『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第9回「『資本論』を読む会」の報告

2009-01-06 17:41:50 | マルクス

◎師走の学習会

 第9回の「『資本論』を読む会」は、28日の暮れも押し詰まってからの慌ただしい開催となった。しかし議論は内容の充実したものになり、会場を借りている午後5時近くまで行なったのであった。というわけで、今回はさっそく、議論の紹介に移ることにしよう。

◎各パラグラフの位置づけ

 今回は「第二節 商品に表される労働の二重性」の第6パラグラフから「使用価値と有用労働」を取り上げている最後の第8パラグラフまで学習したが、最初に問題になったのは、第6パラグラフと第5パラグラフとの関係であった。この二つのパラグラフはほぼ同じような内容を述べているように思えるのだが、それぞれどういう役割を持っているのかが問題になったのである。そしてそれに関連して、この第二節の前半部分(「使用価値と有用労働」が対象になっている)の各パラグラフのそれぞれの位置づけが問題になった。

 まず第6パラグラフの冒頭が《したがって、われわれは次のことを見てきた。--》という言葉から始まっているところを見ると、この第6パラグラフはそれまで述べてきたことを振り返って、全体の総括を行なっているところと見ることができる。
 ではそれはどこからどこまでを振り返っているのかというと、第二節の第1パラグラフと第2パラグラフは第二節全体の導入部分と考えることができるから(第1パラグラフは第一節を振り返り、それを踏まえて、第二節で取り上げる「労働の二重性」の重要性を確認している。第2パラグラフは第二節全体で取り上げる二商品〔上着とリンネル〕の具体例の説明)、第6パラグラフで総括しているのは、第3~5パラグラフまでで述べてきたことと考えられる。

 まず第6パラグラフの最初の二つの分節は、それぞれ第3パラグラフと第4パラグラフの内容を確認している。そして最後の分節は、第5パラグラフで確認した内容を違った観点からみていることが分かる。

 第3パラグラフは使用価値の分析から入っている。これは第二節の表題が「商品に表される労働の二重性」とあるように、「商品に表される労働」が問題だからである。第1パラグラフでは、第一節で見たように、商品は《使用価値および交換価値として、われわれの前に現われた》ことが確認され、第2パラグラフでは、リンネルと上着が例しとて上げられる。だから第3パラグラフでは使用価値としての上着の考察から入っているわけである。そしてその有用性が使用価値として表されている労働を考察し、それを有用労働と規定する。この観点のもとでは労働は常にその有用効果との関連から考察される。第4パラグラフでは、使用価値が異なれば、労働も異なることが指摘される。質的に異なる使用価値は商品の前提であること。第5パラグラフでは、さまざまな種類の使用価値は、多様な有用的労働の総体--社会的分業--を示すことが指摘され、同時に社会的分業は商品の前提だが、その逆は成り立たないこと、商品を生産する分業は「自立的な、互いに独立の、私的労働」にもとづくものであることが明らかにされている。

 そして第6パラグラフでは、それらをもう一度確認しているのである。特に《生産物が一般的に商品という形態をとっている社会》とは「資本主義社会」のことであるから、資本主義社会では、社会的分業は「一つの多岐的な体制」に発展していることが確認されている。

◎「商品生産者の社会」と「商品生産社会」

 またこれと関連して、マルクスは《生産物が一般的に商品という形態をとっている社会》を言い換えて、《すなわち商品生産者の社会》と述べているが、これは「商品生産社会」と同じと考えるべきかどうかが議論になった。

 まずここで《商品生産者》というのは、資本家のことだろう。ただ第1章では資本関係は捨象されているから、単に「商品生産者」となっているだけである、との指摘があった。

 ピースさんは「商品生産社会」「資本主義社会」と対比させ、それは資本主義以前の商品を生産する社会と理解していたと述べたが、亀仙人は、そもそもマルクス自身は、「商品生産社会」という用語自体を使っていないのではないかと指摘した(そして実際、後に『資本論』のテキスト版全体を検索してみたが1~3巻からは「商品生産社会」という用語は一件も検索に引っ掛からなかった。またマル・エン全集の事項索引にもない)。もし「商品生産社会」をマルクスがいうように、《生産物が一般的に商品という形態をとっている社会》という意味で使うなら、それは資本主義社会と同義であるし、その場合は、それを資本主義社会と対比させて、それ以前の商品を生産する社会と理解するなら間違いであろうとも指摘された。

