歌の先生はいますか? 千葉 聡

2021-02-01 21:51:11 | 短歌時評

1 はるかなものを見つめる黒瀬珂瀾

 なんてきれいな歌集だろう、とうらやましく思いながらページをめくっていたら、ある歌に目がとまった。

  生なべて死の前戯かも川底のへどろ剝がれて浮かびくる午後


黒瀬珂瀾『ひかりの針がうたふ』

 いい歌だ。とてもいい。生と死の間に、小さなものが浮いている。しかもへどろだ。このささやかさがいい。
 若いころから黒瀬くんを知っている。彼はずっとスターだった。何をしても注目され、多くの人に愛されていた。正直、彼に嫉妬していた。黒瀬くんが話題になるたびに「彼はアイドルだから」と別枠の扱いをして、なんとか心を鎮めていた。だが、私が立ち止まっているうちに、気がつけば、黒瀬くんは歌の世界をこんなに豊かにしていた。
 歌集『ひかりの針がうたふ』(書肆侃侃房)の著者略歴には生年、出身地のあとに「春日井建に師事」とある。私はこの歌を思い出す。

  一瞬を捨つれば生涯を捨つること易からむ風に鳴る夜の河

春日井建『青葦』

 二首を並べてみても、一見、それほど似ているとは思えない。だが、二人の歌人のまなざしには、何か相通ずるものがあるような気がする。どちらも「」「」のありさまを詠んでいる。「午後」「」という言葉で日常のひとこまを装いながら、そこに死を忍び込ませている。「」と「」、「一瞬」と「生涯」というように魅力的な対比がある。そして何より、二人はともに、生や死の先にある、もっとはるかなものを見ている。
 黒瀬珂瀾は、春日井建に学び、春日井の描いた世界を少し引き継ぎ、自分の力でさらに深めようとしている。はるかなものを見つめながら。

  しばらくを付ききてふいに逸れてゆくカモメをわれの未来と思ふ

黒瀬珂瀾『ひかりの針がうたふ』

2 あのころは短歌の先生がほしかった

 二十代のころ、短歌の先生がほしかった。結社に入れば、その主宰者が先生になってくれる。だから「かばん」に入った。「かばん」は結社だと思っていた。思えば、二十代後半のちばさとは、無知な大学院生だった。
 入会したあとで真実を知る。「かばん」は同人誌。しかも「お互いを先生と呼ばない」「誰の選歌も受けない」という決まりがある。穂村弘さんや東直子さんに先生になってもらおうという淡い希望は、かなえられなかった。

  休職を告げれば島田修三は「見ろ、見て詠え」低く励ます

染野太朗『あの日の海』

 島田修三さんと染野太朗さんの関係も、うらやましい。悩みを抱えて休職することを決めた染野青年に、歌の師は「見ろ、見て詠(うた)え」と語る。復職する見通しを聞いたり、生活は大丈夫なのかと心配したりはせず、ただ短歌のアドバイスをする。この師は、創作を通して弟子が必ず立ち直ると信じているのだ。弟子も、そんな師の思いを受けとめ、この一首を詠んだ。この信頼関係の深さよ。
 穂村さん、東さん、そして島田さん、春日井さん。他にも「先生になってもらいたい」と思える魅力的な歌人は何人もいた。岡井隆さん、馬場あき子さん、佐佐木幸綱さん、伊藤一彦さん、永井陽子さん。だが、結局、私が誰かを師とすることはなかった。
 有名な歌人には、すでに多くの弟子がいる。その先生に教えていただくと同時に、たくさんの兄弟子、姉弟子とつきあうことになる。その人間関係の中に飛び込む勇気がなかった。それに、私が「この人の作品はすばらしいなぁ」と思える人は、そもそも結社の主宰ではなかったり、「弟子はとらない」と公言したりしていた。
 本格的に歌を詠むようになって二十年が過ぎると、自分より年下の歌人の作品が輝いて見えるようになる。その輝きを求めて、「年下の歌人に、師匠になってもらおうか」と考えることもあった。だが、それを実行したら、若い歌人に迷惑をかけてしまう。
 結局、私は誰にも師事しなかった。私に賞をくれた、短歌研究新人賞の選考委員のことは「先生」と呼んだし、大学院でご指導いただいたお二人の歌人も「先生」だ。だが、どなたも短歌創作の先生ではない。
 短歌の先生がいないと、誰の選も受けずに短歌を発表することになる。だから私は編集者と読者から学んだ。みなさんにいただいた感想から、作品を磨き直したり、次の作品の構想を練ったりした。
「千葉くんは、ちゃんとした歌人のもとで学んだほうがいいよ」
 三十代のころは、年上の歌人によく言われた。結社に入るということが、まだスタンダードだった。だが、この十年ほどは、「〇〇に師事」と言わない歌人が目立つようになった気がする。
 短歌の先生を求めるのは、もう時代おくれなのだろうか。

