『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(5)

2023-07-14 11:43:00 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(5)


【付属資料】№1


●第1パラグラフ

《初版》

 〈われわれがこれまで、労働日の延長への衝動、剰余労働を求める人狼のような渇望を考察してきた領域は、イギリスのあるブルジョア経済学者の言うところによると、アメリカ・インディアンにたいするスペイン人の残虐にも劣らない無制限な無法(64)のために、資本がついには法的な取締りの鎖につながれることになった領域であった。いまや、われわれは、労働力の搾取が今日もなお無拘束であるかまたは昨日まで無拘束であった2、3の生産部門に、眼を向けてみよう。〉(江夏訳263頁)

《フランス語版》

 〈これまでわれわれは、アメリカ・インディアンにたいするスペイン人の残虐さにもほとんど劣らない資本の途方もない取り立て(30)のために、資本が法律によって鎖につながれたところでのみ、過度労働を研究してきた。さて、労働力の搾取が今日無拘束であるか昨日はまだ無拘束であった幾つかの産業部門を、一見することにしよう。〉(江夏・上杉訳242頁)

《イギリス語版》

  〈1) 我々は、ここまで、労働日の拡大に係る傾向を考察してきた。剰余労働に対する狼人間のごとき飽くなき渇望には、怪物的強制がともなった。それは、イギリスの一ブルジョワ経済学者をして、アメリカ大陸を征服したスペイン人が黄金のために行ったインディオに対する残虐さを上回るとは言わないが、と云わせたほどのものであった。しかるが故に、資本は最終的には法的規制の鎖に縛りつけられることになった。そこで、我々は、労働の搾取が法的規制から今日まで免れていた、または昨日までそうであったある産業部門について見て置くことにしよう。〉(インターネットから)


●注64

《61-63草稿》

 〈「労働は、資本を賃銀、利潤、あるいは収入を生じるものにする動因である」(ジョン・ウェイド『中間階級および労働者階級の歴史』、第3版、ロンドン、1835年、161ページ〉。(ウェイドは、彼の著書の抽象的な経済学的部分では、少しばかりの、当時としては独創的なものを示している、--たとえば経済恐慌、等々。これにたいして、歴史的部分はその全体が、イギリスの経済学者たちのあいだで流行っている恥知らずな剽窃の適切な一例である。つまり彼は、サー・F・モートン・イーデンの『貧民の状態、または、ノルマン征服期から現在までのイギリス労働者階級の歴史』、全3巻、ロンドン、1797年、からほとんど逐語的に引き写しているのである。)〉(草稿集④150頁)

《初版》

 〈(64)「工場主たちの食欲、利得追求のさいの彼らの残虐は、スペイン人がアメリカ征服のとき金の追求のさいに犯した残虐に、ほとんど劣ることがなかった。」(ジョン・ウェイド『中産階級および労働階級の歴史、第3版、ロンドン、1835年』、114ページ。)一種の経済学原理であるこの本の理論的部分は、当時としては幾らか独創的なものを、たとえば商業恐慌について含んでいる。歴史的な部分は、サー・M・イーデンの『貧民の歴史『貧民の状態』の誤記〕、ロンドン、1799年』、からのあっかましい瓢窃である。〉(江夏訳263-264頁)

《フランス語版》

 〈(30) あるブルジョア経済学者は、次のように述べている。「工場主たちが貪欲であるために利得の追求において犯している残虐さは、スペイン人がアメリカ征服のとぎに金の追求において犯した残虐さに、ほとんど劣りはしなかった」(ジョン・ウェード『中産階級および労働者階級の歴史』、第3版、ロンドン、1835年、114ページ)。この著書の理論的部分、すなわち一種の経済学概要は、当時としては、独創的なものを主として商業恐慌について含んでいる。歴史的部分は余りにもしばしば、サー・M・イーデンの著書『貧民の状態』、ロンドン、1797年、からのあつかましい剽窃である。〉(江夏・上杉訳242頁)

