『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.13(通算第63回) 上

2019-05-25 18:04:11 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.13(通算第63回)上

 

◎大谷禎之介氏亡くなる!(大谷新著の紹介の続き)

 

 去る4月29日に大谷禎之介氏が今朝亡くなったという連絡が友人からありました。  ある程度は覚悟はしていましたが、しかし突然の訃報にはやはり衝撃を受けました。
 本人も覚悟はしていたようで、昨年末の友人一同へのメールでは、自分自身がやっておけたらいいな、とおもっていたほとんどのことを、ほぼやり終えた、と感じているので、いつでも土に帰ってもいいという心境だ、と述べていたようです。
 今回は、大谷氏の生前最後の著書となった『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』の「あとがき」の最初の部分をそのまま紹介し、奥付にある著者紹介を転載しておきます。 

 〈わが師・久留間鮫造は,いまの筆者とほぼ同じ齢(ヨワイ)(*)で最後の論稿「恐慌論体系の展開方法について」(1)・(2)を書き上げ,そのあとほぼ5年にわたって『マルクス経済学レキシコン』の編集を続けて,最後の「貨幣」篇の原稿をほぼ仕上げたのち,89歳の生涯を閉じた。直接の死因は1年ほど前に発症した肺癌だった。  同じ病魔が,わが師の場合よりも8年ほど早く門口に立った。2015年夏に,左肺上葉を切除する手術を受けたのち,しばらく小康状態を保っていたが,2017年の初頭,呼吸器の3箇所に転移癌が見つかった。放射線照射を受けて,いったん病巣が消えたものの,ほぼ1年後に,今度は左肺だけでなく右肺にも新たな転移癌が広がりつつあることが分かり,いまは最新の分子標的薬「イレッサ」の服用によってさらなる転移への対抗を試みている。残された年月はもうわずかである。
 加えて,脳の老化が年(トシ)相応以上にしっかりと進んでいる。学問的に,だからまた実践的に意味のある論稿を書くことがいよいよ難しくなりつつある。〈仕事の質の低下を自覚できなくなったのちにも--いな,そうなったがゆえに--、無害かもしれないが「一利なし」の書き物を延々と活字にして垂れ流すのは,まわりの人びとにとっては迷惑以外のなにものでもない。醜態をさらしながら若い友人たちを困惑させるようになるまえにいさぎよく筆を折ろう。〉
 --かねてからこう思ってきた。そしていま,いよいよその秋がきたようである。  そういうわけで,本書は筆者の最後(サイゴ)っ屁(ペ)である。「まりも美しと嘆(ナゲ)く男」が見て嗅(カ)いで味わってみたものの例もあるから,屁(ヘ)だから臭(クサ)いとはかぎらないかもしれない。そこで本書にも,香(コウ)を聞くようにそっと優しく接してくださるなら,ひょっとして,ここに薫(タ)き籠(コ)めたつもりの,香木(マルクス)が醸(カモ)す香気(コウキ)を感じていただけるかも,という秘(ヒソ)やかな願いを筆者は捨てられずにいるのである。〉
(577頁)  〔(*)この「あとがき」が記されたのは「2018年晩秋」とある。〕

 

 大谷禎之介(おおたにていのすけ) 

1934年,東京都に生まれる。
1957年,立教大学経済学部卒業,同大学院経済学研究科に進む。
1962年,東洋大学経済学部助手。同専任講師,助教授を経て,
1974年,法政大学経済学部教授。経済学博士(立教大学)。
1992年から,国際マルクス=エンゲルス財団編集委員。
2005年から,法政大学名誉教授。 

著書・編書 

『ソ連の「社会主義」とは何だったのか』大月書店(共編著),1996年
『図解社会経済学』桜井書店,2001年
『マルクスに拠ってマルクスを編む』大月書店,2003年
『21世紀とマルクス』桜井書店(編著) ,2007年
MEGA②II/11:Manuskripte zum zweiten Buch des.“Kapitals"1868 bis 1881.Akademie・Verlag(共編),2008年
『マルクスのアソシエーション論』桜井書店,2011年
『マルクス抜粋ノートからマルクスを読む』桜井書店(共編著),2013年
『マルクスの利子生み資本論』全4巻,桜井書店,2016年
A Guide to Marxian Political Economy;What Kind of a Social System Is Capitalism? Springer International Publishing AG,2018〉

 

 私は大谷氏の『資本論』草稿の翻訳から数多くの恩恵を授かり、その諸研究から様々なことを学ばせていただきました。心から感謝したいと思います。 

 大谷氏の訃報に接した悲しみは深いものがありますが、しかし『資本論』のテキストの解読の続きをやることにしましょう。今回は第20パラグラフから「a 商品の変態」の終わりまでです。
 

◎第20パラグラフ(商品流通は、ただ形態的にだけではなく、実質的に直接的生産物交換とは違っている)

 

【20】〈(イ)商品流通は、ただ形態的にだけではなく、実質的に直接的生産物交換とは違っている。(ロ)事態の経過をほんのちょっと振り返ってみよう。(ハ)リンネル織職は無条件にリンネルを聖書と、自分の商品を他人の商品と、取り替えた。(ニ)しかし、この現象はただ彼にとって真実であるだけである。(ホ)冷たいものよりも熱いものを好む聖書の売り手は、聖書とひきかえにリンネルを手に入れようとは考えもしなかったし、リンネル織職も小麦が自分のリンネルと交換されたことなどは知らないのである。(ヘ)Bの商品がAの商品に替わるのであるが、しかしAとBとが互いに彼らの商品を交換するのではない。(ト)実際には、AとBとが彼らどうしのあいだで互いに買い合うということも起こりうるが、しかし、このような特殊な関係はけっして商品流通の一般的な諸関係によって制約されているのではない。(チ)商品流通では、一方では商品交換が直接的生産物交換の個人的および局地的制限を破って人間労働の物質代謝を発展させるのが見られる。(リ)他方では、当事者たちによっては制御されえない社会的な自然関連の一つの全体圏が発展してくる。(ヌ)織職がリンネルを売ることができるのは、農民が小麦をすでに売っているからこそであり、酒好きが聖書を売ることができるのは、織職がリンネルをすでに売っているからこそであり、ウィスキー屋が蒸溜酒を売ることができるのは、別の人が永遠の命の水をすでに売っているからこそである、等々。〉

