『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(7)

2022-02-13 13:05:15 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(7)

 

【付属資料】の続き

 

●第6パラグラフ

《61-63草稿》

 〈つまり、貨幣の資本への転化のための条件が、貨幣と生きた労働能力との交換、すなわちその持ち主からの生きた労働能力の購買である以上、そもそも貨幣が資本に、あるいは貨幣所有者が資本家に転化できるのは、まったくただ、彼が商品市場で、流通の内部で自由な労働者を見いだすかぎりにおいてである。自由な、というのは、一方では彼が自分自身の労働能力を、商品として思うままに処分するというかぎりにおいてであり、他方では彼が思うままに処分できるほかの商品をなに一つもっていない、言い換えれば、彼の労働能力を実現するための、すべての対象的諸条件から自由であり、免れており、離れている〔frei,los und ledig〕というかぎりにおいてである。だからまた、貨幣所有者が対象化された労働の、自己自身を堅持する〔an sich selbst festhaltend〕価値の、主体および担い手として、資本家であるのと同じ意味で、労働能力の持ち主は彼自身の労働能力の単なる主体、単なる人格化として、労働者なのである。〉(草稿集④53-54頁)

《初版》

 〈だから、貨幣資本に転化させるためには、貨幣所持者は、自由な労働者を商品市場で見いださなければならない。この自由とは、二重の意味での自由であって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として自由に処理する、という意味であり、他方では、売るべき他の商品をなにももたず、自分の労働力の実現のために必要ないっさいのから解放されていて自由である、という意味である。〉(江夏訳173頁)

《フランス語版》

 〈したがって、貨幣の資本への転化は、貨幣所有者が自由な、二重の観点から自由な労働者を市場で見出す、ということを必要とする。第一に、労働者は、自分の労働力を自分に属する自分の商品として思いのままに処分するような自由な人間でなければならない。第二に、彼はほかに売るべき商品をもっていてはならず、いわばすべてのことに自由であって、自分の労働能力の実現に必要な物をなにもかも奪い取られていなければならない。〉(江夏・上杉訳156頁)

 

●第7パラグラフ

《経済学批判要綱》

  〈所有の労働からの分離は、資本と労働とのこの交換の必然的法則として現われる。非資本そのものとして措定された労働は次のようなものである。(1)対象化されていない労働〔Nicht-vergegenständlichte Arbeit〕、否定的に把握されたそれ(それ自体としてはやはり対象的であるが、客体的形態にあっては非対象的なものそれ自体なのである)。このようなものとしては、労働は、非原料、非労働用具、非原料生産物であり、あらゆる労働手段と労働対象から、つまり労働の全客体性から切り離された労働である。それは、労働の実在的現実性のこれらの諸契機からの抽象として存在する生きた労働(同様に非価値)であり、このような丸裸の存在〔völlibge Entblösung〕、あらゆる客体性を欠いた純粋に主体的な労働の存在なのである。それは、絶対的貧困〔absolute Armut〕としての労働、すなわち対象的富の欠乏としての貧困ではなく、それから完全に締め出されたものとしての貧困なのである。あるいはまた、存在している非価値そのものとして、したがってまた媒介なしに存在する純粋に対象的な使用価値として、この対象性は、人格から切り離されていない対象性、人格の直接的肉体性〔Leiblechkeit〕と一体化した対象性でしかありえない。その対象性がまったく直接的であるからこそ、それはまた直接的に非対象性でもある。言いかえると、それは個人そのものの直接的定在を離れては存在しえない対象性なのである。(2)対象化されていない労働非価値肯定的に把握されたそれ、すなわち自分自身にかかわってくる否定性、それは、対象化されていない、したがって非対象的な、すなわち主体的な、労働そのものの存在である。それは、対象としての労働ではなく、活動としての労働であり、それ自体価値としての労働ではなく、価値の生きた源泉としての労働である。それは、富が対象的に現実性として存在する資本に相対して、行為のなかで自己をそのものとして確証する富の一般的可能性としての一般的富である。こうして労働が一方では対象としては絶対的貧困でありながら、他方では主体として、活動としては富の一般的可能性であるということは、いささかも自己矛盾することではない。というよりむしろ、いずれにせよ自己矛盾しているとの命題は、相互に条件づけあっているものであって、労働が資本の対立物として、つまり資本の対立的定在として、資本によって前提されるとともに、他方では労働の方でも資本を前提するという、労働の本質から生じている。〉(草稿集①353-354頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈貨幣占有者--あるいは貨幣と言いかえてもよい。というのは今のところわれわれにとって貨幣占有者とは、経済的過程それ自体のなかでは、ただ貨幣の人格化〔Personification〕にすぎないからである--が労働能力を商品として市場で、流通の諸限界のなかで見いだせること、われわれはここではこうした前提から出発する。またブルジョア社会の生産過程もこうした前提から出発するわけであるが、この前提は、明らかに、一つの長い歴史的発展の結果であり、たくさんの経済的変革の凝縮〔Resumé〕である。そしてそれは、他のもろもろの生産様式(もろもろの社会的生産諸関係)と社会的労働の生産諸力の特定の発展とが没落することを前提している。こうした前提のうちに与えられている過去の特定の歴史的過程には、この関係をさらに詳しく考察するところで、もっとはっきりとした定式が与えられるであろう。とはいえ経済的生産がこのような歴史的発展段階にあること--自由な労働者がいることからしてすでに、このことの産物そのものなのであるが--が、資本そのものが生成してくるための前提であり、だからなおさら資本そのものが定在するための前提なのである。〉(草稿集③193-194頁)