《イギリス語版》 なし。


●第2パラグラフ

《イギリスにおける労働者階級の状態》

  〈工場法の適用をうける4つの労働部門は、布地から衣服までの製造を目的としている。われわれは、ここではただちに、これらの工場から自分の原料をうけとるような労働者、しかもまずノッティンガム、ダービーおよびレスターの靴下編工のあとをおって述べるのが、いちばんよいであろう。これらの労働者については、児童雇用委員会の報告がつぎのように報じている。長い労働時間(これは低賃金にょって強制される)は、作業そのものの性質から生じるすわったままの生活様式や、目をつかれさせることといっしょになって、一般に身体を虚弱にし、とくに視力をよわくするのがふつうである、と。非常に強い光がないと、夜は仕事ができない。そこで編工は、光線を集中するためによくガラスのほやをつかうが、これが目を非常にいためる。14歳になると、ほとんどすべての編工は眼鏡をかけなければならない。そのさい、糸巻きと縫いもの(縁を折りかえして縫う仕事)をしている子供たちは、ふつうその健康と体質とに、いちじるしい障害をうける。彼らは、6歳、7歳、あるいは8歳のころから、ちっぽけな、うっとうしい部屋で、10時間ないし12時間も働く。多くの子供は、仕事のために虚弱となって、ごくふつうの家事の手伝いさえできないほどよわくなり、はやくも幼年時代のころから眼鏡をかけねばならなくなるほど近眼となる。腺病質的体質のあらゆる症候をそなえている子供が、委員たちによってたくさん発見された。そして工場主たちは、このような仕事をしていた娘は虚弱であるという理由で、たいてい工場で雇うのを拒否する。この子供たちの状態は「キリスト教国にとっての一汚点」とよばれ、また法的な保護をもとめる要請が述べられている(グレインジャー、報告の付録、第1部、Fの16ページ、132-142項)。工場報告はさらに、靴下編工はレスターでももっとも賃金の低い労働者である、と付言している--彼らは、毎日16時間ないし18時間も働いて、週に6シリング、非常に精だせば7シリングかせいだ。以前だと、20シリングから21シリングかせいだのだが、大型編機の採用は彼らの生業をだいなしにしてしまった。大部分の者は、あいかわらず旧式の、簡単な編機をつかって働いていて、機械の進歩と困難きわまる競争をしている。したがって、ここでもまた、どんな進歩もみな、労働者にとっては退歩となるのだ! だが、それにもかかわらず、靴下編工は、自分たちが自由であって、自分たちに食事や、睡眠や、仕事の時間を割り当てる工場の時鐘などまったくもっていない、ということを誇りにしている、と委員パワーは述べている。この種の労働者階級の状態は、賃金の点についてみれば、工場調査委員会が上記の言明をした1833年よりも、いまなおすこしも改善されていない--こうなったのも、それ自身食いものといえばほとんどなに一つもっていないザクセンの靴下編工の競争によるのである。この競争は、ほとんどすべての外国市場で、また品質のおとるものにあってはイギリスの市場でさえ、イギリス人に打撃をあたえている--ドイツの愛国的な靴下編工にとっては、自分の飢餓によってイギリスの靴下編工も失業させるということは、喜ばねばならないことではないだろうか? また彼は、ドイツエ業の名誉をたかめるために、誇りと喜びに胸をふくらませながら飢えつづけているのではないだろうか? それというのも、ドイツの栄誉は、編工の皿が半分しかいっぱいにならないことを要求しているからである。おお、競争とか、「諸国民の争闘」ということは、なんとすばらしいものではないか! 1843年12月の『モーニング・クロニクル』紙--これも自由主義的な新聞で、ことばのほんとうの意味におけるブルジョアジーの新聞である--には、ヒンクリのある靴下編工が、自分の仕事仲間の状態について報告した2、3の手紙が見うけられる。この編工は、わけても109台の編機で生活している50家族、あわせて321人について報告している。編機は、1台につき週平均5シリング6分の1の収益をもたらし、どの家族も、週平均11シリング4ペンスかせいだ。この収益のうちから、家賃、靴下編機の借り賃、石炭、灯火、石鹸、針のために、合計5シリング10ペンスが支出された。そこで、1日1人あたりの食料のためには1ペンス半--プロイセンの15ペニッヒ--が残り、衣服のためにはまったく残らなかった。
  「どんな目だって」、とこの靴下編工はいっている、「これらの貧しい人たちが耐えしのんでいる苦悩の半分も、見たことがないし、またどんな耳だって聞いたことがないし、どんな心だってわかったことがない。」
  寝具類はまったくないか、あるいは半数もなかった。子供たちはぼろを着て、はだしではしりまわっていた。男たちは目に涙をうかべていった。「われわれは、長い長いあいだひときれの肉も食ぺたことがない。われわれは、肉がどんな味のものかほとんどわすれてしまった」、と--そして、とうとう編工のなかのあるものは日曜日に働いた。世論は、日曜日の労働などすこしもゆるしはしなかったけれども、また編機のガチャガチャいう騒音は近所近辺に聞こえるにもかかわらず、おこなわれたのである。
  「しかし」とある編工はいった、「私の子供たちを見てくれ。そして、そんなことを聞くのはやめてくれ。私の貧乏がこんなことを私にさせるのだ。私が堂々とパンを入手できる最後の手段もとらないで、私の子供たちが、いつまでもパンをもとめて泣きさけぶのを、聞くこともできないし、また聞こうともおもわないのだ。先週の月曜目には私は3時ごろにおきて、真夜中ちかくまで働いたが、ほかの日でも、朝の6時から夜の11時、12時くらいまで働くのだ。私はこんなことをするのはいやだ。私は死にたくはないんだ。いまでは、私は毎晩10時ごろには仕事をやめ、そしてむだにした時間は、日曜日にとりかえしているんだ」と。
  賃金は、レスターでも、ダービーでも、またノッティンガムでも、1833年に比較して上がっていない。そして、いちばんわるいのは、レスターでは、すでにまえにも述べたように、トラック・システムがぎわめて広範におこなわれていることである。だから、この地方の靴下編工が、あらゆる労働運動に非常に活発な役割を演じるようになってきたし、また編機そのものがたいてい男たちの手で動かされるので、それだけいっそう熱心かつ効果的な役割を演じようになってきたことも、けっして驚くにはあたらないのである。
