わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第113回 -入沢康夫-鈴木東海子

2013-11-19 22:35:53 | 詩客

入沢康夫の詩の声「わが出雲 わが鎮魂」へ

 銀杏が紅葉して黄色や緑色の葉を点描画のように庭にふりかけると思いだすのである。絵画を見たように形を見たように強い印象がそのまま入ってくる詩がある。その詩人の詩を今年になってあまり読む機会がなかった。
 詩集年表の制作に入って以来、女性詩人の詩集を読むことが多く一日に数冊ほど読む習慣がついて詩誌も全頁に目をとおすのである。好きな詩を読む時を持つことが少なくなっているのに気がついてはいるがどのくらい時間がたったのか考えることもなかった。
 その詩集は常にここにある。箱入りの詩集と、表紙はなく半分の頁との二冊の詩集である。入沢康夫詩集「わが出雲 わが鎮魂」で、1968年発行だが、最初に手にしたのは1977年の復刻版であった。
 詩集は、「わが出雲」と「わが鎮魂(自注)」の二部になっており、前半詩行の頁だけのがここにあるのだ。それは朗読するための本にしたからなのである。好きな詩に出会ったら声で読んでみると分ることがある。だがこの詩集はあまりにも難しく思われたが、九十年代に文体の声がだせるようになったので「歴程セミナー」で、著者を前にして四百十五行を朗読した。
 自注により詩の解読はできるが、詩形の多種多彩及び表記にはなれない言葉が続出するのである。全十三章から構成され各章によって詩形や長さが異なり旧字体で書かれている。漢字は読めるにしても正確とはかぎらないので朗読する時は、できるだけ作者に聞くことにし確認している。この読本にした詩集にも書き込みがかなりあり当時は分からない言葉があり学んだのである。
 言葉で形を見せる詩行は初めて知ったのだ。第二章の交叉する詩行は<千木>の形に言葉が並んでおり詩を書くことの内で考えつかないほどの斬新さに驚くと共にこの分野の進みを感じたのであった。視覚的要素に重点がおかれているようにみえながら物語性が道すじを示しているのであった。神話があり叙事詩があり重層性の高い構成になっているのだ。
 さらに詩行が逆さに書かれているのはどのように読めばいいのか。入沢康夫は美術をやっていたのではないかと思えるほどであった。
 「わが出雲」は執筆時ホテルにこもり全行書くまで立っていたと言うのである。四百十五行の全行に気迫がはいっているのは、そのような書法の反映といえるだろう。
 それで朗読はどうでしたかと聞いてみると<大蛇>は<おろち>と読んでほしいと言われたので、他はとさらに聞くとただ笑っているのであった。<自注>のほうもこれのみで詩になるのではと話してみると「簡単です。」と言われた記憶がある。それから十年して、詩集「かりのそらね」が2007年に発刊された。二冊本で「偽記憶」と「かはず鳴く池の方へ」である。装画は前述詩集の「わが出雲 わが鎮魂」と同様に、梶原俊夫の画による。どのような手法においても新書法には、十年が必要であった。念入りな調べと発想と知識が組合わされて詩になっている。
 終章、XⅢの七行を引用する。

 

昆売(ひめ)の埼(さき)
旅のおわりの
鴛鴦(おし)・鳧(たかべ)
浮きつつ遠く
永劫の
魂まぎ人が帰って来る

意恵(おえ)!

 

 結びの章が感動するのである。終行を全ての声をのせて発すると光る道すじが見えるのだ。好きな詩についてふれることでここまでたどり着きたいと思った。なんとかたどり着いたのが2012年である。常に二冊の詩集がここにあり充実を手にすることができるのである。

 

 


私の好きな詩人 第112回 -フランツ・カフカ-倉田比羽子

2013-11-19 00:56:56 | 詩客

カフカの「観察」

 

 世界は風景のなかに生きている──。この歳になると日々、ぼんやりと外を眺める時間のなかで暮らしているせいかこの思いは強くなる。わたしたちは断片的にしか生きることはできない、ある日ひょいと生まれて未知の時間をめぐって一瞬一瞬無限にわけ入ってゆくひとつの試みであり、およそとらえがたい何かにすぎない。そう思うと不安な気持ちにすっと風が過ぎる。秋の薄日、日没ともなると目の前の名も知らぬ緑木の濃蔭や雨音、風の香、声低い呟き、路上を走る音の波動、廃庭に飛びこんでくる小鳥たちもふいに羽を止める、地面のうえをのそりのそり這う茶褐色の蟷螂に吸い寄せられてぎょっと、息をつめる、静かな死がそこにある。外は滔々と躍動的で空無がみなぎっている、こころを襲う緩慢な動きに無関心な宙吊りの内部が反応して自然に流れるようにほの暗い光りのなかにカフカのことばをかさねていた。わたしの夢見の世界をみたしてきた「ぼんやりと外を眺める」──。


 「いま急速に近づいて来るこの春の日々に、ぼくたちはなにをすればよいのだろう?今朝、空は灰色だった、けれどもいま窓辺へ行くと、ぼくは驚いて、頬を窓の把手に寄せかけるのだ。
 下の路上では、歩きながらふと振り向いた小さな女の子の顔に、もちろんもう沈んで行く太陽の光が射すのが、そして同時に、女の子のうしろから急ぎ足でやって来る男の影が落ちるのが見える。
 男はもう通り過ぎてしまい、女の子の顔は明るくかがやいている」

(全文)(「カフカ全集1」円子修平訳新潮社)


 思えば長い間、詩、散文などと分けることなく書かれたままに直截に読んできた。ことばをもって書かれたものの核心にはことばそれ自体のもつ初源のポエジーがひそんでいる、それはことばによる思考として解釈することが不可能にちかい何かである、もっというとことばはわたしたち生命体としての原初的な存在の郷愁感覚のようなものからやってくる。だがその無根拠な意識の流れはよくわからない、ただこうしてやってきたことばはわたしを慰藉してやまないこころあたたまる何かなのである。
 詩という固定的な枠組みを外して、わたしはカフカといっしょにぼんやりと外を眺める。世界は風景のなかに生きていて、わたしたちはその何かにすぎない。