《61-63草稿》

 〈だが、この自由な労働者は--したがってまた、貨幣所有者と労働能力の所有者とのあいだの、資本と労働とのあいだの、資本家と労働者とのあいだの交換は--、明らかにそれ自身、先行した歴史的発展の産物、結果であり、多くの経済的変革の要約〔Resumé〕であり、また他の社会的生産諸関係の没落と、社会的労働の生産諸力の一定の発展とを前提する。この関係の前提と同時に与えられている一定の歴史的諸条件は、この関係についてののちの分析のさいにおのずから明らかとなろう。しかし資本主義的生産は、自由な労働者、すなわち、売るべきものとしては自分自身の労働能力しかもっていない売り手が、流通の内部に、市場に、見いだされる、という前提から出発する。つまり資本関係の形成は、はじめから、この関係が社会の経済的発展の--社会的生産諸関係および生産諸力の一定の歴史的段階にしか現われることができない、ということを示している。それははじめから、歴史的に規定された経済的関係として、すなわち経済的発展の、社会的生産の、一定の歴史的時代に属する関係として現われるのである。〉(草稿集④54頁)

《賃金・価格・利潤》

  〈だがそうするまえに、次のことが問題にされるかもしれない。市場には〔一方に〕土地や機械や原料や生活資料--自然のままの状態にある土地以外は、これらはすべて労働の生産物である--をもった〔労働力の〕買い手の一組がおり、他方には、労働力すなわち労働する腕と頭のほかにはなにも売るべきものをもっていない〔労働力の〕売り手の一組がいるという、この奇妙な現象、一方の組は利潤をあげ金をためるためにたえず買い、他方の組は暮らしをたてるためにたえず売っているという、この奇妙な現象は、どうして起こるのか? と。この問題の研究は、経済学者たちが「先行的蓄積または原蓄積」*とよんでいるもので、だがじつは原収奪とよぶべきものの研究になるであろう。われわれは、このいわゆる原蓄積の意味するところは、労働する人間と彼の労働手毅とのあいだに存在する原結合解体をもたらした一連の歴史的過程にほかならないことを知るであろう。しかしこうした研究は、私の当面の主題の範囲外である。労働する人間と労働手段との分離がひとたび確立されると、こうした状態はおのずから存続し、つねに規模を拡大しながら再生産され、ついに生産様式上の新しい根本的な革命がふたたびこれをくつがえして新しい歴史的形態で原結合を復活させるまでつづくであろう。
  * アダム・スミスは、労働にさきだっておこなわれる蓄積といっている(『諸国民の富』、前掲訳書、(2)、232-233ページ、②、94ぺージ)。なお「原蓄積」Oribinal Accumulationは、『資本論』第1巻第24章で「本源的蓄積」Primitive Accumulaitonといわれているものにあたるが、ここでは「原罪」などと同じ言い方で、風刺的意味をふくんでいると思われる。以下の「原収奪」「原結合」もこれにならった言い方である。〉(全集第16巻129-130頁)

《初版》

 〈なぜ、この自由な労働者が流通部面で貨幣所持者に相対しているかという問題は、労働市場を商品市場の特殊な部門として見いだしている貨幣所持者には、興味がない。そして、この間題はさしあたって、われわれにも興味がない。貨幣所持者が実地に事実にかじりつくのと同様に、われわれは理論上事実にかじりつくのである。とはいえ、一つのことが明らかである。自然が、一方の側に貨幣または商品の所持者を産み出し、他方の側に自分の労働力だけの所持者を産み出しているわけではない。この関係は、自然史的な関係でもなければ、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的な関係でもない。それはそれ自体、明らかに、先行している歴史的発展の成果であり、多くの経済的変革の産物、多数の過去の社会的生産組織の没落の産物である。〉(江夏訳173頁)