  靴下編工のくらしている地方と同じところに、レース製造業の中心地もある。前の三つの州には、全部で2760台のレース編機が動いているのに、イギリスのそのほかの部分には、わずかに786台あるにすぎない。レース製造業は、厳格におこなわれている分業によって非常に複雑なしくみになっていて、たくさんの部門をもっている。まず、撚糸を糸巻にまかねばならない。この仕事は、14歳以上の娘たちの手でおこなわれる(糸巻工 winders)。つぎに、糸巻が、8歳以上の少年たち(糸通し工 threaders)の手で機械にかけられる。糸は、機械1台につき平均1800個ある細い穴をとおされ、その所定の場所にみちびかれる。それから労働者がレースを編むわけだが、レースは、幅のひろい布のようになって機械からでてきて、ほんの幼い子供たちの手で、つなぎの糸がぬきとられ、1枚1枚のレースに仕分けられるのである--これはレースほどき(running lace) とか、レースぬき(drawing lace)とかよばれまた子供自身は、レースの解き手(lace-runner) とよばれる。それからレースは、売りにだせるまで仕上げられる--糸巻工も、糸通し工も、機械の糸巻がからになるとすぐに必要となるので、きちんとした労働時間はもっていない。そして、労働者は夜間も編むので、どんな時間にでも工場や、編工の作業室によばれるかもしれないのだ。こうした仕事の不規則さ、頻繁な夜業、そのために生じるめちゃくちゃな生活様式が、たくさんの肉体的および道徳的害悪、とくにあらゆる証人が一致して認めている放縦な、ませた性交を生みだす。作業そのものが、目に非常に有害である。糸通し工の場合には、永続的な害は一般には確認されていないが、それでもこの害は目の炎症をひきおこし、糸を穴にとおしているときには、目が痛んだり、涙がながれたり、視力が一時ぼけたりするようなことさえおこる。しかし、糸巻工の場合には、その作業が目をひどくいため、しばしば角膜炎のほかに白内障眼(ソコヒ)や、黒内障眼もひきおこすきがめずらしくないことは、確認されている。編工自身の作業は非常に困難である。それというのも、機械の幅が時とともにたえずひろく製作されるようになり、そのためいまでは、3人の成年男子によって動かされるような機械ばかりになっているからである。この3人は、それぞれ4時間ごとに他の者と交替するので、彼らは、3人全部を合計すると毎日24時間、そのひとりひとりは毎日8時間働くことになる。このことからも、機械をあまり長くとめておかないように、糸巻工と糸通し工とが、なぜこのようにしばしば夜も仕事をしなければならないかが、明らかになる。いずれにせよ、1800個の穴に糸巻の糸をとおすには、3人の子供で2時間かかる。多くの機械は蒸気力によっても動かされるので、成年男子の労働は排除される。そして、児童雇用委員会の報告は、子供たちの募集される「レース工場」についてしかいつも述べていないので、この点から推察すると、近ごろは編工の仕事が工場の大作業室に移されたか、それとも蒸気編みの応用がかなり一般化した、という結論がでてくるようにみえる。これら2つの場合とも、工場制度の進歩である。だが、もっとも不健康なのは解き手〔ラソナー〕の仕事である。彼らは、たいてい7歳、それどころか5歳または4歳の子供である。委員グレインジャーは、2歳の子供さえこの仕事にたずさわっているのを目撃した。精巧に編みあわされた編物から、針でぬきだされる同じ1本の糸をたどっていくことは、目に非常に有害である。ことに有害なのは、この仕事が、一般におこなわれているように、14時間ないし16時間も続行される場合である。もっとも害の少ない場合でも、極度にひどい近眼になり、最悪の場合には、しょっちゅうおこることではあるが、黒内障眼(ソコヒ)によって不治の盲目となる。ところがそのうえに、子供たちはいつも背をかがめてすわっているために、虚弱になり、息切れがし、消化不良によって腺病質になる。娘たちの場合には、子宮の機能障害はほとんど一般的にみられ、また脊椎の彎曲も同様である。そこで、「解き手はみんなその歩き方でわかる」。レースの刺繍も、同じ結果を目にも、体質全体にももたらす。レースの生産に従事している子供たちの健康が、いずれもはなはだしくそこなわれているということ、またこれらの子供は顔色がわるく、きゃしゃで、虚弱で、その年齢のわりに小さく、病気にたいする抵抗力もほかの者よりはるかによわいということは、医師の証人たちがみな一致して認めている。この子供たちのふつうの病気はつぎのとおりである。一般的な虚弱、たびたびの失神、頭・横腹・背中・腰の疼痛、心悸亢進(シンキコウシン)、吐き気、嘔吐と食欲減退、脊椎の彎曲、るいれきおよび肺結核。ことに、女性の身体の健康は、たえまなく、そしてはなはだしくそこなわれる。貧血症、難産および流産についての訴えは一般的であった(グレインジヤーの報告のいたるところ)。そのうえさらに、児童雇用委員会の同じ小委員〔グレインジャー〕は、つぎのように報告している。子供たちは、そまつな、ぼろぼろ着物を着ていることが非常に多く、食物も十分でなく、たいていパンとお茶だけで、しばしば数ヵ月間もまったく肉にありつかない、と。これらの子供たちの道徳的な状態については、グレインジャーは、つぎのように報告している。
  「ノッティンガムのすべての住民が、警察、僧侶、工場主、労働者、子供の両親自身が、現在の労働制度は不道徳を生みだすもっとも実りゆたかな源泉である、ということを一様に信じている。たいていは少年である糸通し工と、たいていは少女である糸巻工とは、工場では同じ時間に--ときには真夜中に必要である。そして彼らの両親は、彼らが工場でどのくらいのあいだ使われるか知ることができないので、彼らは、けしからぬ関係を結んだり、仕事のあとでいっしょに遊びまわったりする絶好の機会をもっている。このことが、世論によれば、ノッティンガムにものすごく広範に存在しているといわれる不道徳に、少なからず寄与している。それでなくても、これらの子供や若い人たちのぞくしている家族の家庭的な安らぎや、心地よさが、こうしたきわめて不自然な事態のために、まったく犠牲にされている」と。〉(全集第2巻422-426頁)

