詩人にとって絶対的に必要な視線とはどんなものか?と考えた時、辺見庸という詩人が頭に浮かぶ。とくに東日本大震災の後、日本という国の原型が浮き彫りになり、私は今まで書いてきた言葉が瓦礫になってしまったような気がした。その時辺見氏のものを視る眼が私の立ち位置を示しているように思えた。
死刑制度に疑問を投げかけている辺見庸の「生首」という詩にも魂はそそり立っている。
一見優しげに語られる善も、絆という言葉も花は咲くと歌われる歌も私は拒否する。人間の生と死はそんなオブラートにくるまれたものとはかけ離れている。
辺見氏が四半世紀以上前にカンボジアの国境付近の難民キャンプで次々と亡くなっていく難民の人たちの遺体をテントに運んでいくシスター達を西側のジャーナリストとしての眼で写真を撮った時、シスターは怒りと軽蔑の念で「ノー!」と叫んだ。その時の辺見氏の見る者としての恥辱がその後の彼の感覚に影響を与えている。「外延から内周の闇にも毒にも染まることなく、ただ見る動作の尊大と無責任の罪。屍臭を逃れるぶんだけ濃い恥のにおいが漂う」と辺見氏は書いている。
震災をテーマに書かれた「眼の海」にも一貫して彼のまなざしには外延からではない、上からではない対象の内側に入り込もうとする強い意志が感じられる。「眼の海」に書かれた詩は、自らが海になり、死者になり、骨になり、眼になって書かれていて衝撃だった。詩人としての視線に強く惹かれた。
死者にことばをあてがえ
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる それだけしかないことばを
吸わせよ
類化しない 統べない かれやかのじょだ
けのことばを
「死有(しう)」という仏教の言葉を辺見氏は好きだと書いていた。「死有」は今まさしく死んでゆく人の視線のことだ。辺見氏のまなざしには「死有」の視線があった。
もっと純粋に見なければならない。上からではなく外からではなく、冷静に淡々と、自分の目線を鍛え上げなければならないと強く思っている。感情過多の視線も、同情の視線も何の役にも立たないことを思い知る。
世界がまるで流動しているような今、現在に生きているものとしての視線をいつも意識して書き続けなければならないと思う。
たぶん視線は匂いを放っているだろう。ねばねばと沈み込むような重たさの匂い、それはけして香りなどというさわやかさも、花のような甘さもないはずなのだから。