『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.44(通算第94回)(5)

2024-08-30 17:05:40 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.44(通算第94回)(5)


◎原注36

【原注36】〈36 「それ」(分業)「は、すべてが同じ瞬間に実行されうるようないろいろな部門に仕事を分割することによって、時間の/節約をも生みだす。……一人の個人ならば別々にしなければならないようないろいろな過程をすべて同時に行なうことによって、たった1本のピンを切ったりとがらせたりしたのと同じ時間で多量の完全にできあがったピンを生産することが可能になる。」(デュガルド・ステユアート『経済学講義』、所収、サー・W・ハミルトン編『著作集』、エディンバラ、第8巻、1855年、319ページ。)〉(全集第23a巻452-453頁)

  これは〈いろいろな段階的過程が時間的継起から空間的並列に変えられている。それだからこそ、同じ時間でより多くの完成商品が供給されるのである(36)〉という一文に付けられた原注です。分業でさまざまに分割された作業が同じ瞬間に行われることによって、一人の個人なら別々にしなければならない作業が同時に行われ、一本のピンを同時に切ったり尖らせたりすることによって、同じ時間に多量のピンを完成させるという例が紹介されています。

  同じ文献を取り上げている『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈サー・W・ハミルトン編『ドゥーガルト・ステューアト著作集』、エディンバラ。私は、『著作集』、第八巻から引用するが、これは『経済学講義』、第一巻(1855年)である。
  彼は、分業が労働の生産性を増大させる仕方について、とりわけ次のように言う。--
  「分業の諸効果と機械の使用の諸効果とは……どちらもその価値を同じ事情から、つまり、一人の人手多くの人々の仕事を推考できるようにするという、それらの傾向から得ている」(317ページ)。「それはまた、すべてが同じ瞬間に遂行されるようなさまざまな部門に仕事を細分することによって、時間の節約を生みだす。……一人の個人なら別々にしてきたにちがいないさまざまな過程をすべて同時に進めることによって、たとえば、たった一本のピンを切ったりとがらせたりすることしかできなかった同じ時間で、完全にできあがった多量のピンを生産することが可能になる」(319ページ)。
  ここで言われていることは、一連のさまざまな作業を順次に行なう同じ労働者はある作業から他の作業に移るときに時間を失うという、A・スミスの所説の「第二」のことだけではない。〉(草稿集④442-443頁)


◎第6パラグラフ(マニュファクチュアでは、労働と労働とのあいだの直接的な依存関係によって、労働の連続性や一様性や規則性や秩序が、ことにまた労働の強度が生みだされ、一定の労働時間で一定量の生産物を供給するということが生産過程そのものの技術上の法則になる)

【6】〈(イ)それぞれの部分労働者の部分生産物は、同時に、ただ同じ製品の一つの特殊な発展段階でしかないのだから、一人の労働者が別々の労働者に、または一つの労働者群が別の労働者群に、その原料を供給するわけである。(ロ)一方の労働者の労働成果は、他方の労働者の労働のための出発点になっている。(ハ)だから、この場合には一方の労働者が直接に他方の労働者を働かせるのである。(ニ)それぞれの部分過程の所期の効果をあげるために必要な労働時間は経験によって確定されるのであって、マニュファクチュアの全体機構は、一定の労働時間では一定の成果が得られるという前提にもとづいている。(ホ)ただこの前提のもとでのみ、互いに補い合ういろいろな労働過程は、中断することなく、同時に、空間的に並列して進行することができるのである。(ヘ)このような、労働と労働とのあいだの、したがってまた労働者どうしのあいだの直接的依存関係は、各個の労働者にただ必要時間だけを自分の機能のために費やすことを強制するのであり、したがって、独立手工業の場合とは、または単純な協業の場合とさえも、まったく違った労働の連続性や一様性や規則性や秩序が(37)、ことにまた労働の強度が生みだされるのだということは、明らかである。(ト)ある一つの商品にはただその商品の生産に社会的に必要な労働時間だけが費やされるということは、商品生産一般では競争の外的強制として現われるのであるが、それは、表面的に言えば、各個の生産者が商品をその市場価格で売らなければならないからである。(チ)ところが、マニュファクチュアでは、一定の労働時間で一定量の生産物を供給するということが生産過程そのものの技術上の法則になるのである(38)。〉(全集第23a巻453頁)

  (イ)(ロ)(ハ) それぞれの部分労働者の部分生産物は、同時に、ただ同じ製品の一つの特殊な発展段階でしかないのですから、一人の労働者が別々の労働者に、または一つの労働者群が別の労働者群に、その原料を供給するわけです。一方の労働者の労働成果は、他方の労働者の労働のための出発点になっています。ですから、この場合には一方の労働者が直接に他方の労働者を働かせるのです。