《61-63草稿》

 〈第一の例証ノッティンガムのレース製造業
  『デイリ・テレグラフ』、1860年1月17日付。
  「州治安判事ブロートン氏は、1860年1月14日、ノッティンガム市の公会堂で開かれたある集会の議長として、次のように言明した。--地域住民のうちレース製造業に従事している部分には他の文明世界のどこにもまったく例がないほどの苦悩と窮乏とが存在している。……9歳から10歳の児童が朝の2時、3時、4時ごろ彼らの汚いベッドから引き離されて、ただ露命をつなぐだけのために夜の10時、111時、12時まで労働することを強制されるのであって、その間に児童の手足は衰え、骨格は萎縮し、顔は苦労をきざみ込み、彼らの人間性はまったく石のような無感覚状態に硬化して見るも無残なありさまである。……われわれは、マリト氏やその他の工場主たちが敢然と進み出てあらゆる論議にたいして抗議したことに驚きはしない。……この制度は、モンタギュー・ヴァルピ師が描いているように、無制限な奴隷状態、つまり社会的にも肉体的にも道徳的にも精神的にも奴隷状態の制度である。……成人男子の労働時間を1日18時間に制限してもらいたいと請願するために公けの集会を開くような町があることを、いったいどう考えたらいいのだろうか?……われわれはヴァージニアやカロライナの綿花裁培者たちをロをきわめて非難している。だがしかし、徳らの黒人市場は、そこには鞭の恐怖や人肉売買があるとはいえ、ヴェールやカラーが資本家の利益のために製造されることのために行なわれているこの緩慢な人身御供にくらべて、それ以上に忌まわしいものと言えるのであろうか?」〉(草稿集④342頁)

《初版》

 〈「州治安判事ブロートン氏は、1860年1月14日にノッティンガム市の公会堂で催されたある集会の議長として、当市の住民のうちレース製造に従事している人々のあいだでは、他の文明社会には例がないほどの苦悩と窮乏とが支配的している、と述べた。……朝の2時、3時、4時に、9歳ないし10歳の児童たち、きたないベッドから引き離されて、露命をつなぐだけのために夜の10時、11時、12時まで強制的に働かされ、その間に彼らの手足はやせ衰え、彼らの身長はちぢまり、彼らの顔つきは鈍くなり、彼らの人間性はまったく石のような無感覚状態に硬直していて、見るもぞっとするようなありさまである。マレット氏やその他の工場主があらゆる論議にたいして異議をとなえるべく登場したことは、別に驚きはしない。尊師モソタギュー・ヴァルピ氏が記述しているように、この制度は、無制限な奴隷状態の制度、すなわち、社会的、肉体的、道徳的、知的といった点から見ても奴隷状態の制度である……。男子の労働時間は1日18時間に制限されるべきであると請願するために公の集会を催すような都市については、なんと考えるべきであろうか!……われわれはバージニアやカロライナの農場主をきびしく非難する。だが、彼らの黒人市場は、そこにどんな鞭の恐怖や人肉売買をもってしても、ヴェールやカラーが資本家の利益のため製造されるべく行なわれるこの緩漫な人間屠殺に比べて、よりいっそういまわしいものであろうか(65)?」〉(江夏訳264頁)

