『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第42回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2012-02-01 03:09:41 | 『資本論』

第42回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

 

◎これはもうペテン師である

 野田首相は23日の通常国会の冒頭、施政方針を明らかにする演説を行いました。何がなんでも消費増税をやりたいというわけです。
 しかしその演説は、首相が、まだ一代議士として街頭で演説していたものとは真逆になっています。その後の国会審議のなかでも取り上げられていましたが、これは国民の多くが知っておくべきことだと思います。

 首相は、街頭で演説しています。「書いてあることを命懸けで実行する。書いていないことはやらない。これがルールなのです」。「消費税5%分の皆さんの税金に、天下り法人がぶらさがっている。シロアリがたかっているのです。」「それなのに、シロアリを退治しないで、今度は消費税を引き上げるんですか」。「シロアリを退治して、天下り法人をなくして、天下りをなくす、そこから始めなければ、消費税を引き上げる話はおかしいんです。徹底して無駄遣いをなくしていく、それが民主党の考え方です。」

 一体、誰が「ルール」を踏みにじっているのでしょう。“どじょう”の舌は二枚舌なのでしょうか。これはもうただ政治不信を振りまいているだけとしか言いようがありません。「命懸けで実行する」と約束したのですから、実行できなかった責任をとって一刻も早く政治の舞台から身を引くべきす。何とも情けない政治の昨今ではあります。

◎第17パラグラフについて

 今回は第17パラグラフを一つだけやりました。しかしこのパラグラフには本文の何倍もある三つの長い注があり、それらについても詳しく検討を行いました。さっそく、その報告を行いましょう。いつものように、まず本文を紹介し、各文節ごとに記号を付して、平易い書き下すなかで、議論についても紹介していくことにします。まず本文の紹介です。

【17】〈(イ)ところで、たしかに経済学は、不完全にではあるけれども(31)、価値と価値の大きさを分析して、この形態のうちに隠されている内容を発見した。(ロ)しかし、経済学は、では、なぜこの内容があの形態をとるのか、したがって、なぜ労働が価値に、またその継続時間による労働の測定が労働生産物の価値の大きさに表されるのか?という問題を提起したことさえもなかった(32)。(ハ)諸定式--すなわち生産過程が人間を支配していて、人間がまだ生産過程を支配していない社会構成体に属するものであるということが、その額(ヒタイ)に書かれている諸定式は、経済学のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものがそうであるのと同じくらいに自明な自然的必然性であると見なされるのである。(ニ)それだから、経済学が社会的生産有機体の前ブルジョア的形態を取りあつかうやり方は、教父たちが前キリスト教的諸宗教を取りあつかうやり方と同じなのである(33)。〉

(イ)たしかに、これまでの経済学は、不完全ではありますが、価値と価値の大きさを分析して、これらの形態のうちに隠されている内容を発見しました。

 さて、このパラグラフからは物神性をまとった経済的諸カテゴリーを自然なものとして扱った古典派経済学の批判に充てられています。

 学習会では、〈この形態のうちに隠されている内容〉というのは何か、という疑問が出されました。しかしそれについては、すぐにその後説明されているとの指摘がありました。すなわち労働やその継続時間、つまり労働時間のことではないか、ということです。

(ロ)しかし、経済学は、では、なぜ、この内容(労働や労働時間)が、そうした形態をとるのか、どうして労働が価値として表されるのか、あるいは、その継続時間による労働の量の測定が、労働生産物の価値の大きさとして表されるのか、という問題については、そもそもそうした問題を提起したことも無かったのです。

 これは第3パラグラフの次の一文を思い出させます。

 〈では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる労働生産物の謎のような性格は、どこから来るのか? 明らかに、この形態そのものからである。人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の測定は、労働生産物の価値の大きさという形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がその中で発現する彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。〉

 つまりこのようにマルクスが問題を提起して解明していることについて、これまでの古典派経済学は問題にもしたことがなかったということです。

(ハ)価値や価値の大きさという諸定式--これらは生産過程が人間を支配していて、人間がまだ生産過程を支配していない社会構成体に属しているということを示すものでもありますが--は、経済学のブルジョア的な意識にとっては、生産的労働がそうであるのと同じぐらいに自明な自然的必要性であると見なされているのです。

 ここでは〈生産過程が人間を支配していて、人間がまだ生産過程を支配していない社会構成体に属するものであるということが、その額(ヒタイ)に書かれている諸定式〉という一文が出てきます。まずこの〈諸定式〉というのは何を意味するかですが、JJ富村さんが準備してくれたレジュメには「資本主義的生産様式の法則・定式」と書かれていました。亀仙人は「価値や価格、貨幣等のブルジョア経済学の諸カテゴリー」ではないか、と言いました。ただフランス語版では、この部分は次のようになっています。