 フランス語版はやや書き換えられています。だから最初にフランス語版を紹介していくことにします。

  〈個々の部分労働者の部分生産物は同時にまた、完成された製作物の特殊な発展段階でしかないから、個々の労働者または労働者群は、ほかの労働者または労働者群にその原料を供給する。一方の労働の成果は他方の労働の出発点をなす。〉(江夏・上杉訳359頁)

  このようにフランス語版は少し簡潔になり、最後の〈だから、この場合には一方の労働者が直接に他方の労働者を働かせるのである〉という部分は省略されています。しかし当然ですが、書かれている内容は同じです。
  有機的なマニュファクチュアでは、それぞれの部分労働者の生産する部分生産物は、完成品の特殊な発展段階でしかありませんから、その生産物は他の労働者あるいは労働者群にその原料として入っていくわけです。だから一方の労働者の生産物は他方の労働者の出発点になっているということです。つまり個々の部分労働者の労働は分業によって互いに有機的に密接に関連し合っているということでしょうか。

  (ニ)(ホ) それぞれの部分過程の所期の効果をあげるために必要な労働時間は経験によって確定されます。マニュファクチュアの全体機構は、一定の労働時間では一定の成果が得られるという前提にもとづいています。ただこの前提のもとでのみ、互いに補い合ういろいろな労働過程は、中断することなく、同時に、空間的に並列して進行することができるのです。

  まずフランス語版です。

  〈個々の部分過程において所期の有用な効果を得るために必要な労働時間は、経験的に確定されるのであって、マニュファクチュアの全体機構が機能するのは、与えられた時間内に与えられた成果が得られるという条件のもとにかぎられる。ただこのような仕方でだけ、相互に補足しあうさまざまな労働は、並列して、同時に、しかも中断なく進行することができるのである。〉(同)

  個々の部分労働者の労働が一定の生産物を供給するに必要な労働時間は経験によって確定しています。だからマニュファクチュアの全体の機構は、それを構成する各労働者が一定の時間には一定の成果が得られるということを前提にして成り立っているのです。このようにして、全体の機構のさまざまな労働は、互いに補いながら、並列して、同時に、中断なく進行することが出来るわけです。

  (ヘ)(ト)(チ) このような、労働と労働とのあいだの、したがってまた労働者どうしのあいだの直接的な依存関係は、各個の労働者にただ必要な時間だけを自分の機能のために費やすことを強制します。だから、独立手工業の場合とは違って、または単純な協業の場合とさえもまったく違った労働の連続性や一様性や規則性や秩序が、ことにまた労働の強度が生みだされるのです。ある一つの商品にはただその商品の生産に社会的に必要な労働時間だけが費やされるということは、商品生産一般では競争の外的強制として現われるのですが、それは、表面的に言いまと、各個の生産者が商品をその市場価格で売らなければならないからです。ところが、マニュファクチュアでは、一定の労働時間で一定量の生産物を供給するということが生産過程そのものの技術上の法則になるのです。

  フランス語版です。

  〈諸労働のあいだの、また諸労働者のあいだのこうした直接的な依存は、個々の労働者を強制して、自分の機能に必要な時間だけを費やさせるということ、こうして、独立手工業でも単純な協業でさえも見られないような労働の連続性、規則正しさ、画一性が、とりわけ労働の強度が、得られるということは、明らかである(12)。一商品にはその製造に社会的に必要な労働時間だけが費やされなければならないということ、このことは、商品生産一般では競争の効果として現われる。というのは、表面的に言えば、それぞれの個々の生産者は商品をその市場価格で売らざるをえないからである。これに反して、マニュファクチュアでは、与えられた労働時間内に与えられた分量の生産物を引き渡すことが、生産過程そのものの技術上の法則になるのである(13)。〉(同)

    このように有機的マニュファクチュアでは、個々の労働と労働、個々の労働者と労働者とが互いに直接的な依存関係にあります。ですから、彼らは全体機構を維持するためには、各自がそれぞれに必要な時間だけを自分の機能のために費やすことが一つの強制となってくるのです。だから独立手工業や単純な協業でさえも見られないような労働の連続性、規則正しさ、画一性、とりわけ労働の強度が得られるようになります。
    商品の生産には社会的に必要な労働時間だけが費やされねばならないということは、商品の価値の法則です。表面的には商品生産者は生産した商品をその市場価格で販売せざる得ないという形で、それは一つの強制法則として貫徹されるわけです。
    しかしマニュファクチュアでは、生産機構そのものがそれぞれの部分労働者に必要な労働時間だけを費やすように強制するのです。すなわちある与えられた労働時間内に与えられた分量の生産物を引き渡すことが生産過程そのものの技術的な法則となるのです。