《フランス語版》

 〈「州治安判事ブロートン氏は、1860年1月14日にノッティンガム市役所で催された会合の議長として、市民のうちレース製造業に従事する部分では、残余の文明世界には知られていない貧困と窮乏の段階が支配している、と言明した。……9歳ないし10歳の児童たちが、朝の2時、3時、4時頃に不潔な寝床から追い立てられ、単なる糊口の資のため夜の10時、11時、12時まで労働することを強制される。痩せているために彼らは骸骨の状態に追い込まれ、身長は萎縮し、顔立ちは影がうすれ、体格のすべてが麻痺状態にこわばっているので、その容貌だけでも人を身震いさせる。……われわれは、マレット氏やその他の工場主があらゆる種類の討議にたいして抗議するために出席したことに、驚きはしない。……モンタギュー・ヴァルピ師が述べたように、この制度は無制限な奴隷状態の制度、社会的、肉体的、道徳的、知的なありとあらゆる観点での奴隷状態の制度である。……成人にとっての毎日の労働時間が18時間に短縮されるようにと請願するために、公の会合を主催する都市については、なんと考えるべきであろうか! ……われわれは、ヴァージニアやカロライナの栽培者たちをきびしく弾劾する。いったい、あらゆる鞭打ちの恐怖を伴う彼らの黒人奴隷市場は、彼らの人肉売買は、資本家の利潤のためにヴェールやシャツの襟を製造する目的でのみ行なわれるこの緩慢な人間殺戮よりも、恐ろしいであろうか(31)? 」〉(江夏・上杉訳242-243頁)

《イギリス語版》

  〈(2) ブロートン チャールトン州治安判事は、1860年1月14日、ノッチンガム議会で開催された会議の議長として、次のように述べた。「レース業界に関係する人々の大部分における、窮乏と苦難の状況は、英王国の他の地域や、世界の文明国では知ることができない程のものである。9歳または10歳の子供たちは、朝の2時、3時または4時に、彼等の汚いベッドから引きずり出され、かろうじての生存のために、深夜の10時、11時または12時まで働くことを強いられる。子供たちの手足はやせ細り、体はちぢこまり、顔は青白く、石のように麻痺したままで子供らしさは微塵も感じられない。本当に見るに忍びない。…我々は、マレット氏または、他のいかなる工場主が身を乗り出して、審議に反対の抗議をしようと、驚かされはしない。…この制度は、モンタギュー バルピー牧師が述べたように、厳格きわまりない奴隷制度そのものであって、社会的にも、肉体的にも、道徳的にも、精神的にも…人の労働時間は日18時間に減らされるべきであろうなどと云う申し立てのための公的会議を開催する町を我々は一体何と考えたらいいのか? …我々は、バージニアやカロライナの綿農園主を批難する。彼等の黒人市場、黒人を満載した船、黒人の人身売買が、ここで起こっている、資本家の利益のために編まれるベールや襟飾りの作業における、ゆるやかな人間性の喪失よりも、より忌まわしいものなのか。」〉(インターネットから)


●注65

《初版》

 〈(65) 1860年1月14日の『ロンドン・デーリー・テレグラフ』。〉(江夏訳264頁)

《フランス語版》

 〈(31) 『ロンドン・デーリー・テレグラフ』、1860年1月17日。〉(江夏・上杉訳243頁)

《イギリス語版》  なし。


●第3パラグラフ

《初版》

 〈スタッフォードシャー陶器業(Pottery)は、最近23年間に、3たび議会の調査の対象になった。その結果は、「児童労働調査委員会」宛の1841年のスクリプン氏の報告書、枢密院医務官の命により公表された1860年のドクター・グリーンハウの報告書(『公衆衛生、第3回報告書』、第1巻、102-113ページ)、最後に、1863年6月13日の『児童労働調査委員会、第1回報告書』中の1863年のロンジ氏の報告書、のなかに記録されている。私の課題にとっては、1860年と1863年の報告書中のこき使われた児童たちの証言から、手短に抜粋すれば、それで充分である。児童の状態から、成人、ことに少女や婦人の状態を、しかも、ある産業部門(66)--この部門に比べると、綿紡績業等々は非常に快適で健康的な仕事のように思える--では、推論できるであろう。〉(江夏訳264-265頁)