 

  (イ)  商品流通は、ただ形態的にだけではなく、実質的に直接的生産物交換とは違っています。 

 生産物を互いに直接交換するのと、それを商品として貨幣を媒介して、売ったり買ったりするのとでは、見た目たけではなく、内容的にもまったく違ったものになっています。 

 (ロ)(ハ)(ニ)(ホ)  事態の経過をほんのちょっと振り返ってみましょう。リンネル織職は無条件にリンネルを聖書と、自分の商品を他人の商品と、取り替えました。しかし、このことはただ彼にとって真実であるだけなのです。というのは冷たいものよりも熱いものを好む聖書の売り手からみると、彼は聖書とひきかえにリンネルを手に入れようとは考えもしなかったし、事実、そうしなかったからです。またリンネル織職もリンネルを販売して入手した貨幣が小麦の転化したものだった、ということもまったく知らないのです。 

 物々交換と商品流通がまったく異なるものであることは、次のことを考えれば分かります。物々交換の場合は、時と場所を決めて、交換者は互いにそれぞれの商品の所持者として相対して、互いにそれぞれの商品を相手に手渡す代わりに相手の商品の譲渡を受けるのですが、商品流通の場合は、まったく違っています。  例えばリンネル織職はリンネルを売って聖書を買ったのですから、自分のリンネルと聖書を交換したと考えるかもしれませんが、しかしそれは彼にとって真実であるだけで、実際はまったく違います。というのは聖書を売った人にとっては、彼は聖書とリンネルを交換する気などまったくないことは明らかだからです。彼は聖書を売って、ウィスキーを入手しようとしているわけですから。同じように、リンネルを買ったのは、小麦を生産した農民ですが、リンネル織職にとっては彼が入手した貨幣が小麦の転化したものだった(だから農民は彼の小麦とリンネルとを交換したと考えている)ということもまったくあずかり知らないことなのです。 

  (ヘ)(ト) Bの商品がAの商品に替わるのですが、しかしAとBとが互いに彼らの商品を交換するのではありません。もちろん、実際には、AとBとが彼らどうしのあいだで互いに買い合うということも起こりえますが、しかし、こうした特殊な関係はけっして商品流通の一般的な諸関係が前提するものではありません。 

 たがら商品流通の場合は、Bの商品がAの商品にとって替わっていますが、しかしAとBとが互いに彼らの商品を交換するのではないことは明らかです。もちろん、実際には、あるときはAとBとが互いに商品を買い合うということも起こり得ますが、しかし商品流通というのは、そうしたことを前提するものではないし、一般的にAとBが互いに買い合うというような条件に制約されているわけではありません。 

  (チ)(リ) 商品流通では、一方では商品交換が直接的生産物交換の個人的および局地的制限を打ち破って人間労働の物質代謝を発展させていることが分かります。しかし他方では、当事者たちにとっては制御されえない社会的な自然関連の一つの全体圏がそのなかで発展してくるのです。 

 このように商品流通では、生産物の直接的な交換(物々交換)が前提しているような個人的な、あるいは局地的な、あるいは時間的な制限を打ち破って、人間労働の社会的な物質代謝を拡大し発展させていることが分かります。しかし他方で、彼らの社会的関係が、物々交換のように互いの直接的な関係ではなくなるということは、彼らの社会的関係が物の関係として、彼らの意識によって制御できない一つの物象的な関係として発展してくることになるのです。リンネル織職や聖書を販売する人やリンネルを買った人など、これまでの登場人物は、ただ彼らの販売する物の関係を通じてしか社会的な結びつきを持つことが出来ないのです。しかも彼らはそのことを自覚するわけではなく、まったく無自覚にそうした社会的な物象的関係を取り結んでいるのです。そして彼らが知らないあいだに形成された社会的関係に彼らは支配され、翻弄されることになるのです。

 

  (ヌ) 織職がリンネルを売ることができるのは、農民が小麦をすでに売っているからです。また酒好きが聖書を売ることができるのは、織職がリンネルをすでに売っているからです。同じように、ウィスキー屋が蒸溜酒を売ることができるのは、別の人が永遠の命の水をすでに売っているからなのです。商品流通では事態にこのようになっています。 

 つまり商品流通では、商品流通の当事者たちは、このようにそれぞれが互いを前提し合う関係を形成するのですが、しかし彼らはそのことには無自覚ですし、互いに無関心なのです。
 

◎第21パラグラフ(流通は絶えず貨幣を発汗している)

【21】〈(イ)それだから、流通過程はまた、直接的生産物交換のように使用価値の場所変換または持ち手変換によって消えてしまうものでもない。(ロ)貨幣は、最後には一つの商品の変態列から脱落するからといって、それで消えてしまうのではない。(ハ)それは、いつでも、商品があけた流通場所に沈澱する。(ニ)たとえばリンネルの総変態、リンネル-貨幣-聖書では、まずリンネルが流通から脱落し、貨幣がその場所を占め、次には聖書が流通から脱落し、貨幣がその場所を占める。(ホ)商品による商品の取り替えは、同時に第三の手に貨幣商品をとまらせる。72 (ヘ)流通は絶えず貨幣を発汗している。〉

