「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評 第111回 生活の引き受け方 西巻真 

2014-07-05 10:50:19 | 短歌時評
 つまらない私事から書き始めることになるが、先日、「いとこ」の結婚式に出かけてきた。私の「いとこ」は女三人姉妹で、三人とも私が子どものころから、年が近いということでいいろと遊んでもらった仲である。その「いとこ」もとうとう三人とも結婚をし、そのうちの二人にはまだ1歳になるかならないかの子どもまでいる。

 こんなことを書いている私も今年で三十六歳になる。私自身は当面子どもを作るなどもってのほか、結婚をする気力さえないのだが、年が近く、子どもの頃からよく知っている「いとこ」もとうとう全員結婚し、親類のなかに「赤ん坊」という未知なる存在が生まれたことで、なんとも言えず、自分の境涯も少しだけ変化しているのかな、という気持ちになったのである。

 そんな結婚式の日に手にとって読んでいた歌集が、大松達知の第四歌集『ゆりかごのうた』と、松村正直の第三歌集『午前3時を過ぎて』(ともに六花書林)である。

 二人とも結社は異なるが、私ごときの比較にはならない大先輩の歌集だ。そんな二人の歌集を手に取ったとき、どうしても制作された時期に目がいってしまう。

 大松の歌集は二〇〇九年から二〇一三年まで、三十八歳から四十二歳までの作品であり、松村の歌集は二〇〇六年から二〇一〇年まで、三十五歳から四十歳までの作品である。

 この雑文を書いている私の年齢にかなり近い年齢で歌を作っている。私は古い歌人の歌を読むときも、なるべく自分の年齢に近いところの歌集を引っ張り出して読むように心がけているので、大松の歌集も松村の歌集も、どちらも自分の年齢に近い歌という事で親近感が沸いた。

 詠風もまったく異なるように思われる二人の歌人が、共通した志向を持っているとすれば「生活を引き受けている」ということだろう。そのうえで作者自身の年齢に相応しい、等身大の歌を歌おうとしている点に注目した。

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 大松達知の『ゆりかごのうた』は、私個人の読みのスタンスからすると、かなり評価に戸惑う歌集だった。初読で歌集を手にとったときは、どこがいいのかさっぱりわからないという類の批評をあやうく書きかけた。ところが前述の結婚式に出かけて、久しぶりに親類と顔を合わせて普通の生活をいろいろと垣間見て帰って来ると、「こういう歌が作られる普通のしあわせを引き受ける」という側面も、詩歌にはあるのだなという納得感が、じわじわと自分のなかに沸いて出て来る感じがした。

 大松の歌集は前半に職場詠や時事詠が多くまとめられており、後半100ページ目あたりから生まれて来るわが子への愛情に満ちた歌が並んでいくという構成になっている。その大松の愛情はときにこんな歌を作らせる。

うんちうんちうんちこんなにうんちなりうんちを待つてうんちを喜ぶ

 最初に読んだ時、正直、こういう歌は勘弁して欲しいと思った。これがいくら健康上の理由で赤子からうんちが出てくるのを待っていて、それが出て来た時の喜びを歌ったものだとしても、あまりにも品格に欠けるというか、言葉に清潔感がない。何より私には歌の背景がわからなかった。子どもを持つことに対する想像力がそもそもなかったので、なんとなく無自覚な親バカの歌のように思えたのである。

 ところが、実際にこのくらいの年齢の子どもを目にすると、その背景というか、子どもへの愛情という言葉だけでは語れない、子どもを育てることの親の大変さのがうっすらと垣間見えて、いくらかこの歌もわかるような気がした。歌集を通読していくと、目の前にある生の力を全力で肯定する、というスタンスに貫かれた、潔い歌であるように思える。