◎原注37

【原注37】〈37 「どのマニュファクチュアでも工人の種類が多ければ多いほど……それぞれの作業はいっそう秩序正しく規則的になり、/同じことがいっそう短い時間でなされるにちがいないし、労働はいっそう少なくなるにちがいない。」(『イギリスにとっての東インド貿易の利益』、68べージ。)〉(全集第23a巻453-454頁)

    これは〈このような、労働と労働とのあいだの、したがってまた労働者どうしのあいだの直接的依存関係は、各個の労働者にただ必要時間だけを自分の機能のために費やすことを強制するのであり、したがって、独立手工業の場合とは、または単純な協業の場合とさえも、まったく違った労働の連続性や一様性や規則性や秩序が(37)、ことにまた労働の強度が生みだされるのだということは、明らかである〉という本文に付けられた原注です。
    引用されている一文でも同じように〈それぞれの作業はいっそう秩序正しく規則的になり、同じことがいっそう短い時間でなされるにちがいないし、労働はいっそう少なくなるにちがいない〉と述べていますので、注として採用されたのでしょう。

    ここで引用されている『イギリスにとっての東インド貿易の利益』は、すでに原注27にも出てきました。そのときに『61-63草稿』の一文を紹介しましたが、そこには今回の原注で引用されている一文もありました(頁数は同じですが若干違うところがあります)。その部分だけをもう一度少し前から紹介しておきます。

  〈分業について、彼はとくに次のことを強調している。--「どのマユュファクチュアでも、職工の種が多ければ多いほど、一人の人の熟練〔skill〕に残されるものはそれだけ少ない。」[68ページ]〉(草稿集④461頁)


◎原注38

【原注38】〈38 (イ)とはいえ、マニュファクチュア的経営はこの成果には多くの部門でただ不完全に到達しているだけである。(ロ)というのは、マニュファクチェア的経営は生産過程の一般的な化学的および物理的諸条件を確実に統御することができないからである。〉(全集第23a巻454頁)

  これはパラグラフの最後の一文〈ところが、マニュファクチュアでは、一定の労働時間で一定量の生産物を供給するということが生産過程そのものの技術上の法則になるのである(38)〉に付けられた原注です。マルクス自身の文章になっています。だから一応、書き下し文を書いて解説を加えておきましょう。

  (イ)(ロ) とはいいましても、マニュファクチュア的経営はこの成果には多くの部門でただ不完全に到達しているだけです。といいますのは、マニュファクチェア的経営は生産過程の一般的な化学的および物理的諸条件を確実に統御することができないからです。

    つまり有機的マニュファクチュアでは、分業による個別の部分労働の間の相互的な依存が強まり、一定の時間に一定量の生産物を供給するということが技術上の法則になるのですが、しかしマニュファクチュア段階ではこうしたものも不完全になるのだということです。というのもそれぞれの部分労働は依然として手工業の域を出ていませんから、生産過程の化学的あるいは物理的な諸条件を確実に統御することができていないからだということです。


◎第7パラグラフ(マニュファクチュア的分業は、社会的労働過程の質的な編制とともにその量的な規準と均衡をも発展させる)

【7】〈(イ)とはいえ、いろいろな作業は、等しくない長さの時間を必要とし、したがって等しい時間に等しくない量の部分生産物を供給する。(ロ)だから、もし同じ労働者は毎日毎日いつでもただ同じ作業だけを行なうものとすれば、いろいろな作業にいろいろに違った比例数の労働者が充用されなければならない。(ハ)たとえば、ある活字マニュファクチュアで鋳字工1人では1時間に2000個の活字を鋳造し、分切工1人では4000個を分切し、磨き工1人では8000個を磨くとすれば、このマニュファクチュアでは磨き工1人について鋳字工4人と分切工2人が充用されなければならない。(ニ)ここでは同種の作業をする多数人の同時就業という最も単純な形態の協業の原則が再現する。(ホ)といっても、今度は一つの有機的な関係の表現としてであるが。(ヘ)だから、マニュファクチュア的分業は、ただ社会的全体労働者の質的に違う諸器官を単純化し多様化するだけではなく、またこれらの諸器官の量的な規模の、すなわちそれぞれの特殊機能を行なう労働者の相対数または労働者群の相対的な大きさの、数学的に確定された割合をもつくりだすのである。(ト)マニュファクチュア的分業は、社会的労働過程の質的な編制とともにその量的な規準と均衡をも発展させるのである。〉(全集第23a巻454頁)

