『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(6)

2023-07-14 11:19:42 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(6)


【付属資料】№2


●第6パラグラフ

《初版》 初版では全集版の6、7、8パラグラフが一つのパラグラフになっている。該当するパラグラフ番号(⑥、⑦、⑧)を挿入しておく。

 〈⑥1863年の委員たちの報告書は次のとおりである。ノース・スタフォードシャー病院の医長、ドクター・J・T・アーレッジは、こう言っている。「一つの階級として、陶工は男も女も……肉体的にも精神的にも退化した住民を代表している。彼らは通例、萎縮しており、体格が悪いし、胸が奇形になっていることも多い。彼らは早くふけて短命である。彼らは粘液質で貧血であり、体質が虚弱なことは、消化不良や肝臓障害や腎臓障害やリューマチスのような痼疾(コシツ:いつまでも完治しない病気。ながわずらい。持病。)にかかっていることでわかる。だが、彼らはとりわけ、肺炎や肺結核や気管支炎や喘息といった胸部疾患にかかりやすい。ある型の喘息は彼らに特有のものであって、陶工喘息とか陶工肺病という名で知られている。腺や骨や身体のその他の部分を侵す瘰癧(ルイレキ: 結核性頸部リンパ節炎の古い呼称。感染巣から結核菌が運ばれて起こる結核症の特異型。多く頸のあたりに生じて瘤(こぶ)状をなし、次第に蔓延して膿をもち、終に破れて膿汁を分泌する。)は、陶工の3分の2以上の病気である。……この地方の住民の退化(Degenerescence)がこれ以上ずっとひどくならないのは、もっぱら、周囲の農村地方からの補充のおかげでもあし、いっそう健康な種族との雑婚のおかげでもある。」⑦先日までは同じ病院の住み込み外科医であったチャールズ・ピアソン氏は、ロンジ委員宛の手紙のなかで、なかんずくこう書いている。「私は、個人的観察から言えるだけで、統計上は言えないが、これらの哀れな児童たちの健康が両親や雇主の食欲をみたすために犠牲に供されているのを見ては、幾度も憤激に燃えた、と断言してはばからない。」⑧彼は、陶工の病気の原因を数えあげて、“Long Hours"「長時間労働」)を最たるものとしている。この委員会報告書はこう望んでいる。「世界の注視のなかでこのように卓越した地位を占めている製造業は、それの偉大な成果には、自分たちの労働と熟練とに依拠してかくも偉大な成果を達成した労働者住民の、肉体的退化や、多岐にわたる身体上の苦痛や、夭折が、伴っている、という汚名を、もうこれ以上長く負うことはないであろう(69)。」と。イングランドの製陶工場にあてはまることは、スコットランドの製陶工場にもあてはまる(70)。〉(江夏訳266-267頁)

《フランス語版》  フランス語版は全集版の第6・7・8パラグラフを一つのパラグラフにしている。パラグラフ番号を挿入しておく。

 〈⑥1863年に公表された委員会報告書からの抜粋。ノース・スタフォードシャ病院の医長J・T・アーレッジは、彼の証言のなかでこう言う。「階級としては、陶工は男も女も……精神的にも肉体的にも退化した住民を代表している。彼らは一般に、身長が綾小で不恰好であり胸部が畸形である。彼らはいちはやく老いこんで短命である。彼らは粘液質で貧血であり、消化不良の執拗な発作や腎臓や肝臓の調子の狂いやリューマチスによって、体質の虚弱なことを表している。彼らはなによりもまず、胸部の病、すなわち肺炎や肺結核や気管支炎や喘息にかかりやすい。腺や骨や身体のその他の部分を冒す瘰癧(ルイレキ)は、陶工の3分の2以上の病気である。この地方の住民の退化がもっとずっとひどくならないのは、もっぱら、近隣の農村からの徴募と、もっと健康な種族との結婚による雑交とのおかげである。……」。⑦同じ病院の外科医であるチャールズ・ピアソン氏は、委員ロンジ宛の手紙のなかで、なかんずくこう書いている。「私は自分の個人的な観察にもとづいてしか語りえず、統計にもとづいては語りえないが、次のことを確認する。すなわち、これらの憐れな児童たちの健康が、過度労働によって彼らの両親や雇主の貪欲をみたすために犠牲に供されるのを見て、私はしばしば非常に憤激した、ということを」。⑧彼は陶工の病気の原因を数えあげ、最たるものの「長時間労働」〈The Long Hours〉をもって彼の一覧表を閉じている。この委員会はその報告書のなかで次のような希望を表わしている。「世界の注視するところでこれほどに高い地位を占めている一工業も、その輝かしい成果が、これを勝ちとらせた労働と熟練のために、労働者住民の肉体的退化や無数の肉体的苦悩や早死を伴っている、という恥辱には、もはや長い間耐えられないであろう(35)」。イングランドの陶器工場について真実であることは、スコットランドの陶器工場にも真実である(36)。〉(江夏・上杉訳244-245頁)