《フランス語版》

 〈なぜこの自由な労働者が流通部面で見出されるのか? これは、労働市場を商品市場の特殊な一部門としか考えない貨幣所有者には、ほとんど関係のない問題である。そしてまた、それはさしあたりわれわれにもなおさら関係がない。われわれは、貨幣所有者が実践上そうしているように、理論上この事実に執着する。どちらにしても、まことに明白なことが一つある。自然は、一方に貨幣または商品の所有者を、他方に自分自身の労働力の所有者を、無条件に産み出すものではない。このような関係は、自然的基礎をなんらもつものではなく、歴史の全時代に共通な社会的関係でもない。それは明らかに、先行する歴史的発展の結果であり、あらゆる一連の古い社会的生産形態の破壊から生じた多数の経済的革命の産物である。〉(江夏・上杉訳157頁)


●第8パラグラフ

《61-63草稿》

 〈われわれは、最も単純な経済的関係・ブルジョア的富の基素・としてブルジョア社会の表面に現われるような商品から出発した。商品の分析は、商品の定在のなかに一定の歴史的諸条件が包み込まれていることをも示した。たとえば、生産物が生産者たちによって使用価値として生産されるだけであれば、その使用価値は商品とはならない。このことは、社会の成員のあいだに歴史的に規定された諸関係があることを前提している。ところで、もしわれわれがさらに次の問題を、すなわち、どのような事情のもとで生産物が一般的に商品として生産されるのか、あるいはどのような諸条件のもとで商品としての生産物の定在が、すべての生産物の一般的かつ必然的な形態として現われるのか、という問題を追究したならば、それは、まったく特定の歴史的生産様式である資本主義的生産様式の基礎の上でのみ生じることだ、ということがわかったであろう。しかしそのような考察をしたとすれば、それは商品そのものの分析からは遠く離れてしまうことになったであろう。というのは、われわれがこの分析でかかわりあったのは、商品の形態で現われるかぎりでの諸生産物、諸使用価値であって、あらゆる生産物が商品として現われなければならないのは、どのような社会的経済的基礎の上でのことか、という問題ではないからである。われわれはむしろ、商品がブルジョア的生産においては富のかかる一般的、基素的(エレメンターリッシュ)な形態として見いだされる、という事実から出発する。しかし、商品生産、したがってまた商品流通は、さまざまの共同体のあいだで、あるいは同一の共同体のさまざまの器官のあいだで--生産物の大部分は直接的な自己需要のために使用価値として生産され、したがってまたけっして商品の形態をとらないのに--生じうる。〉(草稿集④54-55頁)

《初版》

 〈さきに考察した経済的な諸範疇もまた、それらの歴史的な痕跡を帯びている。生産物の商品としての存在のうちには、特定の歴史的な諸条件が包み込まれている。商品になるためには、生産物は、生産者自身のための直接的生活手段として生産されてはならない。われわれがさらに進んで、生産物のすべてが、または、たんにその多数だけでも、どんな事情のもとで商品という形態を帯びるか、ということを探究すれば、このことは、全く独自な生産様式である資本主義的生産様式の基礎上でのみ起きる、ということが見いだされたであろう。とはいえ、このような探究は、商品の分析にはほど遠いものであった。商品生産や商品流通は、圧倒的な生産物量が直接に自家需要に向けられていて商品に転化していなくても、したがって、社会的生産過程がそれの全体的な広さおよび深さにおいてまだ充分に交換価値によって支配されていなくても、起こりうるのである。生産物が商品として現われていることは、使用価値と交換価値との分離--この分離は、直接的な物々交換取引において初めて始まるものである--がすでに完成しているほどに発達した社会的分業を、条件としている。ところが、このような発展段階は、歴史上いともまちまちな経済的社会組織に共通している。〉(江夏訳173-174頁)

《フランス語版》

 〈われわれがさぎに考察した経済的諸範疇も、これと同様に、歴史的痕跡を帯びている。労働生産物が商品に転化しうるためには、若干の歴史的諸条件がみたされていなければならない。たとえば、労働生産物がその生産者の必要を直接にみたすことにのみ充てられているかぎり、労働生産物は商品にはならない。もしわれわれが研究を先に進めて、すべての生産物、または少なくともそのうちの大部分が、どんな事情のもとで商品形態をとるかを自問していたならば、それが、資本主義的生産という全く独自な生産様式の基礎上でのみ起こることを、発見していたことであろう。ところが、このような研究は、単純な商品分析の全く埒外にあったのだ。生産物の最大部分がその生産者自身によって消費され、商品として流通のなかに入らないばあいでも、商品生産と商品流通は起こりうる。まさにこのばあいには、社会的生産がそのひろがりの全体とその深さの全体において交換価値によって支配されるには、ほど遠いものがある。生産物は、商品になるためには、使用価値と交換価値との分離--この分離は、物々交換の取引においてやっと現われはじめる--がすでに完成しているほどに発展した分業を、社会のなかで必要とする。ところが、このような発展段階は、歴史が証明するように、社会の非常に多種多様な経済的諸形態と両立しうるものなのである。〉(江夏・上杉訳157頁)