  (イ)(ロ) とはいいましても、いろいろな作業は、等しくない長さの時間を必要とします。また等しい時間に等しくない量の部分生産物を供給します。ですから、もし同じ労働者が毎日毎日いつでもただ同じ作業だけを行なうものとしますと、いろいろな作業にいろいろに違った比例数の労働者が充用されなければなりません。

    フランス語版の方がやや分かりやすく思えますので、紹介しておくことにします。

  〈しかし、いろいろな諸作業が必要とする時間の長さは同じではなく、したがって、それらが同じ長さの時間内に供給する部分生産物の量は同じではない。だから、同じ労働量が毎日つねに同一の作業を行なわなければならないならば、作業がちがえば労働者を使う割合もちがわなければならない。〉(江夏・上杉訳360頁)

    有機的マニュファクチュアでは部分労働が互いに密接に関連し合っていることが指摘されましたが、しかしそれぞれの部分労働者の労働がある一定の生産物を生産するのに必要な労働時間が同じとはいえません。ある生産物に必要な加工を加えるのに1時間必要なのに、その加工された生産物を磨くためには半時間も必要ないというように、それぞれの部分作業にかかる時間はまちまちです。だからそれぞれの部分作業が同じ時間に供給する部分生産物は同じではないわけです。ですからそれぞれの部分労働者が毎日毎日同じ作業だけを行うとすれば、いろいろな作業に割く人員は違ってこなければなりません。作業が違えば、使う労働者数も違ってこなければならないのです。

  (ハ) たとえば、ある活字マニュファクチュアで鋳字工1人では1時間に2000個の活字を鋳造し、分切工1人では4000個を分切し、磨き工1人では8000個を磨くとしますと、このマニュファクチュアでは磨き工1人について鋳字工4人と分切工2人が充用されなければなりません。

  フランス語版です。

  〈たとえばある活字マニュファクチュアでは、分切工2人と磨き工1人にたいし鋳字工4人を使わなければならない。鋳字工は1時間に2000個の活字を鋳造するのにたいし、分切工は4000個の活字を分切し、磨き工は8000個の活字を磨く。〉(同)

  ここでは具体例として活字マニュファクチュアの例が紹介されています。鋳造、分切、磨きの各工程に必要な人員は4対2対1の比率になるということです。
  『61-63草稿』ではより詳しく〈活字(印刷用の活字)の鋳造〉の主な作業が紹介されています。

  〈分業にもとづくマニュファクチュアの実例に、活字(印刷用の活字)の鋳造がある。主要な作業が5つある。
  (1)活字の鋳造。「労働者はおのおの1時間で4OO個から5OO個の活字をつくることができる。」[203ページ。]
  (2)活字の分切「(この仕事をする少年は、活字の金属が含む鉛とアンチモンの毒におかされる。)活字は標準寸法に分切される。仕事のはやい少年ならこの作業では1時間に2000個から3000個を分切できる。しかし、労働者のなかには、新しい活字を扱うため、金属の毒におかされて親指と人差指を失った者のあることをいっておかなければならない。[203ページ。]/
  (3)活字は平らな石の上で磨かれて、活字の腹や背の、ざらつきあるいは『ばり』がきれいに落とされるほかに、活字の『斜面』と『足』(shank Bein,Schenkel,Stielなど、ここでは活字の軸)が調整される。上手な磨き工なら1時間に約2000個を仕上げることができる。
  (4)活字は、成年男子か少年によって、長さ約1ヤードの1種の植字盆のなかに、『ネツキ』(nick Kerbe.) を揃え全部上に向けてはめ込まれる。こうして、1時間に3000個から4000個が並べられる。
  (5)第2工程で粗いままに放置されていた活字の底は、かんな(=obel)がけによって平らにされる。それから活字はひっくり返されて〔字づらを〕上にし、すべての線が拡大鏡で綿密に調べられる。欠陥のある活字は抜きとられ、残りは植字盆からはずして山盛りにされる。」[204ページ。]〉
  このように1人の鋳字工が1時間に5OO個の活字を鋳造し、1人の少年が1時間に3000個を分切するとすれば、少年1人にたいして6人の鋳字工が必要である。そして、1人の磨き工が1時間に2000個を磨けば、4人の鋳字工に1人の磨き工が対応する。また、1人の配列工が1時間に4000個をかたづけるとすれば、8人の鋳字工に1人の配列工が対応する。労働の分割にさいしては、そこに倍数〔の原理〕を認めなければならない。いろいろな作業がいま以下のような事情にあるとしよう。3種類の作業があるとする。第1作業が提供するものを加工するために、第2作業が人間を1人働かせるときには、第1作業には2人の人間をあてなければならない。しかし、第1、第2作業の生産物を加工する第3作業に4人が必要なときには、4人をそこにあてなければならない。そうすると、第1作業に2人、第2作業に1人、第3作業に4人、合計7人を充用することになる。これらの倍数は、分業の原理に発するのであって、それぞれ異なる作業の必要と/する時間が相違するにもかかわらず、すべての労働者が、同時に、しかも同じ長さの時間を、もっぱらそれらの作業の一つに従事して働くようにするためなのである。ある段階の生産物ないし仕事(たとえば、ボイラーたき、機械の修理など)の一定量に費やされるその作業時間が少なければ少ないほど、他の〔作業に従事する〕労働者の量はそれだけいっそう多くしなければならない。それは、その仕事に個々人を専従させることができるようにするためである。〉(草稿集⑨88-90頁)