《イギリス語版》

  〈(6) 1863年の児童雇用コミッショナー報告書から、次のようなものを読むことができる。北スタッフードシヤー病院の上級医師である J. T. アーレッジ博士、こう述べている。「陶工は、一階級ひとまとめにして、男も女も衰弱しきった人々の代表である。肉体的にも精神的にもである。彼等は、一般的に、発育不全で、病弱で、多くは胸に病状が見られる。彼等は早くから年寄りのようになり、当然のように短命に終わる。彼等は無気力で、青白く、消化不良が顕著で、肝臓や腎臓の不調があり、またリウマチに罹っているなど、健康障害の数々が見られる。とはいえ、これらの様々な病気の中で、特にはっきりしている傾向は、胸の病気である。肺結核、気管支炎、そして喘息である。彼等に特異的に表れるのは、よく云われる陶工喘息、または陶工の使い捨てである。腺または骨、またはその他の体の各部分を冒す腺病は、陶工の2/3またはそれ以上を占める病気である。… この地方の人々の退化が現状より悪化しないのは、近郊から絶え間く陶工が補充されるからであり、またより健康な人々との結婚によるものである。」〉(インターネットから)


●第7パラグラフ

《初版》 第6パラグラフに掲載

《フランス語版》  第6パラグラフに掲載。

《イギリス語版》 イギリス語版は全集版の第7、8パラグラフが一つになっている。

  〈(7)⑦ 同病院の専門外科医であった、故 チャールス パーソンズ氏は、ロンゲ コミッショナー宛の手紙の中で、様々な事を書いているが、とりわけ次の点に触れている。「私は私の個人的観察からのみ云うことができるのであるが、統計的なデータからではないが、不憫な子供たちを見ては、何回となく感じざるを得ない怒りを表すに躊躇しない。子供たちは両親と雇用主のあくなき渇欲の満足のために、自分達の健康を犠牲にしている。」⑧彼は、陶工たちの病気の原因をいろいろと列挙し、次の言葉で要約している。「長時間労働」と。このコミッショナーの報告書は、以下のことを信じているとある。「全世界でこれほどの栄光を獲得したと称される製造業が、その成功の傍らに、労働者達の身体的退化、蔓延する肉体的な苦悩、早過ぎる死、がまつわり付いていると云う点を延々と指摘され続けることはないであろうと。この偉大な成果は、労働者の労働と技術によって達成されたのであるのだから。」そして、英国の製陶業で起こったことの全ては、スコットランドの製陶業でも同様であった。〉(インターネットから)


●第8パラグラフ

《初版》  第6パラグラフに掲載

《フランス語版》  第6パラグラフに掲載。

《イギリス語版》 第7パラグラフに掲載。


●注69.70

《初版》

 〈(69)『児童労働調査委員会。1863年』、24、22ページ、および別付11ページ。
       (70)同前、別付47ページ。〉(江夏訳267頁)

《フランス語版》

 〈(35) 『児童労働調査委員会、1863年』、22、24ページ、および別付11ページ。
       (36)  同前、別付47ページ。〉(江夏・上杉訳245頁)

《イギリス語版》 なし。


●第9パラグラフ

《初版》

 〈マッチ製造業は、1833年に、燐を軸木そのものにつけることの発明から始まっている。それは、1845年以来イングランドで急速に発達し、ロンドンの人口調密な地区から、ことにマンチェスター、バーミンガム、リパプール、プリストル、ノリッジ、ニューカッスル、グラスゴーにも広まったが、それとともに、ウィーンのある医師がマッチ製造工に特有な病気であると1845年にすでに発見していた咬痙(コウケイ:口を開こうとすると口の筋肉が痙攣けいれんして、歯を食いしばるような状態になる症状。)も、広がったのである。労働者の半数は、13歳未満の児童と18歳未満の青少年である。この製造業は非衛生であり不快であるために評判が悪いので、この製造業に「ぼろをまとった、飢え死にしそうな、全くほっぽらかされた、無教育な児童(71)」を引き渡すのは、労働者階級中の最も零落した部分である飢え死にしそうな寡婦等々だけである。委員ホワイトが(1863年に)尋問した証人のうち、270人は18歳未満、40人は10歳未満、10人はわずか8歳、5人はわずか6歳であった。労働日の長さは、12時間から14時間、15時間のあいだにあり、夜間労働が行なわれ、食事は時間が不規則で、たいてダンテも、いは燐毒の充満した作業室そのもののなかで行なわれている(71)。ダンテも、こんな工場を見ては、彼の残酷きわまる地獄の表象もこれには及ばない、と思うであろう。〉(江夏訳267頁)