 (イ) 物々交換の場合は、生産物が互いに交換されれば、それで終わってしまいますが、商品流通では、使用価値の場所変換または持ち手変換によって、流通過程が、それで消えてしまうというようなものではありません。

  物々交換の場合は、当事者が互いの商品を持ち寄り、交換し合えば、それで終わります。しかし商品流通では、以前、見ましたように、一つの商品が変態を遂げるためは、四つの極と三人の登場人物が必要だったのであり、しかもそれらの登場人物のそれぞれの商品についても同じことが言え、だからそれらが複雑に絡まり合っているのですから、それは終わりのない無限連鎖になるわけです。だから一つの商品の変態列が終了したからといって商品の流通過程がなくなるということはありません。

 『経済学批判』には次のような一文があります。

  〈だから、もし個々の商品の総変態が、始めも終わりもない一つの変態の連鎖の環としてだけでなく、多数のこういう変態の連鎖の環としてあらわされるとすれば、個々の商品はどれもみな流通W-G-Wを通過するのであるから、商品世界の流通過程は、無限に異なった点でたえず終わりをつげながら、またたえずあらたに始まるこういう運動の無限にもつれあった連鎖のからみ合いとしてあらわされる。〉 (全集第13巻頁75)

 (ロ)(ハ) 商品の場合は変態を遂げると流通過程から出て消費過程へと消え去りますが、貨幣の場合は、商品の変態列の最後にそこから脱落するからといって、それで消えてしまうのではありません。それは、いつも、商品があけた流通場所に沈澱します。

  流通過程が続くということは、そのなかで貨幣が留まっているということでもあります。さまざまな商品が流通過程に入ってきては消えていきますが、しかし貨幣はつねにそこに留まり続けています。一つの商品が最後の変態(G-W')遂げて流通過程から消えたと思ったら、その商品(W')に取って替わった貨幣(G)というのは、実は第二の商品(W')の変態の出発点をなしているのですから、新たな流通過程の開始しを意味します。こうして、貨幣は次々とさまざまな商品の変態列を経て流通に留まり続けることになるわけです。

 (ニ) たとえばリンネルの総変態、リンネル-貨幣-聖書では、まずリンネルが流通から脱落し、貨幣がその場所を占め、次には聖書が流通から脱落し、貨幣がその場所を占めるわけです。

  例えばリンネルの総変態を考えてみますと、リンネル-貨幣-聖書となりますが、ここではまず最初にリンネルが販売されて、流通過程から脱落します。しかしその代わりにリンネル織職は貨幣を持っており、リンネルが流通過程で占めていた場所を貨幣が代わりに占めていることがわかります。次にリンネル織職はその貨幣で聖書を購入します。その結果、聖書は流通過程から脱落しますが、しかし貨幣そのものは依然として最初の聖書所持者だった人の手のなかにあり、聖書に代わって流通過程のなかにその場所を占めていることになるのです。

 (ホ)(ヘ) 商品による商品の取り替えは、同時に第三の手に貨幣商品をとまらせます。流通はだから絶えず貨幣を発汗しているのです。

  商品の流通の結果をみれば、商品と商品が交換されたということになります。しかしそのことは同時につねに第三者の手に貨幣商品を止まられていることになるのです。だから流通は常に貨幣を発汗しているのです。
 この部分はフランス語版では次のようになっています。

  〈ところで、ある交換者の商品が他の交換者の商品にとってかわると、貨幣はいつでも第三者の手にとどまる。流通はあらゆる毛穴から貨幣を発汗する。〉 (江夏・上杉訳92-93頁)

  ところでこの部分には第二版で注がつけられています。この注は初版にはなく、フランス語版でもなくなります。この注については、注のところで考えたいと思いますが、この当たり前の現象が、しかし経済学者たちには見逃されているというのです。それはどうしてなのでしょうか。
 

◎注72

【注72】〈72 第二版への注。このようにこの現象は明白なのに、経済学者たち、ことに俗流自由貿易論者は、たいていはこれを見落としている。〉

  この第二版につけられた注は本文の〈商品による商品の取り替えは、同時に第三の手に貨幣商品をとまらせる〉という部分につけられています。どうして俗流自由貿易論者たちはこの現象を見逃したのでしょうか。それが今一つよく分かりません。
 これはあるいは一般に「貨幣ベール観」とも言われている古典派経済学派以来の主張を指しているのかも知れません。マルクスは『資本論』の第2部第8草稿の「Ⅱ)蓄積、または拡大された規模での生産」のなかで、次のように述べているところがあります。

  〈したがって,経済学,ことに重農学派やA・スミス以来の自由貿易経済学〔freetradeeconomy〕が前提しているような,実際にはただ商品対商品の転換が行なわれるだけだということを前提してはいないのである。〉 (大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』213頁、全集版では第24巻611-612頁)。

  これは固定資本の循環や蓄積または拡大再生産の場合には〈けっして,あとから行なわれる販売によって補われるたんなる商品購買,またはあとから行なわれる購買によって補われるたんなる販売を前提していない。〉(同)ということを論じるなかで指摘されていることです。つまりW-Gはかならず続けてG-Wに繋がっているわけではないということです。あるいは貨幣は単に流通手段としてのみ機能するのではない、と言い換えても良いでしょう。それを古典学経済学派以来の自由貿易経済学は見落としているということです。なぜなら、固定資本や蓄積の場合は、商品の流通はW-Gの段階で一旦休止して、貨幣は蓄蔵貨幣として積み立てられることが不可避に生じてくるからです。だからまた直前の販売を前提しない蓄積されたGがG-Wとして登場することもありうるのです。こうしたことが理解できない古典派経済学は、決して固定資本や拡大再生産における貨幣の循環運動を解明することはできなかったことは当然のことです。
  ただこの問題は、第2部の最後の再生産過程の考察のなかで出てくる問題ですから、マルクスは第2版では原注としてつけたものの、フランス語版では外してしまったのかも知れません。

