「詩客」短歌時評

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短歌時評 第104回 「女性性」という視点が取りこぼすもの 山崎聡子

2013-10-13 01:11:26 | 短歌時評
「女性性」という視点が取りこぼすもの
~野口あや子『夏にふれる』批評会と『にこたま』に思うこと

 『にこたま』(講談社刊)という漫画をご存じだろうか。『にこたま』は、つきあって九年目のアラサー同棲カップルを主人公にした人気コミックで、“物心ついたらデフレ”世代の心の揺れが、これでもか、というほど痛々しく描写される。主人公と同年代にあたる筆者にとっても、“家事労働を含むあらゆる義務を分担し合う”ことや“男女関係がフラットである”ことは、気づいたら否応なくそうなっていただけの話であり、主人公カップルの低体温ながら互いに義理を果しあう感じは、現代の恋愛関係のリアルな一面を確かに映し出していると思う。
 しかし、ある日、資生堂のPR誌「花椿」の穂村弘と作者・渡辺ペコの対談を読んで、そういう見方もあるのか、とちょっとだけおどろいた。なぜなら、穂村が、『にこたま』の主人公ふたりの関係を指して、「あまりにフェアな感じが恐ろしい」という趣旨の発言をしていたからだ。そのときは、なるほど、と軽く納得しかけたのだが、すこし腑に落ちない感覚が残ったのも事実である。
 前置きが長くなったが、なぜ短歌とは関係ない話をつらつら書いたかというと、野口あや子『夏にふれる』の批評会での女性性に関する議論に、「花椿」を読んだときに感じたかすかな違和感が頭をもたげてくるのを感じたからだ。批評会の席上、穂村は、野口の以下のような短歌に、「本来、主体性を確立しえない女性の生きづらさ」というキーワードで解説を加え、野口がときに投下する暴力的な自我を、「テロリズム・爆弾」と評した。

煙草いい? ジッポを出して聞かれたりいいよと答える前に火が付く   野口あや子
捩られたからだが戻らないとしてもそこから花粉をこぼしてはだめ    
精神を残して全部あげたからわたしのことはさん付けで呼べ       
こちらから抱き寄せたいといつも思うそのたびいつも風はおきたり
男より女が偉いと思うとき色とりどりのコンセント抜く


 野口の歌には、性愛的な描写が多いのは確かではあるし、もう一人のパネリスト・平岡直子が「裸身という衣装」という表現で指摘したように、自らの肉体のみを武器に切り込んでいくような危うさが、彼女の歌に凄味を与えていることは紛れもない。しかし、それは本当に、女性で、若く、小さく、権力がないゆえの虚勢なのだろうか? 主体性を確立しようというあがきの中から生まれてくる叫びなのだろうか?
 例えば、「年上の男性から軽んじられる若い女性の私」という文脈で読み解かれていた一首目のジッポの歌は、『にこたま』的文脈でいえば、お互いを軽んじ合えるような気の置けない関係、という読み方をすることもできる。また、「セックスのときに体を捩じられるのは女性」というのも、物理的にはそうかもしれないが、共犯的な親密さのなかで行われる行為であるがゆえに、どっちが上位・下位というのとはまた違う感じがする。

水族館にタカアシガニを見てゐしはいつか誰かの子を生む器        坂井修一
たれの子も産める体のかなしさに螢光に照る葡萄をほぐす         加藤治郎
夕顔のラッパは疾うに告げてゐる すべての女は代理母である      米川千嘉子

 坂井と加藤の類歌をあげるまでもなく、ある世代までの男性の短歌には、“受け入れる側”の性として女性が描かれることが多く、女性歌人の歌にも、それが受容であれ葛藤であれ、“産む性”であることのへの言及が意識的に盛り込まれてきた。また、その性差への強い意識と拘りが、“女性性”という薄ぼんやりとしたキーワードが用いられ語られてきた理由だろう。しかし、『にこたま』的空気を当たり前のように呼吸する世代では、女性側にも、男性側にもそのような意識は希薄になっているのではないだろうか。

米川 私たちのころは、女と男が一緒に生きていくときの、ある種の価値観の戦いとか
    すり合わせ、そして、いろいろな経験を経て望ましいものになっていくという、
    青春の物語みたいなのがあったというような気がします。そういうものは今は違
    うんでしょうね。感覚として。
大森 そうですね。歌に向かうときは自分が女性ということをあまり意識しないように
    しています。もっと透明なところから歌いたいという思いがあります。
  (中略)
大森 恋とか愛を考えるとき、性別、性を通り抜けて何もなしで考えることはできない
    ので、もちろん意識はするのですが、女性性を歌にすることへの抵抗があって、
    それがなぜなのか、自分でもよくわからない。

(「角川短歌」2013年8月号)


 以上は、今年、大森静佳と米川千嘉子との対談からの抜粋である。相聞歌というくくりで語られることが多い大森の歌にも、性愛はもちろん描かれる。しかし、それは、自我をもった人間の精神の表出であり、性愛はその他のあらゆる身体的な感覚と同列のこととして観念的なフィルターを通して描写される。世代でくくるのが乱暴であることは承知のうえで、米川の世代が、性をことさら意識し、“戦ってきた”感覚があるのに比して、大森は性差を受容し、フラットな状態にならしたうえで、性を歌に詠みこんでいる感じがある。
 例えば、このような歌に、それを強く感じる。

性欲に向きのあることかなしめりほの白く皺の寄る昼の月         大森静佳
産むことも産まれることもぼやぼやと飴玉が尖ってゆくまでの刻     

 野口本人の弁によると、彼女は、八百数十首、という非常にボリュームのあるこの歌集を、瞬間瞬間を切り取るように、“千本ノック形式で”編んだそうである。その言葉のとおり、『夏にふれる』の膨大な歌のなかには、第一歌集には見られなかった風景や景色、感覚や感情が重層的に描かれており、女性性、というくくりでは取りこぼしてしまうものの比重が厚みを増しているのを感じる。
 新人賞の批評等でも、相変わらず作者の性の別がことさら強調されたりする場面があるが、野口を含めた若い世代の歌を語るとき、フェアでフラットな『にこたま』的視点が必要ではないか。そもそも主体性を確立しようともがくのは、男女問わず、多くの人の人生についてまわる呪いのようなものなのだから。