『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第6回「『資本論』を読む会」の報告

2008-09-30 13:51:50 | マルクス

◎すでに冬近し?

 急に冷え込んできました。今回、報告を行う第6回「『資本論』を読む会」が開催された9月21日はまだ気温も高く、午前中はよい天気でした。天気予報は「雨」とありましたが、こんなよい天気だから予報は外れだな、と思いながら、傘も持たずに図書館に行ったのでした。ところが学習会が終わりに近づくと天気は一転し、土砂降りの雨になりました。私たちは、帰ろうにも帰ることができず、しばらく図書館で雨宿りをしていましたが、少し小降りになったところで、私はショルダーバッグを頭に乗せて、ピースさんやクミさんなどは持っていた汗ふきタオルを頭に乗せて、一散に駅まで走りました。さすがピースさんはフルマラソンをやっているだけあって、軽快でしたが、太っている私などは走っているつもりでも、現実には早足で歩いている程度で惨めなものでした。しかしそれでもなんとか駅にたどり着き、私などはかなり雨に濡れましたが、しかしまだ気温は温かかったので気にならなかったのです。何しろピースさんやクミさんはまだ汗ふきタオルを持っていたぐらいなのですから。
 ところがその日から一週間余りたっただけなのに、この寒さはどういうことでしょう。歳をとると時の経つのは早く感じるものですが、これはどう考えても早すぎます。これもやはり異常気象の一つなのでしょうか。この急激な気温の変化で体調を崩し、この報告もやや遅れることになりました。都合のよい言い訳ですが、ご容赦、ご容赦。

◎「抽象的人間労働」の議論を継続

 学習会はテキストのパラグラフとしてはまったく進まず、前回議論になった問題をもう一度議論することになりました。
 というのは、前回の議論に関連して、亀仙人から資料が配布され、その資料をもとにもう一度議論が再燃したからです。
 その資料というのは、埼玉の「『資本論』を読む会」の第110回の報告(http://shihonron.exblog.jp/9470612/)の中に、久留間鮫造氏や宇野弘蔵氏などが参加した研究会の記録をまとめた『資本論研究--商品および交換過程』(河出書房1948年)の中から引用されているものです。まずその議論になった引用文を紹介しておきましょう。

 〈相原 一寸、その前に、生産力と必要労働時間との関係を分かり易く教えていただきたいのです。
 労働生産力が大であればある程、或る品物の産出に必要とされる労働時間は小となり、価値も従って小となる。逆の場合は逆になるといって、必要労働時間は直接労働生産力の凡ゆる変化につれて変化する、ということが書いてある。ところが少し先には、労働の生産力は、労働の具体的な有用的な形態に属しているから、それは、労働の具体的な有用的な形態が抽象されるや否やもう労働には関係しない、云々、と述べられている。
 その間のつながりというのはどういうことになるのか。価値の大きさを定める社会的必要労働時間は直接に生産力の変化に逆比例して変化するようにも云われ、次にこの生産力の変化がそういった価値を作る抽象的な労働とは直接関係がない様にも云われていること、この点は生産力の増減が使用価値の増減であって、それを媒介としてつまり商品の単位当たりにすればそこに含まれている労働が増えたり減ったりするものだと理解していいのか、何かそこに品質と分量とのむずかしい関係がある様でもあり櫛田さんのものも読んだが、よく読まないせいか未だ安心ができない節があります。

 久留間 その疑問は価値の大いさに関する二つの異なった問題をはっきりと区別しないことから来るのではないでしょうか。いま引き合いにだされたマルクスの二つの命題はいずれも価値の大いさに関するものではあるがそれを問題にする視角が全然異なっていると思う。すなわち、生産力と無関係だといっている場合には、価値の大いさは本質的にはなんの大いさによってきめられるかを問題にしているのであって、それに対してマルクスは、専ら価値を形成する実体の大いさによって、即ち支出の態様の如何を問わない単なる人間労働力の支出としての労働の分量、即ち抽象的人間的労働の分量によってきまるのだと云っているのです。即ちこの観点からすれば、等しい人間労働力の支出は、それがどのような種類の使用価値のどれだけの分量に結果しようが、常に一定の価値を造り出すということになる。即ち労働の生産力には無関係だということになる。これはもともと、価値の大いさの問題とは云っても、価値の大いさをその実体の大いさに還元する問題に外ならないのであるから、本質的には価値そのものの問題、云わば価値の品質の問題と見ることができる。これに反して今ひとつの問題は、価値の大いさをその実体である労働分量に還元した後に生じる、云わば固有の意味においての価値の大いさの問題に関するのであって、ある特定の使用価値を生産するために社会的に必要な労働時間そのものが何によってきめられるかを問題にしているのである。だからそれは生産力に逆比例してきまると云って答えられるのが当然である。なぜかと云うに、この場合にはある特定の使用価値の生産に必要な労働時間が問題とされているのであり、人間の労働力のある特定の態様における支出が問題にされているからです。