《フランス語版》

 〈マッチ製造業は1833年、燐を軸木に付着する方法が発明された時代に始まる。1845年以来それはイングランドで急速に発展し、そこでは、ロンドンの最も人口稠密な区域から、次にはマンチェスター、バーミンガム、リヴァプール、ブリストル、ノリジ、ニューカスル、グラスゴーにひろがったが、そのひろがりはいたるところで、ウィーンのある医者がすでに1845年にマッチ製造職人に特有であると表明した顎痙攣症(ガクケイレンシヨウ)を伴っていたのである。
  労働者の半数は13歳未満の児童と18歳未満の青少年である。この工業は非常に非衛生でむなくそ悪く、そのために非常に不評であるので、労働者階級のなかで最も貧困な部分だけが、この工業に子供を、「ぼろをまとった、飢餓で半死半生の、堕落した子供(37)」を、提供するのである。委員ホワイトが(1863年)聴聞した証人のうち、270人が18歳未満、40人が10歳未満、12人が8歳、5人がまだわずかに6歳であった。1労働日は12時間から14時間、15時間までのあいだを変動し、夜間労働が行なわれ、不規則な食事がたいてい、燐で毒された工場の部屋のなかでとられる。ダンテは、彼の地獄の責苦もこの工場の責苦には及ぼぬことを見出すであろう。〉(江夏・上杉訳245-246頁)

《イギリス語版》  イギリス語版は全集版の第9パラグラフを(8)、(9)の二つのパラグラフに分けている。ここでは一緒に紹介しておく。

  〈(8) 黄燐マッチ製造業は、1883年 マッチの軸木本体に燐を用いる方法の発明から始まった。1845年以降、この製造業は英国において急速に発展し、特にロンドンの人口の多い地区の中で広がり、同様、マンチェスター、バーミンガム、リバプール、ブリストル、ノーリッジ、ニューカッスル、そしてグラスゴーでも広がった。それとともに、破傷風初期によく見られる咬みあわせの痙攣も広がった。ウィーンの一医師が1845年に発見した、黄燐マッチ製造業に特異的な病気である。労働者の半数は、13歳以下の子供たちと、18歳以下の少年である。この製造業は、その非健康的であること、悪臭がひどく、その不快きわまりないことから、労働者階級の最も悲惨な人々、半飢餓状態の寡婦等々が、彼女等の子供たちをそこになげやった。ぼろを纏った、半飢餓の、教育を受けたこともない子供たちを。
 (9) (1863年)、ホワイト コミッショナーが尋問した証人の270人は18歳以下であり、50人は10歳以下、10人は8歳、5人はただの6歳であった。夜間の労働、不規則な食事時間、食事も大抵は有害な燐のある作業場そのものの中で取っていた。ダンテも、彼の最恐の地獄よりもさらに恐ろしい地獄を、この製造業の中に見つけたことであろう。〉(インターネットから)


●注71

《初版》

 〈(71) 同前、別付54ページ。〉(江夏訳367頁)

《フランス語版》

 〈(37) 同前、別付54ページ。〉(江夏・上杉訳246頁)