《フランス語版》

 〈スタッフォードシャの製陶業は、最近22年間に、3回にわたる議会調査の原因になった。この結果は、1841年に「児童労働調査委員会」宛に提出されたスクリヴン氏の報告書、枢密院医官の命により1860年に公表されたドクター・グリーンハウの報告書(『公衆衛生、第3回報告書』、第1巻、102-113ページ)、そして最後に、1863年6月13日の『児童労働調査委員会、第1回報告書』につけ加えられたロンジ氏の報告書、のなかに記載されている。われわれの目的にとっては、1860年と1863年の報告書から、工場内で労働する児童たち自身の幾つかの証言を借用するだけで充分である。児童の状態によって、ある産業部門では成人、殊に婦人や少女の状態を判断することができるであろうが、この部門に比べれば綿紡績業は素晴らしく健康的で快適な場所のように思われてよい、と認めざるをえない(32)。〉(江夏・上杉訳243頁)

《イギリス語版》

  〈(3) スタッフードシヤーの陶器製造業は、過去22年間で、3回、議会査問の対象となった。その結果は、1841年に「児童雇用コミッショナー」に提出されたスクリビン氏の報告書、1860年に枢密院の医務官の命令で公開されたグリーンハウ博士の報告書(公衆衛生第三次報告書112-113 )、そして最後が、1862年のロンゲ氏の「第一次児童雇用コミッショナー報告書 1863年7月13日」に収録された報告書である。私の目的を達するには、搾取された子供たち彼等自身のいくつかの証言を、1860年と1863年の報告から引用すれば充分である。子供たちの証言からは、大人の、特に少女や女性の状況も推測される。そして、この産業部門から見れば、綿紡績部門が、好ましいもので健康的な作業場に見えると。(以下、これらの報告書から 訳者注)〉(インターネットから)


●注66

《イギリスにおける労働者階級の状態》

  〈スタッフォードシァの鉄工業地方の北部に、一つの工業地区があるが、われわれは、いまからこの地区へむかうことにしよう。すなわち製陶業(Potteries) のおこなわれている地区であって、その中心地はストーク市(borough)である。この都市は、合計6万〔7万の誤り〕の人口を擁するヘンリ〔ハンリの誤り〕、バーズレム、レーン・エンド、レーン・デルフ、エトルリア、コールリッジ〔コプリッジの誤り〕、ラングポート〔ロングポートの誤り〕、タンストールおよびゴールデン・ヒルの町村をふくんでいる。児童雇用委員会は、この工業についてつぎのように報告している。この製造業--陶磁器の--の2、3の部門では、子供たちは暖かい、風とおしのよい作業室で、らくな仕事をしている。ところが、そのほかの部門では、子供たちには困難な、骨のおれる仕事が要求されている。それなのに子供たちは、十分な食物も、ちゃんとした衣服ももらっていない。多くの子供たちがこううったえている。「食物が十分になく、たいていジャガイモと塩で、肉にも、パンにもまったくありつきません。学校にはいかないし、着物も持っていません。」-- 「きょうは昼飯をなんにも食べませんでした。家では昼飯を食うことなんかありません。たいていジャガイモと塩で、ときたまパンにありつきます。」--「これが私の持っている着物の全部です。家にも晴れ着はありません」と。とくに有害な仕事をしている子供たちのなかでも、型運び(mould-runners) については述べておく必要がある。型運びの連中は、かたちの仕上がった品物を型に入れたまま乾燥室にはこび、その後はじめの品物が適当に乾燥すると、からになった型を持ってかえらねばならない。このように型運びの子供たちは、1日じゅうその年齢のわりに重いものを持って、行ったり来たりしなければならない。そして、彼らはこういった仕事を高い温度のなかでしなければならないので、この高温が、彼らの疲労をいっそうはなはだしく増大させる。これらの子供たちは、ほとんどただ1人の例外もなく、やせて、青白く、虚弱で、小さくて、発育不良である。ほとんどすぺての子供たちが、胃病、嘔吐(オウト)、食欲不振になやみ、また彼らの多くが肺病で死ぬ。ろくろまわし(jigger)とよばれている少年たちも、型運びの子供たちとほとんど同じように虚弱である。この少年たちは、彼らのまわさなければならないろくろ台(jigger) の名にちなんで、こうよばれているわけである。しかし、ずっとひどく有害なのは、多量の鉛と、しばしばたくさんの砒(ヒ)素もふくんでいる液体のなかに、仕上がった品物をつけたり、または液につけたばかりの品物を手にとらねばならない人たちの仕事である。これらの労働者--成年男子と子供たち--の手と着物は、つねにこの液体でぬれている。皮膚はやわらかくなっていて、きめのあらい物をたえず扱うので、はがれてしまう。そこで、指はよく出血し、これらの危険な元素を非常に吸収しやすいような状態に、たえずおかれている。その結果は、胃や内臓の重病、しつような便秘、疝(セン)痛〔一定の時間をおいて周期的に現れることの多い,腹部の激痛〕、ときには肺病であり、もっとも頻繁におこるのは子供のてんかんである。成年男子の場合は、ふつう手の筋肉の部分的麻痺、すなわち画家の疝(セン)痛(colica pictorum) や手足全体の麻痺がおこる。ある証人の述べるところによると、この証人といっしょに働いていた2人の少年は、仕事中にけいれんをおこして死んだということである。また、少年のころ2年間、液に品物をつける手伝いをした経験のあるいま1人の証人は、つぎのように述べている。私は、はじめひどい下腹部の苦痛になやみました。それから、けいれんを1度おこし、そのために2ヵ月も病床につきました。それからというものは、けいれんはますます頻繁におこり、いまでは毎日のことで、1日に10回ないし12回もてんかん性の発作が頻発します。私の右半身は麻痺しています。そして医師の話では、私はもう2度と自分の手足をつかえるようにはならないとのことです、と。ある工場の浸潰(シンセキ)室〔浸潰とは液体につけひたすこと〕で働いていた4人の成年男子は、いずれもてんかん性の症状をていし、ひどい疵痛になやんでいた。また、2人の少年のうち、すでに2、3人はてんかん性の症状をていしていた。簡単にいえば、これらのおそろしい病気が、こうした仕事の結果として、まったく一般的におこってくるのであって、しかもこれがまた、ブルジョアジーのいっそう大きな金もうけのためなのである! 陶磁器をみがく作業室では、空気は、粉末となった硅(ケイ)石のごみで充満している。このごみを吸入することは、シェフィールドの研摩工が鋼鉄のごみを吸入するのと同じように、有害な作用をおよぼす。労働者たちの吸吸はくるしくなり、彼らは静かに横になることができず、傷ついた喉(ノド)や、ひどい咳にくるしみ、ほとんど聞きとれないくらいの低い声になってしまう。彼らもまたみんな肺病で死ぬ。陶磁器製造地方には、比較的多くの学校があり、子供たちに教育の機会をあたえているはずであるが、それでも子供たちは、非常に小さいときから工場にやられ、非常に長時間(たいてい12時間、しばしばそれ以上も)働かねばならないので、学校も利用することができない。そのために、委員たちの調査した子供の4分の3は、読むことも、書くこともできなかった。そして、この地方全体が無知のどん底にあった。何年間も日曜学校にかよった子供たちが、一つの文字をほかの文字と区別することができなかった。そして、この地方全体が、知的教育ばかりか、道徳教育においても、宗教においても、非常に低い水準にある(スクリヴン、報告と証言)。〉(全集第2巻440-442頁)