◎第22パラグラフ(単純な商品流通は恐慌の可能性を、しかしただ可能性だけを、含んでいる)

【22】〈(イ)どの売りも買いであり、またその逆でもあるのだから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはありえない。(ロ)それの意味するところが、現実に行なわれた売りの数が現実に行なわれた買いの数に等しい、というのであれば、それはつまらない同義反復である。(ハ)しかし、それは、売り手は自分自身の買い手を市場につれてくるのだということを証明しようとするのである。(ニ)売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。(ホ)それらは、同じ人の行動としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。(ヘ)それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる。(ト)さらに、この同一性は、もしこの過程が成功すれば、それは一つの休止点を、長いことも短いこともある商品の生涯の一時期を、なすということを含んでいる。(チ)商品の第一の変態は同時に売りでも買いでもあるのだから、この部分過程は同時に独立な過程である。(リ)買い手は商品をもっており、売り手は貨幣を、すなわち、再び市場に現われるのが早かろうとおそかろうと流通可能な形態を保持している一商品を、もっている。(ヌ)別のだれかが買わなければ、だれも売ることはできない。(ル)しかし、だれも、自分が売ったからといって、すぐに買わなければならないということはない。(ヲ)流通は生産物交換の時間的、場所的、個人的限界を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それとひきかえに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。(ワ)独立し相対する諸過程が一つの内的な統一をなしていることは、同様にまた、これらの過程の内的な統一が外的な諸対立において運動するということをも意味している。(カ)互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化が、ある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる--恐慌というものによって。(ヨ)商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立--この内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取るのである。(タ)それゆえ、これらの形態は、恐慌の可能性を、しかしただ可能性だけを、含んでいるのである。(レ)この可能性の現実性への発展は、単純な商品流通の立場からはまだまったく存在しない諸関係の一大範囲を必要とするのである。73〉

 (イ)(ロ)(ハ) どの売りも買いであり、またその逆でもあるのですから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはありません。それの意味するところが、現実に行なわれた売りの数が現実に行なわれた買いの数に等しい、というのであれば、それはつまらない同義反復でしかないのです。しかし、それは、実際には、売り手は常に自分自身の買い手を市場につれてくるのだということを証明しようとすることなのです。

 確かに私たちがすでに見たように、「売り」は反対側からみれば「買い」なのですから売りと買いは一つの同じ過程なのであり、よって売りと買いは必然的に均衡するのだ、という説をとなえる人がいますが、しかしこれほど馬鹿げたものはないのです。これはただ売りと買いをただ意味のない抽象として捉えたにすぎません。実際には一つの商品の「売り」にはさまざまな困難が立ちふさがることを私たちは見てきました。それがこの一言で無しに出来るなどと言うことはありえません。売りと買いは必然的に均衡するということは、一つの商品の売りのためには、必ずそれに見合った買いを見いだすことができる、つまりそれは絶対に売れるということを証明することなのですが、もしそれが出来るなら、そもそも"命懸けの飛躍"などあろうはずがありません。経済過程の現実は需要と供給とは常にアンバランスであることを日常的に教えてくれています。
 『経済学批判』の一文を紹介しておきます。

 〈商品の流通過程がW-Wに解消し、そのためにたんに貨幣によって媒介された交換取引〔物々交換〕のように見えるということから、あるいはまた一般にW-G-Wは二つの孤立した過程に分かれるだけでなく、同時にそれらの動的統一をもあらわしているということから、購買と販売とのあいだには統一だけがあって分離はない、と結論しようとするのは、それの批判は論理学の分野に属し、経済学の分野には属さない考え方である。〉 (全集第13巻77-78頁)

  売りと買いの同一性を唱える経済学者として『経済学批判』の先に紹介した一文のあるパラグラフの最後に原注としてジェームズ・ミルの一文が引用されています。それも紹介しておきましょう。

  〈 「すぺての商品にとって、買い手が足りないということはありえない。ある商品を売りに出す者は、いつもそれと交換にある商品を入手しようと欲しているのである。だから彼は、売り手であるという事実そのものによって買い手なのである。したがって、すべての商品の買い手と売り手とは、総括すれば、形而上学的必然性によって均衡を保たなければならない。」〉 (全集第13巻78頁)

 (ニ)(ホ)(ヘ)(ト) 売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為です。しかしそれらは、同じ人の行動としては、二つの対極的に対立した行為をなしています。だから、売りと買いとが同一だということは、商品が流通という錬金術の坩堝に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいるのです。さらに、この同一性は、もしこの過程が成功すれば、それは一つの休止点を、長いことも短いこともある商品の生涯の一時期を、なすということを含んでいるのです。