《イギリス語版》  なし。


●第10パラグラフ

《初版》  初版は全集版の第10・11・12パラグラフが一つのパラグラフになっている。該当する部分にパラグラフ番号を挿入しておく。

 〈⑩壁紙工場では、粗製品は機械で、精製品は手で(block printing)、印刷されている。最も仕事の忙しい月は、10月の初めから4月の終わりまでである。この期間中、この仕事は、しばしば、しかもほとんど中断なしに、午前6時から夜の10時かまたは深夜まで続く。  J・リーチはこう供述している。「この冬(1862年)には、19人の少女のうち6人が、超過労働が原因の病気のために欠勤しました。彼女たちを眠らせないために、私は彼女たちに向かってどなりつけなければなりません。」W・ダフィは言う。「児童たちはしばしば疲労のために自をあけていられませんでした。じっさい、私たち自身もしばしばほとんどそうなのです。」J・ライトボルンは言う。「私は13歳です。……私たちは、この冬は夜の9時まで、その前の冬は夜の10時まで、働きました。この冬はいつも、足の傷が痛くてほんとど毎晩泣いていました。」G・アプスデンは言う。「私のこの子が7つのとき、私はこの子を肩に背負って雪の中を行き帰りするのが常でした。そしてこの子は16時間働くのが常でした!……この子が機械のそばに立っているあいだにというのはこの子が機械を離れたりとめたりしてはならないからなのですが、私はしばしば、低くひざまずいてこの子に食べさせたものです。」マンチェスターのある工場の業務執行社員であるスミスは、こう言う。「われわれ(と彼が言うのは、『われわれ』のために働く彼の『入手』のことである)は食事のために中断することもなく働くので、10[1/2]時間の1日労働は午後の4時半に終わり、そのあとはすべて規定外時間(72)である。(このスミス氏自身、10[1/2]時間のあいだにはたして食事をとらないのであろうか? )われわれ(当のスミス)が夕方の6時前にやめること(と彼が言うのは、『われわれの』労働力という機械の消費をやめることである)はまれであるので、われわれ(同じクリスピヌス〔同じ人物という意味〕)は、実は、まる1年じゅう規定時間を越えて働いている。……子供と大人(152人の児童や18歳未満の青少年と140人の大人)が同じように、最近18か月間は、平均して週に少なくとも7日と5時間すなわち毎週78[1/2]時間、働いた。今年(1863年)の5月2日に終わる6週間では、平均はもっと高く--週に8日すなわち84時間であった!」⑪しかし、複数の陛下〔われわれ〕にこうもひどく執着する当のスミス氏は、にやにや笑いながらこうつけ加える。「機械労働はたやすい」と。すると、木版手制り法の使用者たちはこう言う。「手労働は機械労働よりも衛生的だ」と。一般に工場主諸氏は、「少なくとも食事時間中は機械をとめよう」という提案には、憤激して反対を表明する。バラ〔ロンドンにある自治区〕の壁紙工場の支配人オトリ氏はこう言う。「朝の6時から晩の9時までの労働時間を許す法律があれば、われわれには(!)たいへんありがたいのだが、朝の6時から夕方の6時までという工場法の時間は、われわれには(!)都合が悪い。……われわれの機械は昼食時間中(なんと寛容なことよ!) 停止されている。この機械の停止からは、紙や絵の具にこれというほどの損失は生じない。」「しかし」、と彼は思いやり深くつけ加えてこう言う。「私の理解できることだがこれと結びついている損失は好ましいものではない。」 ⑫委員会報告書は、素朴にも次のような意見である。時間、すなわち他人の労働時間を奪取する時間を失い、またこのことによって「利潤を失う」という、幾つかの「有力商会」の懸念は、13歳未満の児童や18歳未満の青少年に12-16時間のあいだ昼食を「とらせないでおく」ための、「充分な理由」でもなければ、生産過程そのもののあいだに労働手段の単なる補助材料として、蒸気機関に石炭や水をやったり羊毛に石鹸をつけたり車輸に油を塗ったりするように、彼らに昼食を支給するための、「充分な理由」でもない(73)。〉(江夏訳267-269頁)

《フランス語版》  フランス語版は全集版の第10・11・12パラグラフを一つのパラグラフにしている。パラグラフ番号を挿入しておく。

 〈⑩壁紙工場では、最も粗悪な種類の壁紙は機械で印刷され、最も精巧な種類の壁紙は手で印刷される〈block printing〉。最も活気のある季節は10月に始まって4月に終わる。この期間中、労働はしばしば、またほとんど中断することなく、朝の6時から夜の10時まで続き、深夜までも延長される。
  幾人かの証人の言うことに耳を傾けよう。--J・リーチ「昨年の冬(1862年)、19人の少女のうち6人は、過度労働が原因の病気のために、もはや出勤しませんでした。他の者たちの眼を覚ませておくために、私は彼女らの体を揺り動かさざるをえません」。--W・ダフィ「児童たちは非常に疲れているので眼をあけていることができないし、実はしばしばわれわれだってこれ以上眼をあけていることができません」。--J・ライトボーン「私は13歳です。……私たちは昨冬は晩の9時まで働き、その前の冬は10時まで働きました。この冬はほとんど毎暁、足がひどく痛むのでその痛みに泣いていました」。--G・アプスデン「私のこの幼い子が7歳のとき、雪のために、私はこの子を背中に背負って工場まで往復したものです、そして、この子は16時間も働くのが常でした!……私は実にしばしば、この子が機械についているあいだ、ひざまずいてこの子に食事をさせました。というのは、この子は自分の仕事から立ち去ることもそれを中断することもしてはならなかったからです」。--マンチェスターの一工場の業務執行社員〔出資者である社員のなかで業務執行をまかされている社員〕であるスミス「われわれ(彼が「われわれ」と言うのは、「われわれ」のために働く彼の「人手(38)」のことである)は、食事のために労働を中断することもなく働くので、10時間半という通常の労働日は午後4時半頃に終わり、残余はすべて残業時間(39)である(果してこのスミス氏が、10時間半のあいだ実際に全然食事をとらないのかどうか!)。われわれ(骨身を惜しまないスミス) は夕方の6時前にやめること(「われわれの人間機械」を消費することをやめる、という意味)が滅多にないので、われわれ(同じクリスピヌス〔クリスピヌスは、ユヴェナリスの詩のなかの、ローマ皇帝ドミティアヌスの廷臣である。「同じクリスピヌス」とは、「また同じ人物」という意味で使われる〕)は実際まる1年のあいだ残業して労働するのである。……児童と成人(152人の児童と18歳未満の青少年、および140人の成人)は最近18カ月間、規則的にしかも平均して1週間に少なくとも7日と5時間、すなわち78時間半労働した。今年(1863年) の5月2日に終わる6週間については、平均がいっそう高く、1週間に8日すなわち84時間であった!」⑪だが、このスミスは、満足げにあざ笑いながらこうつけ加える。「機械労働は骨の折れるものでない」。確かに、手刷りを使用する工場主のほうはこう言う。「手労働は機械労働よりも衛生的である」。要するに、工場主諸君は、たとえ食事の時間中でも機械をとめようとするどの提案にも、断乎として反対を表明する。バラにある壁紙工場の支配人オトリ氏は、こう言う。「朝の6時から晩の9時までの労働時間をわれわれに認めてくれる法律は、われわれの好みにぴったりだが、朝の6時から夕方の6時までの工場法の時間は、われわれに全くふさわしくない。……われわれは機械を昼食中とめている(なんと寛大なことよ!)。この停止によって生ずる紙や絵具の損失については、とやかく言うほどのことはない」。彼は好人物風にこう観察する。「しかし、こんな損失は誰も好まないことはわかる」。⑫委員会報告書は素朴にも、次のような見解を示している。すなわち、他人の労働時間を少し減らすことで、幾らかの利潤を失うのではないかという懸念は、13歳未満の児童や18歳未満の青少年に12時間ないし16時間のあいだ昼食をとらせないでおくための「充分な理由」でもなければ、蒸気機関に石炭や水を、車輪に油を給するなどのように、一言にして言えば、生産の経過中に労働手段に補助材料を供給するように、彼らに昼食を支給するための「充分な理由」でもない(40)、と。〉(江夏・上杉訳246-248頁)