《初版》

 〈(66)エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』、249-251ページ、参照。〉(江夏訳265頁)

《フランス語版》

 〈(32) エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』、249-251ページ、を見よ。〉(江夏・上杉訳243頁)

《イギリス語版》  なし。


●第4パラグラフ

《初版》

 〈9歳のウィリアム・ウッドは「働き始めたときは7歳10カ月だった。」彼は最初から"ran moulds"した(できあがって型にはいった品を乾燥室に運び、そのあと空の型を持って帰った)。彼は平日は毎日、朝の6時にきて、夜の9時頃には仕事を終える。「私は平日には毎日晩の9時まで働いています。たとえば最近7-8週間はそうです。」つまり、7歳で15時間も働いた児童がいる! J・マレーという12歳の児童はこう供述している。「私は型を運び、turn jigger(ろくろをまわします)。私は朝の6時に、時には朝の4時にやって来ます。昨夜は今朝の8時まで夜どおし働きました。昨夜から寝ていません。私のほかにも8人か9人の児童が昨夜は夜どおし働きました。1人を除いて全員が今朝もまた来ています。私は週に3シリング6ペンス(1ターレル5グロシェン) もらいます。夜どおし働いてもそれ以上はもらえません。先週は2晩徹夜で働きました。」10歳の少年ファーニハフはこう言う。「私は、必ずしも昼食のためにまる1時間もらえるわけではありません。半時間だけのこともよくあります。木、金、土曜はいつでもそうです(67)。」〉(江夏訳265頁)

《フランス語版》

 〈9歳のウィリアム・ウッドが「働きはじめたときは、7歳10カ月であった」。彼は「型運びをした」(坩堝(ルツボ)を乾燥場のなかに運び、次いで空の鋳型を持ち帰った)。このことを彼はいつも行なったのである。彼は1週間の毎日、朝の6時頃にやってきて、おおかた晩の9時頃に働くのをやめる。「私は毎日晩の9時まで働きます。たとえば最近7週ないし8週間はそうです」。なんとまあ、7歳の年から15時間も働いた児童がいる! 12歳の児童であるJ・マリーはこう述べている。「私は型運びをして、ろくろをまわします〈I run moulds and turn th'jigger〉。私は朝の6時に、ときどきは4時にやってきます。昨夜は今朝の8時まで夜どおし働きました。私はそれからは寝ませんでした。別の8人か9人の少年が、私と同じょうに昨夜は夜どおし働きました。私は毎週3シリング6ペンス(4フラン40サンチーム)を受け取ります。夜どおし働いても、これ以上は受け取りません。私は先週、2晩夜どおし働きました」。10歳の児童であるファーニハフはこう述べている。「昼食用にいつも1時間はありません。木、金、土曜日には半時間しかありません(33)」。〉(江夏・上杉243-244訳頁)