  確かに売り(G-W)と買い(W-G)は、二人の対局に立つ人からみれば、つまり商品所持者と貨幣所持者との相互関係としてみれば、一つの同じ行為の二側面です。しかしそれを一人の商品保持者の行動としてみるなら、互いに対局した互いに補い合う行為(W-G-W)を意味しています。だから売りと買いとは同一だと言っても、そもそも最初の売り(W-G)が成功しなければ、商品所持者にとっては、その商品は無駄になることになります。なぜなら、商品の価格は、その商品に含まれている価値の大きさの指標ですが、他方でそれは金になりたいという商品の願望、つまり商品に含まれている労働時間に、一般的社会的な労働時間という姿を与えたいという願望を表現しています。もしその"命懸けの飛躍"が成功しないなら、商品は商品ではなくなり、生産物でさえもなくなるのです。というのは商品はその所有者にとって非使用価値だからこそ商品なのですから。
 しかし、もしこの販売が成功したとしても、それはそれで問題含みです。なぜなら、売りは同時に買いだということは、売りの対局の買いは、それう買う人からみれば、最後の商品変態を意味しています。つまり彼に残されているのは流通過程からの退場です。そして商品所持者の売りという最初の変態の結果として入手した貨幣(G)というのは、自立した価値の姿態として存在しているのです。だから売った人が、すくに買う必要は必ずしもありません。W-G…G-Wの…が短くも長くもなり得るのです。つまりそれは一つの休止点をなしうることを意味し、だからすぐに買う必要もないことになります。ということはリンネル織職がリンネルを売って手にした貨幣で、すぐに聖書を買わないとするなら(なぜなら彼が手にした貨幣はいつでもどんなときでも彼に必要な使用価値に転化しうる姿で存在しているのですから、彼はそれをもっと別の機会にその権利を行使しようと考えることもできるからです)、冷たいものより熱いものを好む人は、なかなかそれにありつけないことになります。少なくともそうした可能性を持っているわけですから、売りと買いが必然的に釣り合うなどとは言えないのです。
 『経済学批判』には次のような一文があります。

    〈流通の第一の過程である販売の結果として、第二の過程の出発点である貨幣が生じる。第一の形態での商品のかわりに、その金等価物が現われている。この第二の形態での商品は、それ自身の持続的存在をもっているのだから、この結果はさしあたりひとつの休止点となることができる。その所有者の手中ではなんらの使用価値でもなかった商品は、いまやいつでも交換できるがゆえにいつでも使用できるという形態で現存しており、それがいつ、そして商品世界の表面のどんなところで、ふたたび流通にはいるかは、事情のいかんにかかっている。商品が金の蛹になるのは、その生涯の独立した一期間であって、商品は短くも長くもそこにとどまることができる。〉 (全集第13巻73-74頁)

 (チ)(リ)(ヌ)(ル) 商品の第一の変態は同時に売りでも買いでもあるのだから、この部分過程は同時に独立な過程です。買い手は商品をもっており、売り手は貨幣を、すなわち、再び市場に現われるのが早かろうとおそかろうと流通可能な形態を保持している一商品を、もっています。別のだれかが買わなければ、だれも売ることはできません。しかし、だれも、自分が売ったからといって、すぐに買わなければならないということはないのです。

 そればかりか売りと買いは同一の過程の二側面だということは、買いがなければ売りもないということでもあるのです。そしてすでに述べましたように、貨幣保持者は、何時如何なるときに、如何なる場所において、再び流通過程に入るかは事情の如何にかかっているのですから、彼は自分が売ったからといってもも、すぐに買わねばならないというわけではないのです。
 やはり『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。

  〈個々の販売または購買はどれもみなひとつの無関係な孤立的な行為として存立し、それを補完する行為は、時間的にも空間的にもそれから分離されることができ、したがってその継続として直接にそれに結びつく必要はない。〉 (全集第13巻75頁)

 (ヲ) 流通は生産物交換の時間的、場所的、個人的限界を打ち破りますが、しかしそれは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それとひきかえに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を、流通によって売りと買いとの対立に分裂させるということによってなのです。

 直接的な生産物交換においては一つの局所において生産物の所持者が相対して、互いの生産物を交換し合うのですが、それに対して商品流通では、こうした生産物交換の時間的、 場所的、個人的限界を打ち破って社会的な物質代謝を発展させていることはすでに見ました(第20パラグラフ)。つまり生産物交換のうちにある、自分の労働生産物を交換のために引き渡し、それと引き換えに相手の生産物を受け取るという直接的な同一性を、商品流通においては、それを売りと買いに分裂さてることによって、そうした物質代謝の発展をなし遂げているのです。
 引用するまでもありませんが、『経済学批判』の一文をここでも紹介しておきましょう。

 〈交換取引〔物々交換〕では、ある特殊な一使用価値の交換が他の特殊な一使用価値の交換と直接に結びついているが、交換価値を生みだす労働の一般的性格は、購買行為と販売行為とが分離し、てんでにばらばらであるという点に現われている。〉 (全集第13巻74頁)

 (ワ)(カ) 独立し相対する諸過程が一つの内的な統一をなしていることは、同様にまた、これらの過程の内的な統一が外的な諸対立において運動するということをも意味しています。互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化が、ある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれます--恐慌というものによって。

 一つの商品の変態(W-G…G-W)は、(W-G)と(G-W)の間に休止点をもたらすとはいえ、しかしそれが一つの商品の変態の生涯をなすのですから、内的に統一していることは明らかです。だから売りと買いの分裂というのは、こうした本来は内的に統一しているものが、外的に対立して運動するということなのです。しかしこのように互いに補い合っているために内的に統一しているものが外的に独立化して運動するなら、その運動には限度があり、その運動がある点まで進めば、必ずその統一が強制的に回復されなければならないことになるのです。それが恐慌なのです。
 同じ内容を述べているものを諸文献から紹介しておきましょう。(久留間鮫造著『マルクス経済学レキシコン』⑥恐慌Ⅰには諸文献からの引用がたくさんありますが、ここではその主なものだけを紹介しておきます。)