●第9パラグラフ

《61-63草稿》

 〈他方、貨幣流通のほうは、したがってまたそのさまざまの基素的(エレメンターリッシュ)な機能および形態における貨幣の発展は、商品流通そのもの、しかも未発達の商品流通以外にはなにも前提しない。もちろんこれもまた一つの歴史的前提ではあるが、しかしそれは商品の本性に従って、社会的生産過程のきわめてさまざまの段階でみたされうるものである。個々の貨幣形態、たとえば蓄蔵貨幣としての貨幣の発展や支払手段としての貨幣の発展を、立ちいって考察すれば、それは社会的生産過程のきわめてさまざまな歴史的段階を示唆するであろう。すなわち、これらさまざまの貨幣機能の単なる形態から生まれる歴史的区別を示唆するであろう。しかしながら、右の考察によって、蓄蔵貨幣としての、あるいは支払手段としての形態での貨幣の単なる定在は、商品流通がいくらかでも発展しているあらゆる段階に同様に属するものであること、したがってまたそれはある一定の生産時代に制限されないものであること、それは生産過程の前ブルジョア的段階にもブルジョア的生産にも同様に固有のものであることが明らかになるであろう。しかし資本ははじめから、ある一定の歴史的過程の結果でしかありえないような、また社会的生産様式のある一定の時代の基礎でしかありえないような関係として出現するのである。〉(草稿集④54-55頁)

《初版》

 〈他方、われわれが貨幣を考察するならば、貨幣は、商品流通のある程度の高さを前提にしている。特殊な貨幣形態、すなわち単なる商品等価物または流通手段または支払手段なり蓄蔵貨幣なり世界貨幣なりは、そのいずれかの機能の範囲のちがいや相対的優越性に応じて、社会的生産過程のいともさまざまな段階をさし示している。それにもかかわらず、これらすべての形態が形成されるためには、経験によると、商品流通の比較的わずかな発展で充分である。資本についてはそうではない。資本の歴史的存在条件は、商品流通や貨幣流通があればそこにあるというものではない。資本が生ずるのは、生産手段および生活手段の所持者が、自分の労働力の売り手としての自由な労働者を、市場で見いだすばあいにかぎられており、そして、こういった一つの歴史的な条件が、一つの世界史を包括しているのである。だから、資本は初めから、社会的生産過程の一時代を告げ知らせている。〉(江夏訳174頁)

《フランス語版》

 〈他方、貨幣が舞台に登場しうるためには、生産物の交換が商品流通の形態をすでに保有していなければならない。単なる等価物、流通手段、支払手段、蓄蔵貨幣、準備金などとしての貨幣の多様な機能は、それらの一方が他方にたいし相対的に優越することによって、社会的生産のきわめて多様な段階を示している。ところが、経験がわれわれに教えるところによれば、これらすべての形態を孵化するためには、商業流通の比較的わずかな発達で充分である。資本についてはそうでない。資本の歴史的存在条件は、商品および貨幣の流通と同時には生じない。資本は、生産手段や生活手段の保有者が市場で、自分の労働力をそこに売りに来る自由な労働者に出会うところで、はじめて生まれるのであって、この唯一無二の歴史的条件が、新しい世界全体を包括する。資本は最初から、社会的生産の一時代を告げ知らせている(4)。〉(江夏・上杉訳157-158頁)


●原注41

《初版》 初版にはこの原注はない。

《フランス語版》

 〈(4) 資本主義時代を特徴づけるものは、労働力が労働者自身にとっては彼に所属する商品という形態を獲得し、したがって、彼の労働が賃労働という形態を獲得する、ということである。他方、この瞬間からはじめて、生産物の商品形態が支配的な社会的形態になる。〉(江夏・上杉訳158頁)


●第10パラグラフ

《初版》

 〈そこで、労働力というこの独自な商品を、もっと詳しく考察しなければならない。他のすべての商品と同じに、この独自な商品も交換価値をもっている(42)。この価値はどのように規定されるであろうか?〉(江夏訳174頁)

