映画を見ることは、純粋な趣味と言えるかもしれない。詩作なんて世の中から見たら趣味も同然なんだけど、それなりに悩み葛藤し書いてしまっているし、たまの句作も読書も美術鑑賞も音楽鑑賞も、趣味と呼ぶには、ちょっと下心がありすぎる。いつも何か創作のヒントにならないか考えてしまい、そのために苛立ったり不安になってしまうことがある。でも映画鑑賞は、実に気楽!なにせ、わたしは映画を撮ろうなんて思い立ちもしないだろうし、ただただ何もかもに、ひらきっぱなしの思考で感嘆していられるから。
映画鑑賞においては、完全なる、普通のポップコーン片手の観客だ。流行った映画はぜひとも見たい。『ホビット』とか『ロード・オブ・ザ・リング』とかに熱狂し、『ショーシャンクの空に』を見ては落涙、『ラブ・アクチュアリー』を見てはにやにや、そして心の友は『インディー・ジョーンズ』シリーズときている。楽しむため以外の目的で、映画を見ることはほとんどない。
でも案外、そっちのほうが、不意に創作意欲をかきたてられたりするので、世の中真面目なら上手くいくってもんじゃないんだなーとしみじみ思う。
さて、いろいろ何となく見てきたなかで、いまのところ暫定一位の映画がある。誰にも、全然、聞かれていないけど、ここで自発的に発表しておきたい。2004年公開の、ティム・バートン監督の『ビッグ・フィッシュ』だ。とても有名ですが。
ティム・バートン作品は全体的に好きだけど、これだけちょっと異色作だよなーと思う。それまではおとぎ話そのものを描いていたのに、現実世界を舞台にして、おとぎ話の効能みたいな部分に触れているので。ちなみにここで大幅に方向転換するのかと思いきや、次作は『チャーリーとチョコレート工場』で、変わらずにぶっ飛んでいた(むしろやりすぎていた)から、やはり、これが異例だったんだね。
あらすじは、Wikiを見て・・・と言いたいところだけど、ごく簡単に書いておくと、とある親子がおり、父は死が迫り、息子にはもうすぐ子どもが生まれようとしている。父は昔から、息子や周囲の人々に、自分の人生のまるでおとぎ話のような話を聞かせていた。魔女の家で自分の死に方を見たり、巨人と友だちになったり、妻の家の前を水仙で埋め尽くしてプロポーズをしたり。美しい結合双生児の歌手の話、サーカスで働いた話、そして自分は、本当は巨大な、湖の主なんだという話・・・。しかし息子は、父のでたらめに愛想を尽かしていた。父は、都合のいい嘘つきだと思っている。そんな父のおとぎ話を、お別れの前に、息子はもう一度聞きに行く。という話。
この映画のどこが一番かって、ものすっごい悲しいところ!現実がめちゃくちゃでも、人はイマジネーションで、美しい世界に生きることができる。それを「逃避」と言ってしまえばそれまでだけど、想像力は、人の心の尊い機能だと思う。それを他ならぬティム・バートンが、映画にしたことが特別だった。物語パートの映像全体に、人生そのものの温かさや寂しさや悲しさや感謝が、こう、ふわーと全部乗っかっている。
クライマックスはいつ見ても涙が止まらない(あの拍手がだめ!)。複数の感情がいっぺんに押し寄せるからなんだろうなーと思う。人は多分、単一の感情ではそんなに泣けるほど揺れないけど、温かさのなかに、悲しさや楽しさを同時に感じるから、キャパオーバーで涙になって溢れるのかなあ。
ちなみに、一箇所だけ、まがいなりにも詩人という身分に引き戻されて、ぞわっとする部分もある。幻の街「スペクター」で、ブシェミ扮する大詩人のノザー・ウィンズローが、ここへ来て書いた詩を見せるシーンだ。ノザーはスペクターに、既にかなり長い間滞在しているのに、なんとまだ詩が三行しか書けていない(しかもひどい内容!)。なにせスペクターは、町も人も景色も美しく、最高の場所なので、きっと幸せすぎて書くことなんか何もないのだ。
恐ろしい。これからあまりに幸せになって詩が書けなくなることを「スペクター症候群」と呼ぼうかな。幸せになったら書けないし、書く限り幸せになっちゃいけないのかも。・・・怖いなあ。