 まずは『経済学批判要綱』から

 〈購買と販売という流通の二つの本質的な契機が相互に無関心であり、空間と時間にかんして分離されているかぎり、両者はけっして一致することを必要としない。両者の無関心性は、一方が他方にたいして固定化して、仮象的に自立化した状態にまで進行することができる。しかし両者が本質的には一個の全体の二つの契機をなしているかぎり、自立した姿態が強力的に打ちくだかれ、内的統一が強力的な爆発をつうじて外的に回復されるような一瞬間がやってこないわけにいかない。こうしてすでに媒介者としての貨幣の規定のうちに、交換の二つの行為への分裂のうちに、恐慌の萌芽が、少なくともその可能性が存在する。〉 (草稿集①207頁)

 次に『経済学批判』から

〈交換過程での購買と販売との分離は、社会的な物質代謝の局地的=原生的な、先祖伝来のつつしみぶかい、のんびりして愚昧な諸制限を打ち破るが、それと同時に、この分離は、社会的物質代謝の関連しあう諸契機の分裂とそれらの対立的固定化との一般的形態であり、一言でいえぽ、商業恐慌の一般的可能性である。〉 (全集第13巻78頁)

 『剰余価値学説史』から

 〈売り手の困難--彼の商品が使用価値をもつという前提のもとでの--は、ただ、買い手が貨幣の商品への再転化を容易に延期しうる、ということからのみ生ずるのである。商品を貨幣に転化させることの困難、すなわち、それを販売することの困難は、もっぱら、商品は貨幣に転化きれなければならないが貨幣はすぐに商品に転化されなくてもよいということからのみ、つまり販売購買とは分離しうるということからのみ、生ずるのである。すでに述べたように、この形態恐慌可能性を含んでいる。すなわち、相互に一体を成す関係にあって分離しえない諸契機が、引き離され、したがってまた暴力的に統一されるという可能性を、つまり、この諸契機の相互一体性がその相互の独立性にたいして加えられる暴力によって貫徹されるという可能性を、含んでいる。さらにまた、恐慌とは、すでに相互に独立化した生産過程の諸局面の統一を暴力的に貫徹させること以外のなにものでもないのである。〉 (全集第26巻第2分冊688頁)

 (ヨ)(タ)(レ) 商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立--この内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取るのです。それゆえ、これらの形態は、恐慌の可能性を、しかしただ可能性だけを、含んでいるのです。この可能性の現実性への発展は、単純な商品流通の立場からはまだまったく存在しない諸関係の一大範囲を必要とします。

  この一文はやや哲学めいて難解な印象をあたえます。だから少し詳しく見て行きましょう。
  まず商品に内在する「対立」として①〈使用価値と価値との対立〉、②〈私的労働が同時に直接に社会的な労働として現われなければならないという対立〉、③〈特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立〉、④〈物の人化と人の物化という対立〉と四つの対立が指摘されています。そしてそれを受けて〈--この内在的な矛盾は〉と今度はそれらを〈矛盾〉と述べています。これらはどのように理解したらよいのでしょうか。とりあえず、四つの対立のそれぞれについて個別に見て行きましょう。
   まず①〈使用価値と価値との対立〉というのは、商品には使用価値と価値という対立した契機があります。使用価値というのは、商品の物的な存在そのものであり、その具体的な有用性のことです。しかし価値というのは、直接には目にすることの出来ない商品に内在的なものであり、商品の生産に支出された労働の社会的性格を表しているものです。それが対立したものであるというのは、使用価値と価値は互いに前提しあいながらも排除し合っているものだからです。使用価値には価値は含まれていませんし、価値には使用価値は一片も含まれていません。それが使用価値と価値との対立ということです。
   次に②〈私的労働が同時に直接に社会的な労働として現われなければならないという対立〉というのはどうでしょうか。私的労働というのは、個々人がバラバラにそれぞれの思惑で勝手にするような労働のことです。社会的な労働というのは、個々人の労働が彼の所属する社会において、前もって直接に社会的に関連づけられた形で支出されるような労働のことです(これは工場内で一つのシステムの中に位置づけられた労働を考えればわかります。しかし工場内ではそれらの労働を関連づけるのは資本であって決して労働者自身ではないから、それは労働者にとっては疎外された強制労働なのですが)。だからこの二つの労働はまったく相反するものといえます。しかし労働の生産物が商品になるということは、その生産物を生産した労働が私的労働であるのに、しかし本来的には社会的に関連しあっていなければならないということを意味するのです。諸商品の交換がその社会的関係を実現するわけです。その交換関係を内在的に表しているのがその商品の価値なのです。つまり商品というのはそれに支出された労働は直接には私的なバラバラな労働なのですが、それが商品であるということは、そのバラバラな労働が社会的な関係のなかにあることを示す必要があることを意味しているのです。それは商品の価値が具体的な姿(貨幣)において表されるということでもあるのです。それが〈私的労働が同時に直接に社会的な労働として現われなければならない〉ということなのです。これは商品がその直接的な姿である使用価値を脱ぎ捨てて、その内在的な価値の直接的な姿態である貨幣にならなければならないということでもあります。商品と貨幣というのは、商品に内在する使用価値と価値が商品の二重化によって、外的な対立として現れたものです。
   ③〈特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立〉はどうでしょうか。〈特殊な具体的労働〉というのは使用価値を生産する有用な具体的な労働ということです。もしその労働が直接社会的な関係のなかで支出されたものなら、その労働は特殊な具体的な労働のままに同時に直接に社会的な労働でもあるということです。しかし商品を生産する労働は直接には私的労働です。だから商品を生産する特殊な具体的労働は、そのままでは社会的な労働としては存在しえません。だからその特殊な具体的な労働は、その特殊性を捨象されて抽象的一般的労働に還元されて、はじめて社会的な関係を持ちうるものとなるのです。諸商品の交換過程は、まさにその抽象を日々行うことによって諸商品を関連づけているのです。だから特殊な具体的労働が同時に抽象的一般的な労働としてのみ認められなければならないという対立は商品社会に固有のものなのです。
  ④ 最後の〈物の人化と人の物化という対立〉というのはどう理解したらよいのでしょうか。
  〈物の人化〔Personificirung der Sache〕〉というのは、翻訳によっては「物象の人格化」とも訳されていますが、これは商品という物象が、人間に代わって主体となるということだと思います。だから人間はただ商品の運動に規定された代表者という役割でしかなく、〈人々の経済的扮装はただ経済的諸関係の人化でしかないのであり、人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対する〉(全集第23a巻113頁)ことになります。
    それに対して〈人の物化〔Versachlichung der Personen〕〉というのは(これも翻訳によっては「人格の物象化」と訳されていますが)、人間の社会的関係が、物象の関係、物象相互の社会的関係、あるいは物象そのもの(貨幣)として現れてくるということではないかと思います。
   だから〈物の人化と人の物化という対立〉というのは、商品社会では、人々の生産した物が、商品となることによって、生産者に代わって主人公になり、人間は、その物象の単なる代表者になるということ、そしてそのために人間の社会的な関係が、物の関係として、あるいは物そのものとして現れてくるということではないかと思います。これは商品の物神性を意味しているといえます。
   しかしそれらが〈--この内在的な矛盾は〉と纏められているのはどういうことでしょうか。どうして「対立」が「矛盾」となっているのでしょうか。
   初版の「第2章 交換過程」の最後にある次章への移行を述べた一文は次のようなものでした。