◎「一定の合目的的な生産活動」

 このパラグラフでは、どの使用価値にも合目的的な労働が含まれている、しかもそれらが商品として相対するためには、諸使用価値は質的に違った有用労働の生産物でなければならない、ということが言われ、資本主義社会では、それらの質的に違った有用労働が、一つの社会的分業に発展すると言われている。
 つまり商品に対象化されている労働は、一定の合目的的な活動であるが、しかしそれは私事であり、その限りで限界のある合目的性であることが分かる。社会主義社会でも、その労働は合目的的であるが、しかしそれはその労働が直接社会的であるが故の合目的性でもあり、その意味では資本主義社会のそれとは異なる側面を持っている。マルクスは『土地の国有化について』という小論のなかで、将来の社会では《生産手段の国民的集中は、合理的な共同計画に従って意識的に行動する、自由で平等な生産者たちの諸協同組合(諸アソシエーション--引用者)からなる一社会の自然的基礎となるであろう》(全集18巻55頁)と述べているが、将来の社会主義社会を形成する自由な生産者たちのさまざまなアソシエーションは、生産諸手段相互の物的・技術的関連という「自然的土台」に直接規定されて存在するものなのである。だから資本主義社会における労働の「合目的性」はその限りでは「一定」の限界のあるものである。つまりそれは特定の使用価値を生産するという合目的性であるが、しかしそれらの社会的な関連を直接に持っているわけではない、あるいは意識していない合目的性なのである。しかし社会主義社会では、生産諸手段の諸使用価値が示す自然的基礎にもとづいて、諸労働は意識的に社会的に関係づけられている。社会主義社会では、どういう使用価値をどれだけ生産するかは、使用価値そのものが示す一定の物質的・技術的関連によって規定され、また最終的な使用価値の実現においてもそれを欲求する人々の合目的な意識性が想定されている。
 つまりこのパラグラフは、最初の「一定の合目的的な生産的労働」が、さまざまな有用労働の質的区別をなしているが、しかしそれらは「自立した生産者達の私事として互いに独立に営まれる有用労働」としての、「一定の」制限ある「合目的性」である、というふうに展開されているわけである。

◎第7・8パラグラフの位置づけとその内容

 次に第7・8パラグラフに入ったが、ここから若干、内容が変わっていることが確認されたが、やはりこの二つのパラグラフの全体のなかでの位置づけが問題になった。
 この二つのパラグラフは、いわば第二節の前半で問題になっている「使用価値と有用労働」歴史的な位置づけを論じている部分と考えることができる。
 『資本論』の各部・篇・章・節等々の敍述の特徴として、最初は直接的な表象に現われる現象の分析から入り、その背後にある本質を探り出し、それらの内的関連を明らかにして、最初の諸現象をその本質から展開して説明する(概念を明らかにする)、そして最後に対象となっているカテゴリーの歴史性を示す、という展開が指摘できるが、この第7・8パラグラフは、そうした最後の歴史性を明らかにする部分と考えることができる。
 これは例えば「第一章 商品」「第4節 商品の呪物的性格とその秘密」、あるいは「第一部 資本の生産過程」「第8篇 本源的蓄積」(ただしフランス語版)と同じような位置づけをもっていると考えることができる、との指摘があった。