 相原 必要労働時間の労働と、品質の方の時にいっている労働とは違いますか。

 久留間 必要労働時間というのは。いうまでもなく。一定の使用価値を作るのに必要な労働時間例えば米一升を作るのに必要な労働時間、糸一斤を作るのに必要な労働時間、等々であって、従ってそれは、一定の使用価値との関連なしには、従ってまた労働の有用的具体的な性質に即することなしには考えられない。だからこそ、それは労働の生産力に逆比例することにもなるのである。ところで単にこの面のみから見るならば、必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎないのであるが、商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。だから必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない。それは有用的・具体的性質においては一定時間内に一定の使用価値を作り、抽象的性質においては一定時間内に一定の価値を作る。だから一定時間内に作られた一定の使用価値が一定の価値をもつと云うことになる。〉(110-111頁)

 ここで久留間氏が説明していること、すなわち〈価値の大いさに関する二つの異なった問題〉が〈区別〉して論じられているのが、すなわち14パラグラフと15パラグラフの違いであり、また両者の関連でもあるのではないか、というのが亀仙人の問題提起でした。
 つまり第14パラグラフ--

 《(14)したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。》

 で述べていることは、久留間氏が次のように説明していることを含意しているのではないか、

 〈価値の大いさは本質的にはなんの大いさによってきめられるかを問題にしているのであって、それに対してマルクスは、専ら価値を形成する実体の大いさによって、即ち支出の態様の如何を問わない単なる人間労働力の支出としての労働の分量、即ち抽象的人間的労働の分量によってきまるのだと云っているのです。……これはもともと、価値の大いさの問題とは云っても、価値の大いさをその実体の大いさに還元する問題に外ならないのであるから、本質的には価値そのものの問題、云わば価値の品質の問題と見ることができる。〉

 また次の15パラグラフ--

 《 (15)一商品の価値がその生産のあいだに支出された労働の量によって規定されるならば、ある人が怠惰または非熟練であればあるほど、彼はその商品の完成にそれだけ多くの時間を必要とするのだから、彼の商品はそれだけ価値が大きいと思われるかもしれない。しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気織機が導入されてからは、一定の量の糸を織物に転化するためには、おそらく以前の半分の労働でたりたであろう。イギリスの手織り工はこの転化のために実際には以前と同じ労働時間を必要としたが、彼の個人的労働時間の生産物は、今ではもう半分の社会的労働時間を表すにすぎず、したがって、以前の価値の半分に低下したのである。》

 は、やはり久留間氏がもう一つの価値の大きさの問題として述べている説明--

 〈これに反して今ひとつの問題は、価値の大いさをその実体である労働分量に還元した後に生じる、云わば固有の意味においての価値の大いさの問題に関するのであって、ある特定の使用価値を生産するために社会的に必要な労働時間そのものが何によってきめられるかを問題にしているのである。だからそれは生産力に逆比例してきまると云って答えられるのが当然である。なぜかと云うに、この場合にはある特定の使用価値の生産に必要な労働時間が問題とされているのであり、人間の労働力のある特定の態様における支出が問題にされているからです。〉

 に該当するというわけです。

 つまりこの二つのパラグラフ(14と15)の関連は、14パラグラフではそもそも価値の大きさは何よって決められるかを問題にし、15パラグラフはある特定の商品の価値の大きさは何によって決められるかを問題にしているということができます。

 特定の商品の価値の大きさというのは、当然、その商品が何であるかということを不問にしては論じることはできません。つまりその商品の使用価値を無視しては論じられないのです。価値の大きさは対象化されている抽象的人間労働の量によって決まるが、しかしそれがどれだけの大きさであるか、つまりその限度は、結局、使用価値によって決まってくるわけです。もともと抽象的人間労働は現実の労働の一つの側面にすぎません。現実の労働は具体的有用労働と抽象的人間労働という二つの契機を持っており、両者を切り離すことはできません。抽象的人間労働の量の限度は、まさにそれが統一している他のもう一つの契機である具体的有用労働によって決まってくるのです。だからその量の限度は、具体的有用労働に関連する生産力によって規定されることになるのだと思います。
 他方、この具体的有用労働というのは、個人的にはまちまちです。特定の使用価値を生産するために支出される具体的有用労働は、その限りではその具体性も有用性も同じ質を持ちながら、やはり個別にはまちまちでしかありません。だから一律同一である抽象的人間労働の量的限度もやはり個別的にはまちまちなわけです。だから15パラグラフでは「個人的労働力」と「社会の総労働力」や「社会的平均労働力」との関連を説明しているのだと思います。