 〈生産諸形態が次のような時代、すなわち、生産と生産関係が人間によって支配されずに人間を支配する社会的な時代、に属していることが一見して明らかなばあい、これらの生産諸形態は、人間のブルジョア的意識にとっては、生産労働そのものと全く同じくらいに、自然的必然性であるように見える。〉(55-56頁)

 これから考えると〈これらの生産諸形態〉ということになります。ただ注33でも紹介されている『哲学の貧困』には、次のような一節があります。

 〈経済学者たちは、ブルジョア的生産の諸関係、分業、信用、貨幣等々を、固定した、不変の、永久的なカテゴリーとしで表現する。……経済学者たちは、どのようにしてこれらの与えられた諸関係のなかで生産がおこなわれるか、ということについては、われわれに説明してくれる。しかし彼らは、どのようにしてこれらの諸関係そのものが生産されたかということ、つまり、これらの諸関係を生誕させた歴史的運動については、われわれに説明してくれない。〉(全集第4巻129頁)

 だからこの〈諸定式〉というのは、ブルジョア的な生産諸形態、生産諸関係、あるいは分業や信用、貨幣、価値、価格等々の諸カテゴリーと考えてよいのではないでしょうか。

 ところで〈諸定式〉をそうしたものとして捉えると、ここで述べられていることは、一見すると、第8パラグラフで次のように指摘されていたことと矛盾するように思えるが、どう考えたらよいのだろう、という問題も提起されました。第8パラグラフでは次のように書かれています。

 〈だから、価値の額(ヒタイ)にそれが何であるかが書かれているわけではない。〉

 つまり、ここではこうしたブルジョア的諸カテゴリーには、その〈額(ヒタイ)にそれが何であるかが書かれているわけではない〉と言われているのに、今回の場合は、〈生産過程が人間を支配していて、人間がまだ生産過程を支配していない社会構成体に属するものであるということが、その額(ヒタイ)に書かれている〉と言われているからです。

 これは次のように考えられるのではないでしょうか。ここでマルクスが述べている〈生産過程が人間を支配していて、人間がまだ生産過程を支配していない社会構成体に属するものであるということ〉というのは、マルクスがこうした諸カテゴリーの根拠を、すなわち、その物象的な諸関係の秘密を解きあかした結果、言えることだと思います。だからここでマルクスが〈その額(ヒタイ)に書かれている諸定式〉というのは、そうした商品の物神的性格とその秘密が解きあかされたが故に、今は言えることだと理解すべきではないでしょうか。それに対して、第8パラグラフでは、ブルジョア的な目には、そうした諸関係はまったく見えないということで、〈だから、価値の額(ヒタイ)にそれが何であるかが書かれているわけではない〉と述べていると理解すべきだと思います。

 ところで、〈生産過程が人間を支配していて、人間がまだ生産過程を支配していない社会構成体に属するものであるということ〉というのは、第9パラグラフの次の一文に対応しています。

 〈交換者たち自身の社会的運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとり、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御される。たがいに独立〔unabhaengig〕に営まれながら、しかも社会的分業の自然発生的な諸分肢としてたがいに全面的に依存している〔abhaengig〕私的諸労働が社会的に均斉のとれた基準にたえず還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的でつねに動揺している交換比率を通して、それらの生産のために社会的に必要な労働時間が--たとえば、だれかの頭の上に家が崩れおちる時の重力の法則のように--規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹するからである。〉

 だから〈生産過程が人間を支配して〉るということは、それらが生産者たちを一つの自然法則として統制し支配するということでしょう。そして、ここで言われている〈社会構成体〉とは、資本主義的生産様式のことだと思います。

 またここで〈経済学のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものがそうであるのと同じくらいに自明な自然的必然性であると見なされる〉という部分は、第8パラグラフで〈商品生産というこの特殊な生産形態だけに当てはまること、すなわち、たがいに独立した私的諸労働に特有な社会的性格は、それらの労働の人間労働としての同等性にあり、かつ、この社会的性格が労働生産物の価値性格という形態をとるのだということが、商品生産の諸関係にとらわれている人々にとっては、あの発見の前にも後にも、究極的なものとして現れるのであり、ちょうど、空気がその諸元素に科学的に分解されても、空気形態は一つの物理的物体形態として存続するのと同じである〉と述べていたことを思い出すとよく分かると思います。

 またここでは〈生産的労働〉という言葉が出てきますが、これは第1節に〈それはまた、もはや指物労働や建築労働や紡績労働やその他の一定の生産的労働の生産物でもない〉として出てきます。つまり具体的有用労働と同義と考えてよいでしょう。

(ニ)だから、経済学が社会的生産有機体の前ブルジョア的形態、例えば封建的生産様式や古代的生産様式等を取り扱うやり方は、教父たちが前キリスト教的諸宗教を取り扱うのとまったく同じやり方なのです。

 この文節は、この一文につけられた注33を見れば、よく分かりますので、そこで考えることにしましょう。

(三つの注については、「その2」を参照)


 

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