《イギリス語版》 イギリス語版では全集版の第10が(10)と(11)に分けられ。(11)には全集版の第10パラグラフだけでなく、11、12パラグラフが合体させられている。ここではそれをすべて紹介しておく。

  〈(10)⑩壁紙製造業では、粗雑な下等ものは、機械印刷される。上等のものは、手で(木版印刷で)仕上げる。もっとも忙しい月は、10月の初めから4月の終りまでである。この間、仕事は朝6時から夜10時まで、またはさらに深夜近くまで、休みなく怒濤のごとく続く。
 (11) J. リーチは、次のように述べた。「冬、ここのところ、19人の少女のうち6人が、同時に、過労から病気で休んでしまったので、残りの彼女らを起こして置くために、私は、彼女らのそばで、どならねばならなかった。」
 W. ダッフィは、「子供たちは、眼を開けていられず、仕事にならなかったのをよく見ることがあった。本当のところ、我々もそんな状態だった。」
 J. ライトボーンは、「私は13歳、我々はこの冬、(夜の) 9時まで働いた。去年の冬は、10時までだった。この冬は足がうずき、いつも私は泣いていました。」
 G. アプスデンは、「私と働くその少年が7歳のとき、私は彼をおぶって、雪の中を行き来したものです。そして、いつも彼は一日16時間働きました。…私は、たびたび、機械の傍で立っている彼に、膝を床につけて、食事を与えました。なぜって、彼がそこを離れることも、機械を止めることもできなかったからです。」
 あるマンチエスター工場の共同経営者 スミスは、「我々は、(この我々なる意味は、自分たちのために働く手をそう云うのであるが) 食事のために休むということもなく、仕事をし続けるので、10時間半の日労働は、午後4時半には終了する。そして、それ以後のすべての時間は超過時間となる。」
 (さて、このスミス氏は、10時間半の間で、彼自身の食事を取らなかったのか) 「我々は、(スミス流の、例による我々のことだが) 夕方6時前に仕事を止めることは稀で、(彼の意味では、"自分達"が前貸しした労働力機械の消費を止めないと云うものだが) その結果、我々は、(またまたクリスピナス・スミスの云うところの我々のことだが 色の部分はラテン語) 実際のところ、年がら年中 全てにおいて超過時間作業を行っている。これらのことは、子供たちも大人も同様である。(152人の子供と少年たち、140人の大人達のことである。) このところの18ヶ月の平均労働は、少なく見ても、週7日と5時間、または週78時間半であった。今年(1862) 5月2日までの6週間の平均はより大きく、週8日または週84時間であった。」⑪その上、くだんのスミス氏は、相変わらず自分のことを我々と王族が自分表現に複数形を用いるように、(ラテン語) 極端に複数形に固執してこれを用いながら、こう、笑って、付け加えた。「機械作業は、大した作業じゃない。」木版印刷の雇用主らは、「手作業は、機械作業よりも健康的なもの。」と云う。概して、工場主は、「少なくとも、食事時間の間は、機械を止めよう。」という提案には、不正に対するかの様な憤激をもって、これに反対を申し立てる。ボローの壁紙工場支配人であるオトレー氏は云う。「法律条項が、朝6時から夜9時までの作業を許可するものならば、それは、我々( ! ) にとてもよく合う。しかし、工場法の朝6時から夕方の6時というのは、合わない。我々の機械は、いつも食事のために止められる。( おお、なんとまあ寛大なこと ! ) 止めたからといって、紙も色インクも、云うに及ぶ無駄はない。だが、」 彼は、同業者らの心情をおもんばかり、「時間のロスが好ましいものではないことは理解しうる。」と付け加える。⑫委員会報告書は、次のように、無邪気に、(英語の古語) 意見を書いている。ある主要な企業の云う時間をロスするという恐怖、すなわち、他人の労働を占有する時間のロスが、そのために利益を失うということが、13歳以下の子供らの、そして18歳以下の少年たちを、日12時間から16時間働かせることを許すに足る理由になるのか。なりはしないだろう。彼等の食事時間を減らす、あるいはそれを与えない理由として成り立ちうるのか。生産過程そのものにおいて、蒸気機関に石炭や水を給するように、羊毛に石鹸水を加えるように、車輪にオイルを注すように、単なる補助材料を労働手段に供するように、彼等の食事も食事時間も与えないのか。そんな理由があるはずもないだろう。と。〉(インターネットから)