哲学をしてゐるやうに眠りをりけふのおまへはけふしかゐない

おほげさに言へば命に一献の朝ひとり飲む父として飲む

くらぐらとああぐらぐらとわが子なりトゥエンティー・ミニッツ・オールドのわが子を抱く


 大松の家族詠には、基本的にリフレインが多く出て来る事にも注目したい。「けふのおまへはけふしかゐない」という今を生きることを全肯定するようなフレーズは力強いし、「朝ひとり飲む父として飲む」というたたみかけるようなリフレインがややドキュメンタリー的な効果を上げていることは強調しておいていいだろう。「トゥエンティー・ミニッツ・オールド」という把握からは、その子どもが生まれた一瞬一瞬をしっかり歌にしていこうという覚悟すら感じて、 ここまで来ると潔いとむしろ思う。

 大松の歌は、基本的にぶっきらぼうでかなり生活臭い。私が歌を作るときに、まず歌にはしないだろうというところをぐいぐいと歌にしてくる。

頬張りて生の力をもらひをり頬張る朝のキムチ牛丼

飛ぶ鳥のアスパラガスをアスパラと呼んでわたしは小ッ恥(こっぱ)づかしい

ハケもちてお好み焼きにタレを塗り四十歳を祝ひたりけり

人生、と言ひ過ぎるつて糾されて今宵の締めの板わさが、キタ


 どちらかというと私がいいと思った歌ではなく、自分の感覚をひとつのものさしにして、大松と自分とのスタンスの落差が顕著に表われていると思った歌を引い
て見た。

 まず一首目、私はどう頑張ってもキムチ牛丼で歌が作れるタイプではない。こんなに肉感もりもりのキムチ牛丼は大松達知の歌の世界だろう。伝わってくるのは美しさではなく、むしろ生きることそのものに何の衒いも感じていない歌人の姿である。美しさよりも生きる「力」を肯定しようとする大松の作歌信条が見えて
くるようだ。

 二首目は、ぶっきらぼうに「小ッ恥づかしい」と言ってのけるのが爽快なのだろう。こういう歌いぶりは私などから見るとファールのように見えなくもないのだが、力業であえて下の句に「小ッ恥づかしい」とつけるのは、かなり意図的にやっている感じがする。コミカルな歌いぶりのなかに、はっきりものごとを言い切る姿勢を感じる。

 三首目は完全に吉川宏志の歌「四十になっても抱くかと問われつつお好み焼きにタレを塗る刷毛」を踏まえたものだろう。私は吉川のこういうタイプの歌はなんとなく下世話な気がしてあまり得意ではないのだが、大松には繰り返し立ち現れる生活詠として、常に印象に残っていたのだろう。

 四首目は結句のキタである。この『ゆりかごのうた』ではかなり大胆に口語の、しかもかなり思い切った話し言葉を導入した歌が印象に残る。他にも「ヨイショッと言へば私は日本人ヨイショッと言つて吉野家に座す」「いつのまにか実家の鍵は失せにけりベル押せばハイッと父の声する」といった歌の、「ヨイショッ」という言葉や「ハイッ」というかなり思いきった言葉使いを想起した。

 大松達知のこの歌集からは、特に日常のなかに美よりも「力」や「勢い」、いのちそのものの鼓動をまるごと捉えようという熱意や覇気が感じとられる。私は最初これらの歌が持つ魅力をうまく捉え損ねていたが、それは私のスタンスというより私の欠落がそうさせるものなのだろうと思った。人生の苦楽を少し味わった読者なら、すぐにこの歌集の魅力に気がつくはずだ。

 特に年齢を重ねていった読者が、「自分の場合はこうだったなあ」という体験を重ね合わせて参照することができるタイプの歌が多い。そういう意味で、大松の歌はしっかりと地に足をつけて歌われている。