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト) ここでは同種の作業をする多数の人たちが同時に就業という最も単純な形態の協業の原則が再現します。といいましても、今度は一つの有機的な関係の表現としてです。ですから、マニュファクチュア的分業は、ただ社会的全体労働者の質的に違う諸器官を単純化し多様化するだけではなくて、これらの諸器官の量的な規模の、すなわちそれぞれの特殊機能を行なう労働者の相対数または労働者群の相対的な大きさの、数学的に確定された割合をもつくりだすのです。マニュファクチュア的分業は、社会的労働過程の質的な編制とともにその量的な規準と均衡をも発展させるのです。

  フランス語版です。

  〈協業の原則が、同種の作業に多くの労働者を同時に使うという最も単純な形態で、再現する。だが、この原則は今度は有機的な関係の表現である。したがって、マニュファクチュア的分業は、集団労働者の質的にちがう諸器官を単純にするのと同時にふやすだけではない。この分業は、さらに、諸器官の量、すなわちそれぞれの特殊機能を行なう労働者の相対数または労働者群の相対的な大きさを定めるような固定した数学的比率をも、作り出すのである。〉(同)

  ここでは同じ作業をする多数の労働者が同時に協働するという単純な協業が行われます。
しかしそれは単なる単純協業にはとどまりません。といいますのは、それぞれの労働は分業によって有機的に関連し合っているからです。マニュファクチュア的分業は、ただ社会的な全体労働者の質的に異なる諸器官を単純化して多様化するだけではなくて、それらの諸器官の量的規模の割合も作り出すからです。つまりマニュファクチュア的分業は、社会的な労働過程の質的編制と同時にその量的な基準と均衡をも発展させるのです。


◎第8パラグラフ(いろいろな部分労働者群の最も適当な比例数が一定の生産規模について経験的に確定されているならば、この規模はただそれぞれの特殊な労働者群の倍数を使用することによってのみ拡大することができる)

【8】〈(イ)いろいろな部分労働者群の最も適当な比例数が一定の生産規模について経験的に確定されているならば、この規模はただそれぞれの特殊な労働者群の倍数を使用することによってのみ拡大することができる(39)。(ロ)さらに、同じ個人がある種の労働を大きな規模でも小さな規模でも同じように行なうことができるということが加わる。(ハ)たとえば、監督という労働や、部分生産物を一つの生産段階から他の生産段階に運ぶ労働などがそれである。(ニ)だから、このよ/うな機能を独立化することや特別な労働者に割り当てることは、使用労働者数の増大によってはじめて有利になるのであるが、この増大はただちにすべての群に比例的に及ぼされなければならないのである。〉(全集第23a巻454-455頁)

  (イ) いろいろな部分労働者群の最も適当な比例数が一定の生産規模について経験的に確定されていますと、この規模はただそれぞれの特殊な労働者群の倍数を使用することによってのみ拡大することができます。

  ある生産部門における部分労働者のもっとも適当な比例的割合が経験的に決まってきますと、生産規模の拡大は、その割合の倍数で行うことが必要になります。
  たとえば先の活字マニュファクチュアの例では最低限7人の労働者が必要でしたが、この活字マニュファクチュアの規模を拡大するためには、7の倍数の労働者を雇用する必要があるわけで。つまり活字マニュファクチュアの規模を2倍にするためには、磨き工2人と鋳字工8人と分切工4人、合計14人(=7×2)が充用されなければないことになるわけです。

  (ロ)(ハ) さらに、同じ個人がある種の労働を大きな規模でも小さな規模でも同じように行なうことができるということが加わります。たとえば、監督という労働や、部分生産物を一つの生産段階から他の生産段階に運ぶ労働などがそれです。

  さらにある種の労働は規模の大小に関わりなく必要とされることが分かります。例えば監督労働であるとか、部分生産物を一つの生産段階から別の生産段階へと運ぶ労働などがそれにあたります。