●注72

《初版》

 〈(72) これは、われわれの言う剰余労働時間の意味だと解すべきではない。これらの諸氏は、10[1/2]時間労働を標準労働日、つまり、標準的な剰余労働を含む労働日、と見なしている。その後に、若干増し払いされる「規定外時間」が始まる。もっとあとの機会にわかることだが、いわゆる標準日中の労働力の使用は価値よりも低く支払われるので、「規定外時間」は、もっと多〈の「剰余労働」を搾り取るための資本家のたくらみにすぎないが、なお、このことは、「標準日」中に使用される労働力に、ほんとうに価値どおり支払われるばあいでさえ、そのとおりである。〉(江夏訳頁)

《フランス語版》  フランス語版には全集版にはない注38が追加されているので、ここでそれも一緒に紹介しておく。

 〈(38) イギリスの工場主の上品な言葉では、労働者は文字どおりに「手〈hands〉」と呼ばれる。この言葉がイギリスの引用文中に見出されるばあい、われわれはこの言葉をつねに「人手」と翻訳する。
   (39) これは、われわれが剰余労働時間に与えた意味で、理解されてはならない。これらの諸君は10[1/2]時間労働を、漂準労働日--標準の剰余労働をも含む労働日--を構成するものと見なしている。それから、わずかばかり増し払いされるこの「残業時間」が始まる。だが、そのかわり、いわゆる標準労働日中の労働力の使用がその価値以下に支払われることは、われわれが後になって見るとおりであろう。〉(江夏・上杉訳248頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: この超過時間は、我々の云う、剰余労働時間という意味で使われているものではない。これらの紳士諸君は、10時間半労働を通常の労働日と考えており、さらにその上、勿論のこと、通常の剰余労働が含まれていると考えているのである。この超過労働が始まれば、ほんの少しだけ余計に支払われる。でも、よく見れば、いわゆる通常日に支払われるものは、その価値よりも下回っているのが分かる。従って、超過時間は単純に、より多くの剰余労働を強奪するための、資本家のトリックなのである。例え通常日に対して適切に支払われたとしても、そう云うことになるであろう。〉(インターネットから)


●第11パラグラフ


《初版》  第10パラグラフに掲載。

《フランス語版》  第10パラグラフに掲載。

《イギリス語版》 第10パラグラフに掲載。


●第12パラグラフ

《初版》 第10パラグラフに掲載。

《フランス語版》  第10パラグラフに掲載。

《イギリス語版》  第10パラグラフに掲載。


●注73

《初版》

 〈(73) 前掲書〔『児童労働調査委員会。1863年』〕、付録、123、124、125、140ページおよび別付54ページ。〉(江夏訳269頁)

《フランス語版》

 〈(40) 『児童労働調査委員会、1863年』、付録123、124、125、140ページ、および別付54ページ。〉(江夏・上杉訳248頁)

《イギリス語版》 なし。


●第13パラグラフ

《パンの製造》(1862年10月、マルクス、全文)

