『ちんちん短歌』に出会ったのは本当に偶然のことだった。昨年11月の文学フリマ東京で、私は急きょ所属する俳句誌『むじな』の店番をすることになった。それで、店番をする以上、近隣の出店者の方がどのような作品を出されているかを知っておくべきだと思い、ウェブカタログを眺めたときに出会ったのが、隣のブースに出展していた藤田描『ちんちん短歌』だった。ウェブカタログには次のように記載されていた。
われわれ、ちんちん短歌出版世界は、ちんちん短歌を出版するための世界です。ちんちん短歌を出版するためなら、基本的人権以外何でもします。今回出版する第一歌集『ちんちん短歌』は、ちんちん短歌を千首収録しました。千のちんちんの世界です。そのために世界を作りました。
正直なところ、この説明文だけを見ても疑問が募るばかりだった。そこで、すぐさまウェブカタログに掲載されていた藤田氏のツイッターアカウントに向かい、そこにアップされていた作品の一部を見ることにした。
ちんちんのかたちを決めているはずがむかしの傷をなぞりあってる
ちんちんを社会から隔離するほどの罪とは 罪と共にあるとは
もう少し暗くなっても法的にちんちんを出させない国の暮れ
アップされていたのは、1000首ほど収録された歌のうちの394首目から429首目までのページ。このページだけでもなんとなくちんちん短歌の概要はつかめる。すべての歌に登場するのは、「ちんちん」という児童語。どうやら、歌集名が表すように短歌のなかにこの単語を必ず入れる。これが(後述のように正確には違うのだが)この歌集の特徴のようだ。
それにしても、言葉の性質上、どうしてもセクシュアルなニュアンスやおもしろみが付加されてしまいそうなものだ。もちろん、アップされていたページにもそうした歌はあったし、その後購入したこの歌集の中にそうした歌が少ないわけではなかったのだが、上に挙げた3首はどうだろうか。物質的なものとしてだけではなく、概念的なものとしてもとらえ、心的な側面、社会・国の姿など、深いテーマに切り込んでいる。言葉をある一側面だけで決めつけるのではなく、さまざまな側面がないかをよく考察・検討し、言葉の持つ可能性・言葉が生み出す可能性を拡張しているようには見えないだろうか。俄然、私の期待は高まるばかりだった。
そして迎えた文学フリマ当日。会場に着くなり、すぐに『ちんちん短歌』を購入した。頒布価格は1000円。会場で藤田氏も売り文句にしていたが、1首1円の計算だ。
そんな『ちんちん短歌』には、どうしてこの短歌を作るに至ったかなど、4つの小文も掲載されている。そこから藤田氏の考えるこの短歌の定義を抽出してみると、次の通りになる。
①単語として入っているか
②他の単語に置き換えていないか
③単語として直接歌に詠まなくても存在を読者に意識させているか
①は同書によると、「僕はクロちゃんだちん。鎮護国家のための仏教の利用は許されない」のように、連続した際の音として歌に入れるのではなく、辞書的な意味そのものとして歌に詠みこむということ。ただし、③が示すように、単語として歌に直接書かれていなくても、そこに確かにあるのだという存在感が重要になってくる。幽霊が直接現れなくとも、存在が意識・強調され、そこにいたのではないかという実感が現れることがあるが、それに似ている。そのため、①と③は存在そのものに対する定義と言えよう。
それに対して、②は言語意識としての定義になる。ちんちんに類する単語はほかにもあり、四文字だったものが別の字数になることでリズムが変わり、使用できる助詞なども同様に変化する。しかし、藤田氏の考えでは、それは「短歌のために短歌を詠むような言葉の使い方」であり、「格好悪い」のだ。 それに、別の単語に置き換えた場合には、元の単語と意味が少なからず変質してしまう。あくまでも、この単語からどこまで可能性を生み出せるか。言語に対する真剣さが伝わる。
さて、そのような定義を持つちんちん短歌だが、この定義により、歌自体にも特徴が現れてくる。
ちんちんを遠近法で描いている ちんちん遠く山の向こうに
ちんちんに骨はないので一億年たったらきっと何もなくなる
ちんちんの静けさ 読書していても泣いてる事に気づけない夜