  (ニ) ですから、このような機能を独立化することや特別な労働者に割り当てることは、使用労働者数の増大によってはじめて有利になるのですが、この増大はただちにすべての群に比例的に及ぼされなければならないのです。

    こうした労働は、小規模の場合には、ある独立の労働者が担当するということではなくて、それぞれが分担してやる程度でよかったのですが、規模を拡大していくことによって、特別な労働者に割り当てることができるようになり有利になります。
    ここで最後の一文〈この増大はただちにすべての群に比例的に及ぼされなければならないのである〉がいま一つハッキリとしません。
  まず初版を見てましょう。

  〈おまけに、同じ個人がある種の労働を規模の大小に関係なく同じように行なうばあいもあるのであって、たとえば、監督労働や、部分生産物をある生産段階から別の生産段階に運搬すること等々が、それである。だから、こういった機能を独立させること、または、これを特別な労働者に割り当てることは、就業労働者数の増大によって初めて有利になるのであるが、この増大が起きればすぐさま、すべての労働者群もこの増大と均整をとって増大されなければならない。〉(江夏訳395頁)

  次はフランス語版です。

  〈同じ個人が、大規模でも小規模のばあいと全く同様に、ある種の労働、たとえば監督労働や、ある生産段階から別の生産段階への部分生産物の運搬などを行なう、ということをさらに付け加えよう。だから、これらの諸機能を分立するかあるいは独自の労働者にまかせることは、作業場の人員を増加した後ではじめて有利になることであるが、このばあいこの増加はすべての労働者群に比例的に及ぶものである。〉(江夏・上杉訳360頁)

  イギリス語版です。

  〈そこには、以下のことが生じる。同じ個人が小さな規模でやっていた作業を、大きな規模になってもそのまま行うことができる。例えば、監督とか、細目生産物の一つの段階から次の段階への運搬 等々の労働がそれである。この機能の分離や、特定の労働者を配置することは、雇用労働者の数が増大するまでは有利ではないが、全体の労働者数が増大すれば、その特定労働者の数の増加はすべてのグループに対して一様に比例的に行われることにならざるを得ない。〉(インターネットから)

  最後に新日本新書版です。

  〈それに加えて、同じ個人が、特定の労働を、大規模の場合にも小規模の場合と同じように行なうということもある。たとえば、監督労働、一つの生産局面から他の生産局面への部分生産物の運搬、などがそうである。したがって、これらの諸職能が自立すること、またはそれらが特殊な労働者に割り当てられることは、就業労働者数の増大と結びついてはじめて有利になるのであるが、しかしこの増大は、ただちにすべての群にたいして比例的に行われなければならない。〉(602頁)

  〈この増大〉というのは、その前の〈使用労働者数の増大〉を指していることは明かです。要するに規模を拡大して使用労働者数を増大させると監督や運搬の作業を専門で担う労働者を設けることができるようになり有利になりますが、しかしその使用労働者数の増大というのはその前に述べました倍数の法則にもとづいて増大しなければならないということを言いたいのではないでしょうか。


◎原注39

【原注39】〈39 「それぞれのマニュファクチュアの生産物の特殊な性質にしたがって、製造をいろいろな部分作業に分ける最も有利な仕方も、それぞれの作業のために必要な労働者数も、経験によって知られているとすれば、この数の正確な倍数を充用しない工場は、すべて、製造により多くの費用をかけるであろう。……これは諸工場の非常な拡大の原因の一つである。」(C・バベジ『機械・マニェファクチュア経済論』、ロンドン、1832年、第21章、172、173ページ。)〉(全集第23a巻455頁)

    これは〈いろいろな部分労働者群の最も適当な比例数が一定の生産規模について経験的に確定されているならば、この規模はただそれぞれの特殊な労働者群の倍数を使用することによってのみ拡大することができる(39)〉という一文に付けられた原注です。
  バベジの『機械およびマニェファクチュア経済論』から同様の主旨の部分が引用、紹介されています。『61-63草稿』から関連する部分を紹介しておきましょう。

  〈各種のマニュファクチュアの生産物の特殊的性質に従って、製造をいろいろな部分作業に分けうる最も有利な仕方も、それぞれの作業のために必要な労働者数も、経験によって知られているとき、この数の正確な倍数を自己の労働者の数として適用しない工場は、すべて、製造中の節約がより少ないことになろう」(バピジ、『機械およびマニュファクチュア経済論』、第22章)。たとえば種々の作業の遂行に10人の労働者が必要であれば、充用される労働者数は10の倍数でなければならない。「そうでなければ、労働者たち一人ひとりをいつも同じ細自作業〔Detail der Fabrikation〕に使用することはできない。……これは、工業施設が巨大な規模をもつ原因の一つである」(同前)。単純協業の場合と同様に、ここでもふたたび倍数の原理〔がはたらいている〕。しかしいまでは、比例性を維持するために必要な諸比率は、分業そのものによって規定されているのである。総じて、労働の規模が大きくなればなるほど、〔労働の〕分割がそれだけ高い程度に進められうることは明らかである。第一に、正しい倍数を適用することができるからである。第二に、どの程度まで作業が分割できるか、またどの程度まで、一人の労働者の全時間を一つの作業で吸収できるかは、当然この規模の大きさにかかっているからである。〉(草稿集④463頁)