  〈パンの製造  〔『ディー・プレッセ』1862年10月30日付、第299号〕
  ガリバルディ、アメリカの内戦、ギリシアにおける革命、綿業恐慌、ヴェヤールの破産--これらすべては、現在ロンドンでは--パン問題、それもことばどおりの意味でのパン問題をまえにして、影をうすくしてしまった。イギリス人は、その「鉄と蒸気の環境のなかでの思想」を非常に誇りにしているのであるが、突如として、自分たちが、ノルマン人侵入の時代の太古のフランク族のようなやり方で“staff of life"(「生命のささえ」)を製造していることを発見したのである。唯一の重要な進歩は、近代化学によって不純物の混入が容易になったことにある。イギリスの古い諺(コトワザ)に、人はだれでも、たとえどんなにすぐれた人物でますも、一生のうちに“a speck of dirt"(大枡(マス)いっぱいのこみ) を食べねばならぬ〔英語の言いまわしで「ごみを食べる」とは、「屈辱を忍ぶ」の意。〕、というのがある。しかし、これは精神上の意味でであった。ジョン・ブルは、自分が、最も粗野な生理上の意味で、明けても暮れても、小麦粉、明馨、クモの巣、ゴキブリ〔black beetles〕、それに人間の汗の途方もない混ぜ物〔mixtum compositum〕を食しているのだということに、気がついていない。彼は聖書に詳しいのだから、人はそのひたいに汗してパンを得るということを、とうぜん知っていた。だが、人間の汗がパンのこね粉に香料成分としてはいらなければならないということは、彼にはまったく耳新しいことであった。
  従来、手仕事、手工業、マニュファクチュアが根をおろしていたいろいろな領域を大工業が掌握する順序は、一見したところ気まぐれのようにみえる。たとえば、小麦の生産は農村の生業であり、パン焼きは都市の生業である。工業生産は農村の生業よりも都市の生業をさきに掌握すると想定してはいけないだろうか? ところが、事の経過は逆であった。われわれがどこへ目をむけようと、最も直接的な需要〔をみたす部門〕は、従来多少とも頑固に大工業の影響をまぬかれてきたこと、そして太古から伝えられた、どうしようもないほど面倒な手工業の方法によって充足されることを予期していることを、われわれは見いだすであろう。イギリスではなく、北アメリカがはじめて、--やっと今日になって--この伝統に突破口をつくった。ヤンキーは機械をまず縫製業、製靴業などに使用し、それを工場から個人の家にまでもちこんだ。だがこの現象は簡単に説明される。工業生産は、個人消費のためにではなく取引のために、大量生産、大規模な生産を必要とし、そして事の性質上、原料と半製品とを最初の征服領域とし、直接消費用の完成商品を最後の征服領域とするのである。
  だがいまや、イギリスでパン屋の親方が没落し、パン工場主が台頭するときがやってきたように思われる。資本が、アメリカの恐慌のために、長いあいだそれが独占していた分野から大量に追いはらわれ、新たな移住領域を熱心にさがし求めているという事情がつけくわわらなかったら、「パンの秘密」にかんするトレメンヒア氏の暴露がよびおこした不快と嫌悪だけでは、こうした革命を起こすには十分でなかっただろう。
  ロンドンの製パン所の日雇労働者たちは、彼らの極度に悲惨な状態にかんする陳情書を議会に雨あられと舞いこませた。内務大臣は、こうした陳情にかんする報告者ならびにいわぽ予審判事に、トレメンヒア氏を任命した。暴風雨信号をだしたのは、トレメンヒア氏の報告書である。
  トレメンヒア氏の報告書は、二つの主要部分にわかれている。第一部は製パン所における労働者の困窮を描写し、第二部はパン製造じたいにまつわるいまわしい秘密を暴露している。
  第一部は、製パン所の日雇労働者を「文明の白色奴隷」として描写している。彼らの平日の労働時間は、晩の11時ごろに始まり、午後3時ないし4時までつづく。労働は週末になるとふえる。ロンドンの大部分の製パン所では、木曜の晩の10時から土曜の夜まで、労働は休みなくつづけられる。ここの労働者はほとんど肺病で死んでいるが、その平均年齢は42歳である。
  次にパンの製造じたいについてであるが、それはほとんどが、せまい、地下の、換気が悪いかあるいはまったく換気しないあなぐら部屋でおこなわれている。換気が悪いうえに、水はけのよくない下水溝から悪臭が発散し、「発酵過程にあるパンは、まわりをくまなく取り囲んでいる有毒ガスを吸収する」。クモの巣、ゴキブリ、大鼠、小鼠どもが、「こね粉といっしょにすりつぶされる」。
  トレメンヒア氏は言う。
  「非常に認めたくないことであるが、こね粉はほとんどいつもパンこね工の汗を、そしてしばしばもっと病的な分泌物を吸収しているという結論を、私は出さざるをえなかった。」
  最も優良な製パン所でもこうしたぞっとするような不快な事態をまぬかれてはいないが、それがなんとも言いようのないほどになるのは、貧民にパンを売っている製パン小屋であって、ここでは小麦粉への明馨や燐酸カルシゥムの混入もまったくほしいままにおこなわれている。
  トレメンヒア氏は、パンへの不純物の混入にかんするもっときびしい法律、さらに製パン所を政府監督下におくこと、「若年者」(つまり18歳未満の者)にたいする労働時間の、朝の5時から晩の9時までへの制限などを提案しているが、古い生産様式そのものから生ずる弊害を除去することは、もっともなことながら、議会にたいしてではなく、大工業に期待している。
  じっさい、スティーヴンのパンこね機がすでに2、3のところでは採用されている。これと似た別の機械が一つ、産業博覧会に出されている。両方ともまだパン焼工程のあまりにも大きな部分を手労働にゆだねている。これにくらベると、ドーグリッシュ博士はパン製造の全方式を変革してしまった。これでは、小麦粉が倉を出た瞬間からパン焼き窯でパンができあがるまで、まったく人手をかけずにおこなわれる。ドーグリッシュ博士は完全にパン種をやめて、醗酵過程を炭酸を使ってなしとげる。彼は、パン焼きをふくめて、製パンの全作業を8時間から30分に短縮している。夜間労働は完全になくなる。炭酸ガスの使用は、不純成分の混入をすべてさしとめる。発酵方法が変わったことによって、だがとくに、いままでのように、糠(ヌカ)--フランスの化学者メージュ・ムリエスによれば穀粒の最も栄養のある部分--の3分の3を破壊してしまわないで、穀粒の珪酸質の外皮を除去するアメリカ人の発明を新式機械と結合することによっても、大幅な節約がなしとげられる。ドーグリッシュ博士の計算によれば、彼の処理法で、イギリスにとって年800万ポンド・スターリングの小麦粉が節約されるであろう。さらに、石炭消費も節約される。蒸気機関をも勘定にいれた石炭の費用は、窯あたりで1シリングから3ペンスに減少する。最良の硫酸から製造される炭酸ガスの値段は、〔小麦粉〕1袋あたりおよそ9ペンスであるが、パン種は現在パン屋にとって1シリング以上についている。
  ドーグリッシュ博士のいまや非常に改良された方法をもちいた一製パン所が、すでにすこしまえに、ロンドンのある場所に、波止場ちかくのバーモンジにつくられたが、営業所の場所がよくないために、また廃業してしまった。現在、同じような施設がポーツマス、ダブリン、リーズ、バース、コヴェントリでいとなまれていて、聞くところでは、非常に良い成績をおさめているとのことである。最近イズリングトン(ロンドンの郊外都市)にドーグリッシュ博士がみずから監督して建設したマニュファクチュアは、販売よりも、むしろ労働者の訓練を目的としている。パリの市営製パン所では、機械を採用するための大規模な準備がおこなわれている。
  ドーグリッシュの方法が一般に普及すれば、現在のイギリスの製パン業の親方たちの多数は、少数の大製パン工場主のたんなる代理業者に変わってしまうだろう。彼らは、もはや生産そのものにはたずさわらないで、かろうじて小売にたずさわることになろう。--大多数の親方にとっては、けっしてとくに苦痛な転身ではない。というのは、事実上、彼らはすでに現在大製粉業者の代理業者にすぎなくなっているからである。機械製パンの勝利は、これまでの要害堅固であった中世的手工業の隠れ場を攻略する、大工業の歴史の転換点を示すものとなるであろう。1862年10月末に執筆〉(全集第15巻530-533頁)