《フランス語版》

 〈さて、労働力をもっと詳細に考察しなければならない。この商品は、他のすべての商品と同じように、価値をもっている(5)。その価値はどのようにして規定されるか? その生産に必要な労働時間によって。〉(江夏・上杉訳158頁)


●原注42

《賃金・価格・利潤》

  〈イギリスの最も古い経済学者で、かつ最も独創的な哲学者のひとりであるトマス・ホッブズは、すでにその著『リヴァイアサン』で、彼の後継者たちがみな見おとしたこの点に本能的に気づいていた。彼は言う。
  「人の価値つまり値うちとは、ほかのすべてのものにあってと同じように、彼の価格、すなわち彼の力の使用にたいしてあたえられるであろう額である*。」
  * 『リヴァイアサン』。ホッブズ『著作集』、ロンドン、1839年、第3巻、76ぺージ(岩波文庫版、水田洋訳、(1)、147-148ぺージ)。〉(全集第16巻129頁)

《初版》

 〈(42) 一人の人間の価値あるいは値うちは、他のすべての物のそれと同じに、この一人の人間の価格である。すなわち、この一人の人間の力の使用にたいして支払われるであろうだけのものである。」(Th.ホッブス『レヴィアサン』、所収、『著作集』、モールズワース編、ロンドン、1839-44年、第3巻、76ページ。)〉(江夏訳175頁)

《フランス語版》

 〈(5) 「1人の人間の価値は、他のすべての物の価値と同じように、彼の価格である。すなわち、彼の能力の使用にたいして支払われなければならないだけのものである」(T・ホップス『リヴァイアサン』、所収、モールズワース編のホッブスの『著作集』、ロンドン、1839-44年、第3巻、76ページ)。〉(江夏・上杉訳頁)


●第11パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈では労働者の価値は、どのようにして決められるのだろうか? 彼の商品のなかに含まれている対象化された労働によってである。この商品は彼の生命力〔Lebendigkeit〕のうちに存在している。この生命力を今日から明日まで維持するためには--労働者階級については、つまり彼らが階級として自己を維持していけるための消耗の〔wear and tear〕補充については、われわれはまだ問題にしない、というのは、ここでは労働者は労働者として、したがって前提された多年生的主体〔perennirendes Subjekt〕として資本に対立しているのであって、まだ労働者種属〔Arbeiterart〕のうちのはかない個体として資本に対立しているのではないからである--、彼は一定量の生活手段を消費し、使いはたされた血液の補充などをしなければならない。彼は等価物を受けとるだけである。したがって明日には、つまり交換が行なわれたのちにも--そして彼が交換を形式的には終えたとしても、その交換を完遂するのは生産過程になってからである--、彼の労働能力〔Arbeitsfähigkeit〕は、以前と同じ様式で存在している。すなわち、彼が受けとった価格は、彼が以前にもっていたものと同一の交換価値を彼に所持させることになるのだから、彼は正確な等価物を受けとったのである。彼の生命力のなかに含まれている対象化された労働の分量は、資本によってすでに彼に支払われている。彼はそれを消費してしまったが、それは、物として存在していたのではなく、生命をもつもののなかに能力として存在していたのであるから、その商品の特有の本性--生命過程の特有の本性--からして、彼はふたたび交換を行なうことができる。彼の生命力に対象化された労働時間--すなわち、彼の生命力を維持するうえで必要な生産物の代金を支払うのに必要だった労働時間--のほかに、さらにそれ以上の労働が彼の直接的定在のうちに対象化されているということについては、すなわち、ある特定の労働能力、ある特殊的な熟練〔Geschicklichkeit〕を生みだすために彼が消費した諸価値--それらの価値は、どれだけの生産費用で類似の特定の労働技能を生産することができるかという点に示される--については、ここではまだ関係がない。つまりここでは、一つの特殊的資格をもった労働〔besonders qualificirte Arbeit〕を問題にしているのではなく、労働そのもの〔Arbeit schlechthin〕、つまり単純労働〔einfache Arbeit〕を問題にしているのである。〉(草稿集①395-396頁)