 第7パラグラフでは、特に第6パラグラフまでで論じられている問題と関連させて、使用価値と有用労働の歴史的な性格を論じていると考えることができる。
 最初の《上着にとっては、それが裁縫師自身によって着られるか、それとも裁縫師の顧客によって着られるかは、どうでもよいことである。どちらの場合でも、上着は使用価値として作用する》というのは、使用価値のどういう特性をいわんとしているのかが問題になった。上着にとって、それを誰が着るかはどうでもよい、つまり使用価値として作用する場合の、対象はどういう社会的関係にある存在かは問わない。上着とそれを使用する人との関係は直接的であって、媒介するものは何もない、ということであろうか。確かにパンを食べる人は、誰であろうが、その行為そのものは生物的な自然的な行為でもあるということであろう。ただ使用価値によっては、一定の社会的関係を前提する場合もある。例えば奢侈品は資本家を想定し、労働者の消費は、必要生活手段に限定されている、等々。しかしそれは諸使用価値の特性からというより、それを実際に消費する人間の社会的関係に規定されたものといえるだろう。使用価値そのものは、その有用効果を実現する人間とは直接的な関係をもっており、それは物質代謝そのものであり、その限りでは自然的であるといえる。
 次に「同じように」やはり上着という特定の使用価値という立場から問題を見て、今度は《上着とそれを生産する労働との関係》を見ている。つまりその労働がどういう社会的関係の下に支出されるかは、やはり上着そのものにとってはどうでもよいことだというのである。ここで《社会的分業の自立した一分岐となる》というのは、商品を生産する労働ということであろう。裁縫労働は、商品生産以前からあったということである。
 しかし諸使用価値の定在は、自然素材を特殊な欲求に適合させるある一つの特有な目的にそった生産活動が必要であった。ここで《特殊な自然素材を人間の特殊な欲求に適合させるある一つの特有な目的にそった生産活動》というのは、やはり第6パラグラフで出てきた《一定の合目的的な生産的活動》と同義であろう。
 こうした考察を前提に、《だから、労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、あらゆる社会形態から独立した、人間の一存立条件であり、人間と自然との物質代謝を、したがって人間の生活を、媒介する永遠の自然必然性である》ということが結論的に言われている。

 つまり最初の使用価値そのものはそれを使う人やそれをつくる人が誰であるか、どういう社会的関係にある人であるかは問わないが、しかし一定の合目的的な労働が含まれていることだけは示している。だから使用価値を形成する労働は社会的関係を問わないのであり、それは一つの自然必然性なのだ、というのがここでの結論である。

 これは使用価値の生産とその消費というのは、その限りでは人間が他の動物と共有する自然的な物質代謝活動そのものであって、それは社会関係如何を問わないということである。もっとも「生産」というのは人間に固有のものであるが、人間は社会的である前にすでに生産していたといえるのかも知れない。いずれにしても、人間が進化の過程で猿から人間になるにしても、そのあいだもやはり生きていなければならず、そのためには特定の自然素材を自身の欲求に合うように摂取していたことはだけは確かであろう。

 第8パラグラフでは、使用価値は二つの要素(自然素材と労働)の結合であること、しかしこの二つの要素のうち、自然こそが基底であることが指摘されている。《人間は、彼の生産において、自然そのものがやる通りにふるまうことができるだけである。すなわち、素材の形態を変えることができるだけである。それだけではない。形態を変えるこの労働そのものにおいても、人間はたえず自然力に支えられている》
 つまり第8パラグラフでは、さらに「使用価値や有用労働」のその基底にあるもの(自然)を指摘し、そういう意味でそれらが限界づけられていることを明らかにする役割を持っているといえる。またそういう意味で、それらの歴史的性格が示されているとも考えることができる。

◎還元主義?

 マルクスは注13で、ピエートロ・ヴェッリ『経済学に関する諸考察』からの引用を行なっているが、そこでは「宇宙のすべての現象は、人間の手によって生み出されようと物理学の一般的諸法則によって生み出されようと、事実上の創造ではなく、単に素材の変形であるにすぎない」と述べている。マルクスはヴェッリが「使用価値」について述べていることを自覚していなかったが、しかしそれは使用価値について本質的なことを述べていると考えて、引用していると考えることができる。しかしこの引用文では、いささか自然還元主義的な内容があるのではないか、という疑問が出された。

 確かに使用価値に表される労働は、ただ自然がやるとおりにふるまうだけであり、ただ「素材の変形」をするだけともいえるが、しかしそれらが「事実上の創造では」ないというのは言い過ぎではないだろうか、という疑問である。というのは、自然にある素材を変形するだけとはいえ、そこには必ず新たな「質」を生み出すという契機が存在しており、ある場合には自然界にも存在しない、「新しい質」を生み出しているといえるのであり、その限りではそれは「創造」以外の何ものでもないからである。
 例えば、パソコンはそれを構成する諸部分に分解して、それぞれの素材を辿れば、さまざまな物的素材をただ変形させただけともいえるが、しかしそうした変形によって明らかに「新しい質」を生み出しており、そうした「新しい質」「新しい使用価値」として、「創造」されたということを確認することも重要ではないか、それをただすべて素材に、あるいは自然に分解・還元してしまうなら、それはある種の還元主義ではないか、というのである。

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