《61-63草稿》

 〈〔注解〕……パン職人の労働時間についてマルクスが依拠したのは、おそらく次の資料であろう、--『製パン職人の苦情に関する内相あての報告番。付、証言付録。女王陛下の命により国会の両院に提出』、ロンドン、1862年、および、『製パン職人の苦情に関する内相あての第二次報告書。女王陛下の命により国会の両院に提出』、ロンドン、1863年。〉(草稿集④282頁)
  〈ロンドンの製パン業者のもとでの平均労働は17時間である。17時間は、綿工業の初期にはふつうのことであった。その後まもなく夜間労働が導入された。〉(草稿集④366頁)
  〈ここでは、実際は、ただ二つの場合を研究するだけでよい。(1)剰余労働時間が、労賃の引上げなしに、つまり、労働者がこの超過時間の一部分すらも自分のものにすることなしに、延長される〔場合〕。工場制度が工場自身と他の(工場外の)諸領域とに超過時間を際限なくおしひろげていった全期間をつうじて、大部分の場合がこの種の延長であった。(ロンドンの製パン労働の例。)〉(草稿集⑨321頁)

《初版》

 〈イギリスにおけるどの産業部門も--(近ごろやっと始まったばかりの機械製のパンは別として)--、製パン業ほど、古風な、さよう、ローマ帝政時代の詩人たちから判断できるごとき先キリスト教的な生産様式を、今日まで保持しているものは、一つもない。ところが、先述したように、資本はさしあたり、自分が占領している労働過程の技術的性格には無関心である。資本はさしあたり、労働過程をそのあるがままの姿で取り入れる。〉(江夏訳270頁)

《フランス語版》

 〈ごく最近の、機械による製パン業は別として、イギリスのどの産業も、ローマ帝国の詩人のかずかずの章句が証明するように、製パン業ほど時代遅れの生産様式を保存してきたものはない。ところが、すでに述べたことだが、資本は、自己が征服する労働種類の技術的性格には、ほんのわずかしか気をかけない。資本は初めのうちは、この労働種類を見出すままに取り入れる。〉(江夏・上杉訳248頁)

《イギリス語版》

  〈(12) (最近導入された機械による製パン方式は別であるが、)英国の製パン業ほど、古風な生産方法を保持している業界は他にはない。まるでローマ帝国の詩文からそのまま出てきたような、キリスト教以前のような製法である。前にも述べたが、資本は、労働過程の技術的な性格など最初はどうでもいいのである。それを見つけた時そのままを取り入れて、その過程を始める。〉(インターネットから)


  (付属資料№3に続く)

 

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