《61-63草稿》

 〈労働能力は、労働者の生きた身体に含まれている能力〔Fähigkeit〕、素質〔Anlage〕、力能〔Potenz〕としてのみ存在するのだから、労働能力の維持とは、労働者そのものを彼の労働能力の発揮に必要な程度の活力、健康、要するに生活能力をもった状態に維持することにすぎない。〉(草稿集④78頁)
  〈さらに、労働能力としてその消費のまえから存在しているこの使用価値は交換価値をもっているが、それは他のあらゆる商品のそれと同じく、そのなかに含まれている、したがってまたその再生産に必要な労働の分量に等しく、またすでに見たように、労働者の維持に必要な生活手段を創造するのに必要である労働時間によって、正確に測られている。たとえば重量が金属のための尺度であるように、生活そのもののための尺度は時間であるから、労働者を1日生かしておくのに平均的に必要な労働時間が、彼の労働能力の日々の価値なのであり、これによって労働能力は日ごとに再生産され、あるいは--ここでは同じことであるが--同一の諸条件のもとで引き続き維持される。ここで諸条件というのは、すでに述べたように、単なる自然的諸欲望によってではなくて、ある一定の文化状態において歴史的に変更が加え〔modifizieren〕られているような自然的諸欲望によって限定されているものである。〉(草稿集④79頁)
  〈総関係のこのような再生産--すなわち、全体として見れば賃労働者が過程から出てくるときの状態が、過程にはいるときの状態と同じでしかない、ということ--ともども、この事情が労働者たちにとってもつ重要性も、次のことにかかっている、すなわち、もともと彼らはどのような諸条件のもとで彼らの労働能力を再生産するのか、また、平均労賃はどのようなものであるのか、言い換えれば彼らが労働者として生きていくのに伝統的、一般的に必要とされる生活の範囲はどのようなものであるのか、ということである。これは、資本主義的生産の経過のなかで多かれ少なかれ破壊されるが、それには長い時間がかかる。労働者の維持に必要な生活手段はどのようなものか、すなわち、どのような生活手段が、どれだけの範囲で必要なものと一般に認められるのか。(この点についてはソーントンを見よ。)しかしこのことは、賃銀はただ生活手段だけに帰着するのだということ、労働者は依然として労働能力として出てくるにすぎないということを、はっきりと示している。区別があってもそれは、彼の欲望の限度と見なされるものの程度の差にすぎない。彼が労働するのは、つねに、消費のためでしかない。区別があってもそれは、彼の消費費用=生産費用の相対的な大小でしかない。〉(草稿集④181頁)

《賃金・価格・利潤》

  〈では、労働力の価値とはなにか?
  ほかのあらゆる商品の価値と同じく、労働力の価値も、それを生産するのに必要な労働量によって決定される。人間の労働力は、彼の生きている個体のなかだけに存在する。人間が成長し生命をつなぐためには、一定量の生活必需品を消費しなければならない。だが、人間もやはり機械と同じく消耗するから、ほかの人間がいれかわらなければならない。彼には、自分自身の維持に必要な生活必需品の量のほかに、さらに一定数の子供--労働市場で彼にいれかわり、労働者種族が永続するようにする子供--を育てあげるための生活必需品の一定量も必要である。なおそのうえに、自分の労働力を発展させ、一定の技能を習得するために、さらにある分量の価値が費やされなければならない。われわれの目的からすれば、平均労働だけを考察すれば十分なのであって、平均労働の教育と発達に要する費用は微微たるものである。〉(全集第16巻130頁)

《初版》

 〈労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な物品の生産したがってまた再生産にも必要な労働時間によって、規定されている。労働力が交換価値であるかぎり、労働力そのものは、それに対象化された社会的平均労働の一定量しか表わしていない。労働力は生きた個人の素質としてのみ存在している。だから、労働力の生産はこの個人の存在を前提にしている。この個人の存在が与えられていれば、労働力の生産とは、この個人の再生産または維持のことである。この生きた個人は、自分を維持するために、幾らかの量の生活手段を必要とする。だから、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。すなわち、労働力の価値は、労働力の所持者を維持するのに必要な生活手段の価値である。だが、労働力は、自己を発揮することによってのみ実現され、労働においてのみ活動する。ところが、労働力の活動である労働によって、人間の筋肉や神経や脳等々の一定分量が支出されるのであって、これは再び補塡されなければならない。この支出の増加は、収入の増加を条件にしている(43)。労働力の所有者は、今日労働が終わったならば、明日も、同じ条件の力や健康を保って同じ過程を繰り返すことができなければならない。生活手段の総額は、労働する個人を、労働する個人として、彼の正常な生活状態において維持するのに、充分でなければならない。食物や衣服や暖房や住居等々のような自然的な必要そのものは、一国の気候その他の自然的な特色に応じてまちまちである。他方、いわゆる必要生活手段の範囲は、それの充足の方法と同じに、それ自身歴史的産物であり、したがって大部分は一国の文化段階に依存し、ことにまた、本質的には、自由な労働者の階級が、どのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求をもって、形成されたか、に依存している(44)。だから、労働力の価値規定は、他の諾商品とは対照的に、歴史的および精神的な要素を含んでいる。とはいえ、特定の国にとっては、特定の時代には、必要生活手段の平均的な範囲は与えられている。〉(江夏訳175-176頁)