  バベジについては『資本論辞典』からも紹介しておきます。

  バベッジ Charles Babbage (1792-1871)イギリスの数学者・機械製作者・経済学者.……彼の経済学上の主著には『機械およびマニュフアクチュア経済論』(1832)がある.そこでは当時の初期工場制度の実態にかんして豊富な記述がなされているのみならず,マニュファクチュア的分業および機械にかんする経済理論への言及もみられる.その分業論ではスミスより出発して,それを補充せんとする試みがなされ,その機械論では社会の豊富さにたいする機械の貢献や機根経営にたいする資本家の役割やが強調される.
  『資本論』では.バベッジはユアとともに,その第1券第12および13の両章で主としで引用される.そこでは,マニュファクチュアの部門労働者間に確定される最適比率,マニュファクチュアにおける労働者の個別化,道具と機械の区別等々についての先駆的見解とみなされているのみならず,当時の実際例を示す典拠ともされている.しかしマルクスの彼にたいする根本的な批判点は,彼が「大工業を実にマニュファクチュアの立場から理解している」ということである.だから,ユアとの対比においても.数学者・機械学者としてのバベッジは彼よりすぐれていたとはし:ゐ,経済学者としてのパベッジは彼にさえ劣っているというマルクスの評価をうける.〉(533頁)


◎第9パラグラフ(各個の群、すなわち同じ部分機能を行なう何人かの労働者の一団は、同質の諸要素から成っていて、全体機構の一つの特殊器官になっている。しかし、いろいろなマニュファクチュアでは、この群そのものが一つの編成された労働体であって、全体機構はこれらの生産的基本有機体の重複または倍加によって形成される)

【9】〈(イ)各個の群、すなわち同じ部分機能を行なう何人かの労働者の一団は、同質の諸要素から成っていて、全体機構の一つの特殊器官になっている。(ロ)しかし、いろいろなマニュファクチュアでは、この群そのものが一つの編成された労働体であって、全体機構はこれらの生産的基本有機体の重複または倍加によって形成されるのである。(ハ)一例としてガラスびんのマニュファクチュアをとってみよう。(ニ)それは、三つの本質的に区別される段階に分かれる。(ホ)その第一は準備段階で、ガラス合成の準備、砂や石灰などの混合、この混合物の流動状ガラス塊への融解である(40)。(ヘ)この第一段階ではいろいろな部分労働者が働いているが、そういうことは、最終毅階、すなわち乾燥炉からのびんの取り出しやその品分けや包装などでも同じである。(ト)この両段階の中間に本来のガラス製造、すなわち流動状ガラス塊の加工がある。(チ)一つのガラス炉の同じ口で一つの群が作業しており、この群はイギリスでは“hole"(穴)と呼ばれていて、びん製造工または仕上げ工1人、吹き工1人、集め工1人、積み工または磨き工1人、見習い工1人から、構成されている。(リ)この5人の部分労働者が単一の労働体の5つの特殊器官になっていて、この労働体は、ただ統一体としてのみ、つまり5人の直接的協業によってのみ、働くことができる。(ヌ)もし5部分構成体の一肢が欠ければ、この労働体は麻痺してしまう。(ル)しかし、同じガラス炉にいくつもの口、たとえばイギリスでは4つから6つの口があって、そのおのおのに流動状のガラスのはいった土製の融解坩堝(ルツボ)が埋めてあり、どの口でも同じ5分肢形態の専/属の一労働者群が働いている。(ヲ)各個の群の編制はここでは直接に分業にもとづいているが、いくつかの同種の群のあいだの紐帯は、単純な協業、すなわち生産手段の一つを、こではガラス炉を、共同消費によってより経済的に使用するという協業である。(ワ)このようなガラス炉の一つとその4つないし6つの労働者群とで一つのガラス製造場になり、そして、一つのガラス・マニュファクチュアには、いくつものこのような製造場と同時に準備的および最終的生産段階のための設備と労働者とが包括されているのである。〉(全集第23a巻455-456頁)