◎「必要労働時間という場合は、労働は同時に二重の性質において現われる」

 次に議論になったのは、もう一つは久留間氏の説明に関連してでした。
 久留間氏は「必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎない」とか「必要労働時間という場合は、労働は同時に二重の性質によって現われる」と述べ、必要労働時間を歴史貫通的なものとして捉えています。果たしてこれは正しいのかどうかが議論になりました。

 これを検討するために、前回の15パラグラフにおけるマルクスの考察をもう一度、再現してみましょう。そこでは次のような命題が展開されていました。今それぞれの命題に便宜的に番号を打ってみます。

(1)《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である》

(2)《商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する》

(3)《これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》 

(4)《社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である》

 このようなマルクスの展開と、久留間氏の次のような説明とを比較検討してみましょう。

 〈必要労働時間というのは。いうまでもなく。一定の使用価値を作るのに必要な労働時間例えば米一升を作るのに必要な労働時間、糸一斤を作るのに必要な労働時間、等々であって、従ってそれは、一定の使用価値との関連なしには、従ってまた労働の有用的具体的な性質に即することなしには考えられない。だからこそ、それは労働の生産力に逆比例することにもなるのである。ところで単にこの面のみから見るならば、必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎないのであるが、商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。だから必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない。それは有用的・具体的性質においては一定時間内に一定の使用価値を作り、抽象的性質においては一定時間内に一定の価値を作る。だから一定時間内に作られた一定の使用価値が一定の価値をもつと云うことになる。〉

 久留間氏の説明をマルクスの展開と同様に、命題化して、番号をつけてその展開を見てみると次のようになります。

[1]〈必要労働時間というのは。……一定の使用価値を作るのに必要な労働時間……であ〉る。


[2]〈この面のみから見るならば、必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎない〉

[3]〈商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。〉

[4]〈だから必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない。それは有用的・具体的性質においては一定時間内に一定の使用価値を作り、抽象的性質においては一定時間内に一定の価値を作る。だから一定時間内に作られた一定の使用価値が一定の価値をもつと云うことになる。〉

 この久留間氏の説明の展開は、[1]、[2]は必要労働時間が歴史貫通的なものであることの説明であり、[3]はそれが商品生産社会では価値の大いさを規定するものとして現れることを指摘し、[4]では、この両者を統一した説明になっています。

 これをマルクスの展開と比較すると、マルクスの(4)は久留間氏の[1]に該当します。またマルクスの(1)は久留間氏の[3]に該当すると思われます。ただマルクスの展開の場合は、あくまでも価値の大きさの説明として一貫しているように思え、(4)の説明からはそれが直ちに歴史貫通的なものとして理解することできないように思えます。

 マルクスの説明は、《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である》から始まり、その「同等な人間労働」「同じ人間労働力の支出」とはそそもなにかを個別労働との関連から説明するものになっています。すなわち《これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》と。すでにここでは「社会的に必要な労働時間」が説明されており、(4)はそれをさらに厳密に言い換えたに過ぎないと言えます。
 マルクスの説明は、価値を形成する労働は同一の人間労働であり、それは個別の労働とは異なる。だから価値を形成する労働としては個別の人間労働は、他の労働と同一の人間労働力として通用しなければならない。それは一つの社会的平均的な労働力という性格をもち、そのようなものとして作用し、一つの商品の生産に社会的に、平均的に必要な、労働時間のみを用いる限りにおいて、そうしたものとして認められる、というものです。
 このようにマルクスの説明はあくまでも一商品の価値の大きさを説明するものとして終始しているように思われます。

 もしマルクスの命題の(4)が歴史貫通的なものであるという久留間氏の説明が正しいのであれば、このマルクスの展開にそって遡及すると、マルクスが「諸価値の実体をなす労働」として説明している「同等な人間労働」「同じ人間労働力の支出」もやはり歴史貫通的なものとして理解すべきではないでしょうか。なぜなら、マルクスの(3)の命題から考えるなら、ここで「同じ人間労働力」というのは、「一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて」とらえられた労働であり、だからそれは抽象的人間労働の契機だけではなく、具体的有用労働の契機からも捉えられており、久留間氏によれば〈生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎない〉と言えるように思えるからです。ところが久留間氏は[3]では次のように述べています。

 〈商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。〉。

 つまりこの久留間氏の説明だと「単なる人間労働力の支出」、つまりマルクスのいう「同一の人間労働」「同じ人間労働力の支出」というのは、有用的・具体的な性質を捨象されたものだというのです。しかしマルクスによれば、個別労働が「同じ人間労働力」として認められるのは、それが社会的平均労働力という性格を持つからであり、《一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる》から、つまり「社会的必要労働時間」である限りにおいてなのです。ところが久留間氏によると〈必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない〉というのです。つまり具体的・有用的な性質も含んだものだというのです。これでは一体どう理解したらよいのでしょうか?

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