《フランス語版》  フランス語版ではこのパラグラフは三つのパラグラフに分けられ、間に原注(6)が挿入されている。一応、ここでは原注を除いて三つのパラグラフを紹介しておく。

 〈労働力は価値としては、労働力のうちに実現されている社会的労働量を表わす。だが、労働力は実際には、生きた個人の力あるいは力能としてのみ存在する。個人が与えられるとすると、この個人は、自分自身を再生産しまたは保存することによって、自分の生命力を生産する。彼は、自己維持のため、あるいは自己保存のために、ある量の生活手段を必要とする。したがって、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。あるいは、労働力は、それを活動させている者に必要な生活手段の価値を、ちょうどもっているのである。
  労働力はその外的発現によって実現される。労働力は労働によって発現し確認され、この労働のほうは人間の筋肉、神経、脳髄の若干の支出を必要とし、この支出は補塡されなければならない。損耗が大きければ大きいほど、修理の費用はますます大きくなる(6)。労働力の所有者は、今日労働したら、明日も同じ活力と健康の状態で再び始めることができなければならない。したがって、生活手段の総量は、彼をその正常な生活状態に維持しておくのに充分なものでなければならない。
  食糧、衣服、暖房、住居などのような自然的必要は、一国の気候やその他の自然的な特殊性に応じて異なる。他方、いわゆる自然的必要の数そのものは、それをみたす様式と同じに、歴史的産物であり、したがって、大部分は到達した文明度に依存している。それぞれの国の賃金労働者階級の起源、この階級が形成されてきた歴史的環境は、久しい間、この階級が生活にもちこむところの、習慣や要求にもまた当然の結果として必要にも、最大の影響を及ぼしつづけている(7)。したがって、労働力は価値の観点からみれば、精神的、歴史的な要素を内包しており、このことが労働力を他の商品から区別しているのである。だが、与えられた国、与えられた時代については、生活手段の必要な範囲もまた与えられている。〉(江夏・上杉訳158-159頁)


●原注43

《初版》

 〈(43) だから、古代ローマのヴィリクスは、農耕奴隷の先頭に立つ管理者として、「奴隷よりも仕事が楽だという理由で、奴隷よりもわずかな量を受け取っていた。」(T・モムゼン『ローマ史』、1856年、810ページ。)〉(江夏訳176頁)

《フランス語版》

 〈(6) 古代ローマでは、農耕奴隷の先頭に立っている会計係のヴィリクスは農耕奴隷よりも少ない一人分の食糧割り当てを受け取った。というのは、彼の労働は農耕奴隷よりも辛くなかったからである(T・モムゼン『ローマ史』、1856年、810ぺージ、を見よ)。〉(江夏・上杉訳159頁)


●原注44

《61-63草稿》

 〈(1)〔注解〕ウィリアム・トマス・ソーントン『過剰人口とその対策、またはイギリスの労働者階級のあいだに広がっている窮乏の程度および原因ならびにその対策の研究』、ロンドン、1846年、第2章、19ページ以下。この書物からの浩潮な抜粋が、ノート第13冊、ロンドン、1851年、の14-21ページにある。〉(草稿集④181頁)

《初版》

 〈(44) W・Th・ソーントンは、彼の著書『過剰人口とその救済、ロンドン、1846年』のなかで、このことについて興味のある例証を提供している。〉(江夏訳176頁)

《フランス語版》

 〈(7) W・T・ソーントンは、彼の著書『過剰人口とその救済』、ロンドン、1864年、のなかで、この点について興味ある細かい説明を提供している。〉(江夏・上杉訳150頁)


●第12パラグラフ

《初版》

 〈労働力の所有者は死を免れない。だから、貨幣の資本への連続的な転化が前提しているとおりに、彼が市場に現われていることが、連続的でなければならないとすれば、労働力の売り手は、「どの生きている個体も生殖によって永久化されているように(45)」永久化されていなければならない。消耗と死のために市場から引き上げられる労働力は、少なくとも、同数の新たな労働力で絶えず補充されなければならない。だから、労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充員すなわち労働者の子供の生活手段を含んでおり、こうして、独自な商品所持者の属するこの種族が、商品市場で永久化されているのである(46)。〉(江夏訳176頁)

《フランス語版》

 〈労働力の所有者は死をまぬがれない。貨幣の資本への不断の転化が要求するとおりに、いつでも市場で労働力の所有者に出会うためには、「どの生きた個人も生殖によって永遠化されるのと同じように(8)」、労働力の所有者も永遠化されなければならない。損耗と死によって市場から奪い取られる労働力は、少なくとも同等の数によって、不断に更新されなければならない。労働力の生産に必要な生活手段の総量には、この特異な交換者の種族が市場で永久に存続するように、労働者の交代者すなわちその子供の生活手段が含まれている(9)。〉(江夏・上杉訳150-151頁)