3 世界最強の文学博士・外間守善先生

 世界最強の文学博士といえば、沖縄の古典『おもろさうし』研究の第一人者・外間(ほかま)守善(しゅぜん)先生だ。
 社会人になって三年間だけ働き、学費を貯めてから大学院に進んだ。渋谷の東、あこがれの釈迢空のいた國學院大學の大学院である。
「千葉君は、教育学部から来たから、文学研究の基本がわかっていない」
 新聞や雑誌を賑わすスター教授たちは冷たかった。ただ一人、味方になってくれたのが、沖縄学の外間守善先生だった。
「小賢しい理屈ばっかり並べたって、それで文学研究が進む訳じゃない。今日はもう、おやつにしよう」
 外間先生は、最初の授業に、草餅を買って来てくれた。本を開いて二十分ほど議論をしたら、あとはおやつタイム。草餅はおいしく、先生が話してくれた世界各地での冒険談は面白く、みんな大爆笑した。
 外間先生は、剛柔流空手八段。野球と陸上で国体に出場している。ロマンスグレーの髪、いたずらっ子のように輝く瞳。声は朗々と響きわたり、文学だけでなく、音楽も美術も、政治も国際情勢も、すべてを題材にして講義してくれる。とにかく格好良かった。先生の追っかけをする女子学生も少なくなかった。
 先生は、学生が自由に意見を述べることを好んだ。学生の意見を否定せず、どんな言葉にも「うん」「なるほど」「面白い」とうなずいてくれた。そのあとで言った。
「このことについては、千葉君、どう思う?」
 大学院生の中で、いちばん背が低く、弱々しかったのは私だ。外間先生は、そんな弱い千葉に目をかけてくださった。おやつタイム中に、私は何度も意見を求められ、なんとか答えているうちに、議論そのものが楽しくなってきた。不思議なことに、外間先生との議論を通じて、受講生たちは、いつのまにか一人ひとりが研究につながるヒントをつかんだ。
 やがて外間先生は大学を離れ、本郷の角川ビルの中に「沖縄学研究所」を開設した。大学院からは、佐藤公祥君と私が呼ばれ、学業のかたわら先生のお手伝いをした。平成八年、外間先生が『南島文学論』により角川源義賞を受賞すると、新聞や雑誌の記者が先生を取り囲み、東京でも那覇でも祝賀会が開かれた。
「外間さん、あんたの言ってることはデタラメだ。デタラメだと認めろ!」
 外間先生の成功を妬んだのだろうか、酔っぱらった男が、祝賀会に乗り込んできたことがあった。周囲はざわつき、佐藤君と私は先生のもとに駆けつけた。だが、先生は右手を男に突き出し、動じない低い声でおっしゃった。
「どうかされましたか。何かあったのなら、いくらでもお話をうかがいましょう」
 男は肩を落として泣きだし、人生全般にわたる愚痴をこぼして立ち去った。外間先生は、ただうなずいて聞いていた。
 祝賀会から数か月がたち、穏やかな日々が戻ったころ、外間先生は私に「芥川賞を取れ」と言った。
「千葉君はまだ若いが、君にはじつにいいところがある。それを書いてごらん」
 私は誰にも内緒で、文芸誌の小説新人賞にたびたび応募していた。外間先生は見抜いていたのだ。
 小説では芽が出なかったが、平成十年、私は短歌研究新人賞を受賞した。外間先生はたいへん喜んでくれたが、あくまで「次は芥川賞だ」と言った。やがて私も、新聞や雑誌に、短歌やエッセイを書くようになった。歌集もエッセイ集も刊行し、外間先生にお届けした。それでも先生はやはり「次は芥川賞だ」と言った。
 外間先生が亡くなってからも、たびたび先生を思い出す。ヒルトンの『チップス先生』も、魯迅の『藤野先生』も、テレビドラマの『3年B組金八先生』も、みなそれなりに格好良かったが、外間先生はもっと格好良かった。
 私は文学の、いや生き方すべてにおける師を持っていた。だから、短歌の師を持たなくてもやっていけたのだ。2月に刊行する新歌集には、「世界最強の文学教授」という章を入れた。

  「難しい理論はもういい。君はどう思う?」と笑う外間先生
  フィールドワークノートの隅に残された 外間青年の空色の字は

千葉聡『グラウンドを駆けるモーツァルト』

 教師の仕事に疲れ、夜中の原稿書きに行き詰まると、今でも必ず外間先生の「次は芥川賞だ」という声が聞こえてくる。