  〈商品は、使用価値と交換価値との、したがって二つの対立物の、直接的な統一である。だから、商品は直接的な矛盾である。この矛盾は、商品が、これまでのように、分析的に、あるときは使用価値の観点のもとで、あるときは交換価値の観点のもとで、観察されるのではなくて、一つの全体として、現実に、他の諸商品に関係させられるやいなや、発展せざるをえなくなる。諸商品の相互の現実の関係は、諸商品の交換過程なのである。〉 (江夏訳69頁)

  つまり商品の内在する対立というのは、商品を抽象的に・分析的に観察したときに、商品に内在する諸契機が対立として捉えられたのに対して、商品をそれらの対立物の直接的な統一として捉え返せば、それらは直接的な矛盾として現われるということです。
 「第2節 流通手段」「a 商品の変態」の冒頭は次のような一文で始まっていました。

  〈すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。これは、一般に現実の矛盾が解決される方法である。〉 (全集23a138頁)

  だから私たちがこれまで考察してきた商品の変態というのは、商品に内在する対立した契機が、交換過程において互いに矛盾した関係として現われ、その矛盾の解決として商品が、商品と貨幣とに二重化して、新たな運動形態を得たのでした。そして商品の変態において発展した運動形態を受け取った矛盾は、今度は販売と購買との分裂として現れてくるのですが、それがある段階まで行けば、不可避にその分裂が強制的に克服されて統一されざるを得ず、それが恐慌の可能性、しかし商品流通においてはただ可能性だけですが、を示すのだということです。

  では、その次の〈この可能性の現実性への発展は、単純な商品流通の立場からはまだまったく存在しない諸関係の一大範囲を必要とするのである〉というのはどういうことでしょうか。
   実は商品の運動形態に内在する恐慌の可能性というのは、あくまでも抽象的な可能性にすぎず、だから単純な商品生産と流通を前提するだけでは恐慌としては現われてきません。これは単純な商品というのは資本主義以前の諸社会においても部分的には存在してきましたが、そうした社会では恐慌というものは存在しなかったことを見てもわかります。恐慌というのは、単にある特定の商品が売れないということではありません。単に商品が売れないというだけなら、資本主義以前にもそうした現象はいくらでもあったでしょう。しかし資本主義に固有の恐慌というのは、すべての商品が作っても売れないという現象として現われてくるのです。だからそうした現象の裏には資本主義的生産の複雑な諸関係が前提されているのです。恐慌の抽象的な可能性は、単純な商品流通においてはもう一度「支払手段」のところでも出てきますが、同じことがいえます。
   また『資本論』では第2巻の「資本の流通過程」でも恐慌の可能性について論じているところは何度か出てきますが、やはりそれらも可能性にすぎないものです。すでに資本関係を前提しているのに、依然としてそれらが可能性に留まっているのは、『資本論』の第1巻、第2巻は資本主義的生産様式に内在する諸法則を一般的に叙述するために、諸商品(資本)は価値どおりの価格で交換されることが前提されています。つまり資本主義的生産と流通の諸法則は純粋な形で均衡的に貫徹するものとしてその諸形態が考察されているのです。だからそうした均衡を破る諸契機は、ただ単なる可能性としてしか把握されないのです。
   しかし第3巻では「総過程の諸形象化」(マルクスが第3部の表題としたもの)が問題になります。つま第1巻・第2巻で展開された内在的諸法則が、資本の利潤を唯一の規定的目的とも推進動機ともする運動によって転倒されて現われてくる(それが形象化ということです)ことが問題になるのです。だから恐慌の可能性もその現実性を獲得する運動が第3巻から考察の対象になってくるのです。マルクス自身は初期の経済学批判の体系(いわゆる「六部構成」といわれるもの)のなかでは、その最後の項目「世界市場と恐慌」として、恐慌を資本主義的生産様式のすべてを総括する総合的な矛盾の爆発・発現として展開する予定だったようです。