●原注45

《初版》

 〈(45) ぺティ。〉(江夏訳176頁)

《フランス語版》

 〈(8) ペティ。〉(江夏・上杉訳160頁)


●原注46

《初版》

 〈(46) 「それの(労働の)自然価格とは、……労働者を維持するために、また、市場において労働の供給が減少しないようにしておけるだけの家族を、彼が養うことができるために、一国の気候や習慣に応じて必要になるところの、生活必需品と慰安品との量のことである。」(R・トレンズ『穀物貿易論、ロンドン、1815年』、62ページ。)ここでは、労働という言葉が労働力の代わりに誤用されている。〉(江夏訳176頁)

《フランス語版》

 〈(9) 「労働の自然価格は、一国の気候の性質と習慣が要求したような生活に必要な物の量であって、この量は、労働者を維持することができ、しかも、彼が、市場で要求される労働者の数が減少しないように充分なだけの家族を養うことができる、というような量である」(R・トレンズ『穀物貿易論』、ロンドン、1815年、62ページ)。ここでは、労働という言葉が労働力のかわりに誤用されている。〉(江夏・上杉訳160頁)


●第13パラグラフ

《61-63草稿》

 〈身体を維持することに労働が限定されず、直接に労働能力そのものを変化させて〔modifizieren〕、一定の熱練を発揮できるところまで発達させる特殊的労働が必要であるかぎりでは、この労働もまた--複雑労働の場合と同様に--労働の価値のなかにはいるのであって、この場合には、労働能力の生産に支出された労働が、直接に労働者のなかに同化〔verarbeiten〕されているのである。〉(草稿集④73頁)

《初版》

 〈一般的な人間本性を変え、このために、この本性が、特定の労働部門での熟練と巧妙とをかちとって発達した独自な労働力になるためには、特定の養成あるいは教育が必要であり、この養成あるいは教育にはまた、大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。労働力がどの程度に媒介された性質のものであるかに応じて、労働力の養成費もまちまちである。だから、この修業費は、普通の労働力にとってはほんのわずかであっても、労働力の生産に必要な商品の範囲のなかにはいってくる。〉(江夏訳176-177頁)

《フランス語版》

 〈他方、特定の労働種類における能力、精密さ、敏捷さを獲得させるように人間の性質を変えるためには、すなわち、その性質を、特殊な方向に発達した労働力にするためには、若干の教育が必要であって、この教育自体に、大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。この額は、労働力の性格がより複雑か複雑でないかに応じて、変動する。この教育費は、単純な労働力にとってはきわめてわずかであるとはいえ、労働力の生産に必要な商品の総計のなかに入るのである。〉(江夏・上杉訳160頁)


●第14パラグラフ

《61-63草稿》

 〈労働能力の価値の規定は、労働能力の販売に基礎をおく資本関係の理解にとって、もちろんきわめて重要なものであった。したがって、とりわけ、この商品の価値はどのように規定されるのかが、確定されなければならなかった。というのは、この関係における本質的なものは、労働能力が商品として売りに出されるということであるが、商品としては、労働能力の交換価値の規定こそ決定的だからである。労働能力の交換価値は、それの維持と再生産とに必要な生活手段である諸使用価値の価値または価格によって規定されるのだから、重農学派は--彼らが価値一般の本性をとらえる点ではどんなに不十分だったにしても--労働能力の価値をだいたいにおいて正しくとらえることができた。それゆえ、資本一般について最初の条理ある諸概念をうちたてた彼らの場合、生活必需品の平均によって規定されるこの労賃が、一つの主要な役割を演じている。〉(草稿集④71頁)

《賃金・価格・利潤》

  〈以上述べたところから明らかなように、労働力の価値は、労働力を生産し、発達させ、維持し、永続させるのに必要な生活必需品の価値によって決定される。〉(全集第16巻131頁)

《初版》

 〈労働力の価値は、一定額の生活手段の価値に帰着する。だからまた、労働力の価値は、この生活手段の価値に応じて、すなわち、この生活手段の生産に必要な労働時間の長さに応じて、変動する。〉(江夏訳177頁)

《フランス語版》

 〈労働力は一定額の生活手段と価値が等しいから、その価値は生活手段の価値につれて、すなわち、生活手段の生産に必要な労働時間に比例して、変動する。〉(江夏・上杉訳160頁)


  (続く)

 

 

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