 私は軽々しくいのちを結論に持って来るのが好きではないが、大松の生命への全肯定を眩しく思うのである。

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 松村正直の第三歌集『午前3時を過ぎて』は、大松の歌集とは全く異なるアプローチで詠まれている。その歌は生活感に裏打ちされていて、どの歌も平明で簡素な表現であるのは間違いないのだが、一首一首の均整がとれており、何より読後感が深い。読み手を幸福な読書空間のなかに誘わせる、静謐で落ち着いた歌が並んでいる。

右端より一人おいてと記されし一人のことをしばし思うも

ハンカチをかぶせるだけの子の手品われは見ており日曜の昼間に

万歳の声と言えどもしずかなり無投票での再選を終え


 巻頭近くの3首を引用した。松村がこの時期に心を寄せていたことは、人間の営みのなかでふと無視されてしまうような、そういうささやかなものへの愛着なのではないだろうかと思った。一首目はおそらく写真などで「右端より一人おいて」と飛ばされてしまうひとがいるというシーンなのだろうが、誰かが指さしたその人ではなく、飛ばされたひとのほうに目が行ってしまうというあたりに、作者が心を寄せている部分が見えてくる。

 二首目は何気ない子どもの歌のように見えるが、ハンカチをかぶせる「け」の「だけ」という表現にどこかもの悲しい作者の心情が見えてきて、思わず心をうたれた。ハンカチといううすい素材でできたものをかぶせるだけ、という手品のかるい存在感が絶妙で、淋しさが際だってくるようだ。

 三首目も「万歳」という本来ならば賑やかなものごとを、しずかなり、という言葉で言い表すというあたりに、単なる言葉つきだけの遊びではない何ごとかを感じて思わず立ち止まった。下の句の「無投票での再選」という把握がしずかなりを強く補強していて、ものがなしさを漂わせている。


礼状を書きなずみいるゆうぐれに遠く汽笛の音は響きぬ

すれちがう人の多さが春である疎水のみずを渡りゆくとき

蛇口より時おり落ちる水音の、立場が人をむずかしくする

サラダには手をつけぬまま海に降るあかるき雨をこの人は言う

遠き日を忘れずにいる指先が机上に冬の鶴を折りたり


 一見しずかで派手なところはないが、一首一首に静謐な抒情が湛えられており、思わず付箋を貼りながらどの歌を選ぶかにとても迷った。一首目は言葉使いとしては平明で、構図も手元から遠いところへといういたってシンプルな構造をしているが、こういう簡素な表現で感動が伝わってくるのは作者の精神の澄んだ部分が良く出ているからではないかと思った。

 二首目、春の感触を感じ取るのに、「すれちがう人の多さ」を見つけ、春である、で一回切れる。その呼吸がとても心地よく響いてくる。疎水のみずを渡りゆくときという下の句も均整がとれていて、決してゆるむところがない。

 三首目、蛇口より時折落ちる水音の、で一回短歌的な「の」の切れ方をして、そのあとに全く異なる情感を入れるのは正統的な短歌の技法であるが、この歌もその使い方を踏襲しながら巧緻に作られていると思った。「立場が人をむずかしくする」という下の句は、上の句と遠からず近からず、それでいて具体に立脚している。

 四首目、五首目は、情景がうつくしい。

 サラダというやや西洋風な素材と「海に降るあかるき雨」という取り合わせ。遠き日という感傷的な素材に、机上に冬の鶴を折るという行為の静謐さ。

 どちらも王道的ではあるが、いずれも過不足がなく、均整のとれた作りになっていて、決して古びた感じがしない。

 松村の短歌は、日常に立脚しながら、その裏側にある淋しさや美しさを丁寧に掬い取って来ようとする。決して難解な表現に陥ることがない。簡明であることを忘れずに、多様な美しさを見せようとする松村の姿勢には深く胸を打たれた。

 大松も松村も、三十代後半、あるいは四十代というちょっとした人生の分岐点のようなところで、それぞれの日常に立脚して歌の幅を拡げようとしている。その二人の生活の引き受け方を、私自身も参考にしていきたいと思いながら歌集を読み終えたのだった。