◎注73

【注73】〈73 ジェームズ・ミルについて私が述べたこと、『経済学批判』、七四-七六ぺージ参照。〔本全集、第一三巻、七七-七九(原) ページを見よ。〕ここでは二つの点が経済学的弁護論の方法の特微をなしている。第一には商品流通と直接的生産物交換との相違の単純な捨象による両者の同一視である。第二には、資本主義的生産過程の生産当事者たちの諸関係を商品流通から生ずる単純な関係に解消することによって、資本主義的生産過程の諸矛盾を否定し去ろうとする試みである。しかし、商品生産と商品流通とは、その広がりや重要さはいろいろに違うにしても、非常に違ったいろいろな生産様式に属する現象である。だから、いろいろな生産様式に共通な、抽象的な、商品流通の諸範疇だけを知っても、これらの生産様式の種差〔differentiaspecifica〕はなにもわからないのであり、したがってそれらを評価することもできないのである。初歩の自明なことをあのように大げさに論じ立てることは、経済学以外のどの科学にもないことである。たとえば、J・B・セーは、商品が生産物であるのを自分が知っているからとて、おこがましくも、恐慌に断定を下そうとするのである。〉

  この原注73は先のパラグラフ(第22パラグラフ)の一番最後につけられています。つまりこれは恐慌を否定するブルジョア経済学者たちと彼らの論拠について論じたものといえます。新日本新書版では最後の部分が次のような訳者の補足が入ったものになっています。

  〈たとえば、J・B・セーは、商品が生産物であるのを自分が知っているからとという理由で、あつかましくも、恐慌に最終的判定〔全般的過剰生産恐慌を否認するという〕をくだそうというのである。〉 (194頁)

  この原注では冒頭、『経済学批判』の参照箇所を指示しています。それは結構ながいものなので、その紹介は後回しにして、まずはそのあとでマルクスが述べていることを検討しておきましょう。

  〈ここでは二つの点が経済学的弁護論の方法の特微をなしている〉という場合の〈ここでは〉というのは恐慌の問題においては、ということのようです。恐慌を否定して資本主義的生産を擁護する弁護論者たちには、どうやら二つの論点があるようです。

   〈第一には商品流通と直接的生産物交換との相違の単純な捨象による両者の同一視である。

  確かに直接的生産物交換では商品の売れないということそのものが問題になりえないのは明らかです。だから商品流通を直接的生産物交換と同一視するなら、商品の命懸けの飛躍など問題にもならないことは明らかです。

  〈第二には、資本主義的生産過程の生産当事者たちの諸関係を商品流通から生ずる単純な関係に解消することによって、資本主義的生産過程の諸矛盾を否定し去ろうとする試みである。

   今度は資本主義的な諸関係を捨象して、その表層に現われている単純な商品流通の関係のみに還元して問題を見ようということのようです。確かにそうすれば資本主義的生産に固有の諸矛盾というのものは表れてきません。それに続く一文はそうした主張に対するマルクスの反論です。

  〈しかし、商品生産と商品流通とは、その広がりや重要さはいろいろに違うにしても、非常に違ったいろいろな生産様式に属する現象である。だから、いろいろな生産様式に共通な、抽象的な、商品流通の諸範疇だけを知っても、これらの生産様式の種差〔differentiaspecifica〕はなにもわからないのであり、したがってそれらを評価することもできないのである

  確かに商品生産や商品流通というのは、資本主義以前の諸社会においても表れてきました(マルクスは奴隷制社会や封建制社会でもそれらの社会の崩壊期に商品経済が著しく発展したと述べています)。だから『資本論』の第1篇「商品と貨幣」でとりあげている単純流通というのは、ブルジョア社会の表層に現象しているものを、その背後にある資本主義的諸関係を捨象して取り出した、その意味では抽象的なものですが、だからそうした抽象性においては資本主義以前の諸社会の商品生産や商品流通にも妥当するものだとマルクスは述べています。しかしそれらの諸社会に共通なそうした抽象的な諸範疇を知ったからといって、それらの生産様式の違いは何も分からないし、それらを評価することもできないのだ、といのがマルクスの反論です。

  〈初歩の自明なことをあのように大げさに論じ立てることは、経済学以外のどの科学にもないことである。〉というのは、そのあとに〈たとえば〉と続けているように、どうやら最初の〈第一には商品流通と直接的生産物交換との相違の単純な捨象による両者の同一視〉と関連があるようです。つまり商品は生産物だということで、恐慌を否定できると考えている愚鈍な輩だということでしょう。

  ところで冒頭の『経済学批判』の参照箇所はやや字数がオーバーしそうなので、資料集に掲載することでご勘弁ください。

◎第23パラグラフ(流通手段という機能)

【23】〈(イ)商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつことになる。〉

 (イ) 商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつことになります。

  これは流通手段とは何かを規定しているといえますが、『経済学批判』には次のような一文がります。

  〈さてW-G-Wの結果を見ると、それは物質代謝W-Wに帰着する。商品が商品と、使用価値が使用価値と交換されたのであり、商品の貨幣化、または貨幣としての商品は、ただこの物質代謝の媒介に役だつだけである。こうして貨幣は、諸商品のたんなる交換手段として現われるが、しかし交換手段一般としてではなく、流通過程によって特徴づけられた交換手段、すなわち流通手段として現われる。〉 (全集第13巻77頁)

  ある特定の二商品の交換を媒介するものとしては貨幣は交換手段といえますが、諸商品の流通を媒介するものとしては貨幣は流通手段という機能をもつということでしょうか。

 (付属資料は下につづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

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