  (イ)(ロ) 各個の群、すなわち同じ部分機能を行なう何人かの労働者の一団は、同質の諸要素から成っていて、全体機構の一つの特殊器官になっています。しかし、いろいろなマニュファクチュアでは、この群そのものが一つの編成された労働体であって、全体機構はこれらの生産的基本有機体の重複または倍加によって形成されるのです。

  先のパラグラフでは、有機的マニュファクチュアでは、一定の生産規模に見合った部分労働者の数的割合や構成が決まってくるという話でした。だから規模の拡大のためには、こうした倍数原理にもとづいて比例的に拡大する必要があるということでした。
  今回はそうした部分機能を行う何人かの労働者の一団そのものが、一つの要素となって、全体機構の一つの特殊器官になっているようなマニュファクチュアが検討されます。こうしたマニュファクチュアでは、全体機構がこうした生産的基本有機体の重複や倍加によって形成されることになります。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル) 一例としてガラスびんのマニュファクチュアをとってみましょう。それは、三つの本質的に区別される段階に分かれます。その第一は準備段階で、ガラス合成の準備、砂や石灰などの混合、この混合物の流動状ガラス塊への融解です。この第一段階ではいろいろな部分労働者が働いていますが、そういうことは、最終毅階、すなわち乾燥炉からのびんの取り出しやその品分けや包装などでも同じです。この両段階の中間に本来のガラス製造、すなわち流動状ガラス塊の加工があります。一つのガラス炉の同じ口で一つの群が作業しており、この群はイギリスでは「穴」と呼ばれています。びん製造工または仕上げ工1人、吹き工1人、集め工1人、積み工または磨き工1人、見習い工1人から、構成されています。この5人の部分労働者が単一の労働体の5つの特殊器官になっていて、この労働体は、ただ統一体としてのみ、つまり5人の直接的協業によってのみ、働くことができます。もし5部分構成体の一肢が欠けても、この労働体は麻痺してしまいます。しかし、同じガラス炉にはいくつもの口、たとえばイギリスでは4つから6つの口があります。そのおのおのに流動状のガラスのはいった土製の融解坩堝(ルツボ)が埋めてあり、どの口でも同じ5分肢形態の専属の一労働者群が働いているのです。

  ここでは具体例としてガラス瓶のマニュファクチュアが紹介されています。それは三つの本質的に区別される段階からなっています。
  最初は準備段階で、ガラス合成の準備、砂や石灰などの混合、この混合物の流動ガラス塊への融解です。つまりガラス炉にその原材料を投入して溶融する過程を担当する一連の労働者群です。これは一つの有機的な分業システムで構成されているといえます。
  その次は融解したガラスからガラス製品を作り出す加工過程です。ここで幾つかの基本的有機体の重複が見られるわけです。つまり炉にはいくつもの口(穴)が付いていて、そこからガラス塊を取り出して瓶に加工するのですが、それをやるのが5人から構成されるチームなわけです。仕上げ工1人、吹き工1人、集め工1人、積み工または磨き工1人、見習い工1人から、構成されています。これが一つの炉の穴で瓶製造を行うチームであり、それが口の数だけチームが編制されていることになります(イギリスでは4~6口)。
  そして第三が、最終段階の乾燥炉からの瓶の取り出しや品分け包装などがありますが、これも最初の準備段階と同じ一連の分業による協働システムがあるということです。
  つまりこのガラス瓶の製造マニュファクチュアで重要なのは中間段階の流動状のガラスを加工してガラス瓶を作る作業工程が5人から構成される一つの特殊器官になっていて、それが炉の口の数だけ同じものが配置されて働いているということです。

  (ヲ)(ワ) 各個の群の編制はここでは直接に分業にもとづいていますが、いくつかの同種の群のあいだの紐帯は、単純な協業、すなわち生産手段の一つを、こではガラス炉を、共同消費によってより経済的に使用するという協業です。このようなガラス炉の一つとその4つないし6つの労働者群とで一つのガラス製造場になり、そして、一つのガラス・マニュファクチュアには、いくつものこのような製造場と同時に準備的および最終的生産段階のための設備と労働者とが包括されているのです。

  この三つに区別されるそれぞれの段階でも、一連の群れの労働者は直接分業にもとづいて働いていますが、しかし中間段階のそれぞれのガラス炉の口に配置された同種の群れのあいだの紐帯は、単純な協業です。つまり生産手段の一つ(ガラス炉)を共同消費にって経済的に使用するという協業なわけです。
  このようにガラス瓶マニュファクチュアは、ガラス炉一つとその炉の口の数に合わせた4つないし6つの労働者群で構成されたガラス瓶製造場であり、それに準備段階と最終段階のための一連の設備と労働者から構成されているわけです。

   ((6)に続く。)

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