《イギリス語版》

  〈(4) ウイリアム ウッド 9歳は、7歳10ヶ月の時に働き始めた。彼は最初から「型運び」( 型に入っている品物を乾燥室に運び、その後、空になった型を、持ち帰る仕事) をやった。彼は、週の毎日朝6時に働きに来た、そして午後9時に帰った。「ぼくは週のうち6日は夜9時まで働き、7週から8週はそうであった。」7歳の子供に15時間労働とは!
 J マレー 12歳は、次のように証言した。「私はろくろを回し、型運びをした。私は6時に来る。時には4時に来る。昨日は徹夜で働いた。朝の6時まで。一昨日から、ベッドへは行っていない。他に8人か9人の他の少年たちが徹夜で働いていた。一人を除いて全員が今朝も来た。私は3シリング6ペンスを得る。私は夜の仕事をしてもそれ以上は得ていない。先週は二晩働いた。
 ファニーホウ 10歳の少年は、「いつも、(食事のための)1時間はない。時には30分しかない。木曜日、金曜日、そして土曜日。」(第一次児童雇用コミッショナー報告書 1863年)〉(インターネットから)


●注67

《初版》

 〈(67)『児童労働調査委員会、第1回報告書、1863年』、付録、16、19、18ページ。〉(江夏訳265頁)

《フランス語版》

 〈(33) 『児童労働調査委員会。第1回報告書、1863年』、付録、16、19、18ページ。〉(江夏・上杉訳244頁)

《イギリス語版》  なし。


●第5パラグラフ

《初版》

 〈ドクター・グリーンハウは、ストーク・アポン・トレントウルスタントンの製陶業地方では寿命が特に短い、と述べている。ストーク地方では20歳以上の男子人口の30.6%しか、ウルスタントンでは30.4%しか、製陶工場に従事していないのに、20歳以上の男子で肺病が死因の死亡者数のうち、前者の地方では半ば以上が、後者の地方では約2/5が、陶工である。ハンリの開業医であるドクター・ブースロイドはこう供述している。「陶工の後の世代はどれも、前の世代よりも接小で虚弱である。」もう一人の医師マックビーン氏もこう言っている。「25年前に陶工のあいだで開業して以来、この階級の人目をひく退化が、身長や体重の低下のうちに、だんだん現われてきた。」これらの供述は、1860年のドクター・グリーンハウの報告書から借用したものである(68)。〉(江夏訳265-266頁)

《フランス語版》

 〈ドクター・グリーソハウは、陶器工場のあるストーク・アポン・トレントやウルスタントン地方では寿命が非常に短い、と言明している。陶器工場の従業者は、ストーク地方では20歳以上の男子人口の30.6%、ウルスタントン地方ではその30.4%だけであるのに、第一の地方では肺病による死亡件数の半数以上が、第二の地方では約2/5が、陶工のあいだで発見されている。
  一方、ハンリの医者であるドクター・ブースロイドは、こう断言している。「陶工のどの新しい世代もその前の世代より矮小で虚弱である」。同様に別の医師マックビーン氏もこう断言している。「私が陶工のあいだで開業して25年このかた、この階級の退化は身長と体重との減少を通して顕著に現われてきている」。これらの証言は、1860年のドクター・グリーンハウの報告書から借用されたものである(34)。〉(江夏・上杉訳244頁)

《イギリス語版》

  〈(5) グリーンハウ博士は、ストーク-オン-トレンドやウォルスタントンの製陶業地域での平均寿命が異常に短いと述べた。陶器製造業に雇われている20歳以上の成人男子人口は、ストーク地域で僅か36.6%、ウォルスタントン地域ではただの30.4%に過ぎないのであるが、第一の地域では、20歳以上の成人男子で、肺疾患で亡くなった人の半数以上が、第二の地域では、約 2/5が、陶工であった。アンレイの開業医 ブースロイド博士は、「後継世代の陶工は、誰もが、先代の者に較べて、矮小で健康も劣っている。」と述べた。他にマックビーンズ医師も同様、「私が25年前に陶工達の間で開業して以来、私は、このはっきりした退化、特に身長と胸囲の減少が見られた。」これらの記述は、1860年のグリーンハウ博士の報告書(公衆衛生第三次報告書)から取りだしたものである。〉(インターネットから)


●注68

《初版》

 〈(68) 『公衆衛生、第3回報告書』、102、104、105ページ。〉(江夏訳256頁)

《フランス語版》

 〈(34) 『公衆衛生。第3回報告書』、102、104、105ページ。〉(江夏・上杉訳244頁)

《イギリス語版》 なし。


  (付属資料№2に続く)

 

 

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