まず、当然のように四字のこの言葉は助詞との結びつきが抜群に良い。「を」「に」「の」ほか、あらゆる一字の助詞と結びつく。それは、単語そのものから何を生み出せるか考えるのはもちろん、助詞およびそれに付随するものの可能性を考えることにも通じはしないか。掲歌3首は、いずれもほかの助詞におきかえ、歌を少し変えることができる。「ちんちんは遠近法で描かれをり」、「ちんちんは骨がないので」といった具合に。そうしたさまざまな可能性を考慮したうえで、最善の書きぶりに歌が近づいていくのだ。
また、定型の面から考えられることでもあるが、圧倒的に初句に置かれていることが多い。初めて初句以外に「ちんちん」が登場するのは、128首目の歌で、それまではすべて初句におかれている。さらに、正確な数は数えてはいないが、129首目以降からは体感として2首に1首ほどの割合で初句に置かれた歌が登場する。リズムの面を考えると、同じようなリズムで始まる歌が連続するわけだから、これはあまり好ましくないことに思えるかもしれない。しかし、歌集単位で考えると、「四字の同じ単語+助詞」の形が一番目に留まりやすい最初の部分に連続して登場するわけだから、言葉が嵐のように降り続く感覚を受ける。そのため、一つ一つの歌というよりは、それで一個の集合体のように見えてくる。それはまさしく藤田氏の提唱する「世界」そのものなのかもしれない。
ちんちんが死んでも出川哲郎はわさびを食べて泣くと思った
ちんちんのないドラえもん達からの教育を受けた世代から来た
続いて、この単語が児童語であるということから、キャラ的なものとの親和性が高いことが挙げられる。児童向けの漫画雑誌『コロコロコミック』では、出ない号はないというほどに連載されている漫画内に「ちんちん」が登場しており、記念すべき創刊500号を記念して、2019年には「うんこちんちん総選挙」なる驚くべき企画が実施された(ちなみに、この総選挙は昨年も実施され、どちらも「ちんちん」側が勝利した)ほどだ。青年向け漫画ではリアルな人物像描写・ドラマが求められるのに対し、児童向け漫画ではわかりやすいキャラクター造形などが重視される。そのため、児童語として戯画化された「ちんちん」も必然的に親和性が高くなる。
歌に戻ると、ちんちん短歌ではこの特徴を生かしたものが多い印象を受ける。漫画のキャラクターと同じく、芸人やタレントには自身を一種のキャラ化してしまう人も多く、そういった人物との相性は良い。出川哲郎はリアクション芸人としてキャラ化されており、「ちんちんが死んでも」というフレーズと併用されてもさほど違和感を覚え難い。しかし、なんでもいいのだが、出川哲郎を例えば坂上忍にした場合、たちまちに違和感が生じてしまう。これは同様に、出川哲郎をそのまま使ったとしても、「ちんちん」部分を児童語ではないものに置き換えてしまうと、生々しく、違和感の原因になりかねない。『ちんちん短歌』にはほかにも、カズレーザーやマツコデラックスなど、キャラ化された芸人・タレントが歌に登場する。もちろん、ドラえもんのように、それ自身がキャラクターという存在もだ。
ちんちんと似てる形のミサイルで今出す精子分死ぬらしい
ちんちんで地図を突き刺しその穴は原発ふたつ分の広さだ
ちんちんを見せたら罪となる国でオザキユタカを口にしている
逆に、その違和感を利用したと思われる歌も多い。戦前に国内で『のらくろ』が流行したり、ウォルト・ディズニー・プロダクションが『総統の顔』というアニメーション作品を制作したりしたように、キャラクターはときに政治的側面との親和性をも見せる。「ミサイル」「原発」「罪となる国」のいずれも、それ自体として負の要素を持ちうる言葉だが、そこに児童語であるちんちんを使うことで、一見おちゃらけたように思える言葉との組み合わせから、その負の側面が強調されはしないだろうか。三つの定義を忠実に実践したがゆえに起きるこの「世界」の特徴と言えそうだ。
ここまでこの歌集の特徴を見てきたが、残念ながら『ちんちん短歌』の紙版は30部しか発行されておらず、入手は難しい。というより、入手はまず不可能だ。しかし、藤田氏のnoteを拝見したところ、現在ではデータでの形で販売がされている。また、今年の5月には増補改訂新装丁版の『ちんちん短歌』も文学フリマで頒布するようだ。興味を持った方はぜひとも一読していただきたいと思う。
最後に、この歌集を生み出した藤田氏に向け、『ちんちん短歌』の冒頭に記されていたこの言葉を贈りたい。
「ちんちん短歌っていいよねー素晴らしいよねーうひゃあー」。