『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(9)

2022-02-13 13:04:23 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(9)


【付属資料】の続き

●原注49

《初版》

 〈(49) 「どの労働も、それが終わったあとで支払いを受ける。」〈『……需要の性質にかんする諸原理の研究』、104ページ。)「生産の第一の創造者である労働者が、節約によって、自分の労働の報酬を1週間、2週間、1か月、3か月などの終わりまで待ち受けることができた瞬間に、商業信用が始まったにちがいない。」(Ch・ガニル『経済学大系』、第2版、パリ、1821年、第1巻、150ページ。)〉(江夏訳179-180頁)

《フランス語版》

 〈(13) 「どの労働も、それが終わったときに支払われる」(『需要の性質……にかんする諸原理の研究』、104ページ)。「生産の第一の創造者である労働者が、節約によって自分の労働の報酬を1週間、2週間、1ヵ月、3ヵ月などの終りまで待つことができた瞬間に、商業信用が始まったにちがいない」(C・ガニル『経済学体系』、第2版、パリ、1812年、第2巻、150ページ)。〉(江夏・上杉訳163頁)


●原注50

《初版》

 〈(5O) 「労働者は自分の勤労を貸す」、だが、シュトルヒは狡猾にこうつけ加えている。彼は、「自分の賃金を失うほかには、「なんら危険をおかさない、……労働者はなんらの物質も譲渡しない。」(シュトルヒ『経済学講義』、ペテルブルグ、1815年、第2巻、37ページ。)〉(江夏訳180頁)

《フランス語版》

 〈(14) 「労働者は自分の勤労を貸す」、だがしかし、とシュトルヒは悪賢く付け加えて言う。「自分の賃金を失うほかには、なんら危険をおかさない、……労働者はなんらの物質も譲渡しない」(シュトルヒ『経済学講義』、ペテルブルグ、1815年、第2巻、36、37ページ)。〉(江夏・上杉訳163頁)


●原注51

《初版》

 〈(51) 一つの実例。ロンドンには二種類のパン屋がある。パンをその価値どおりに売る「定価売り業者」と、この価値よりも安く売る安売り業者とである。あとのほうの部類がパン屋の総数の3/4以上を占めている。(『製パン職人が訴える苦情』にかんするH・S・トレーメンヒア政府委員の『報告書』、ロンドン、1862年、別付32ページ。)この安売り業者は、ほとんど例外なしに、明礬やせっけんや粗製炭酸カリや石灰やダービシァー石粉やその他類似のうまくて滋養分のある衛生的な成分を混入した粗悪なパンを、売っている。(右に引用した青書、ならびに、『パンの粗悪製造にかんする1855年委員会』の報告書およびドクター・ハッスルの報告書『露見された粗悪製造』、第2版、ロンドン、1862年、を見よ。)サー・ジョン、ゴードンは、1855年の委員会でこう説明した。「この粗悪製造の結果、毎日2ポンドのパンで暮らしている貧民が、いまでは、彼の健康への有害な影響は別としても、栄養素の4分の1をもじっさいは受け取っていない。」「労働者階級の非常に大きな部分が、粗悪製造のことは熟知しているにもかかわらず、なぜ明礬や石粉等々まで買い込むのか」ということの理由として、トレーメンヒアは、彼らにとっては、「パン屋か雑貨屋が勝手によこすままのパンを受け取ることは、万やむをえないことなのだ」、と述べている。(同上、別付48ページ。)彼らは労働週の終わりにやっと支払いを受けるのであるから、彼らもまた、「自分たちの家族がその週のあいだに消費したパンの代価を、やっとその週の末に支払う」ことができるわけである。そして、トレーメンヒアは、証言を引用しながらこうつけ加えている。「このような混ぜ物をしたパンが、この種の客用に特別に作られていることは、周知のとおりである。」(〔"It is notorious that bread composed of those mixtures,is made expressly for sale in this manner."〕)イングランドの多くの農業地方では(だが、スコットランドの農業地方ではなおさらのこと)、労賃が2週間ごとに、また1か月ごとにさえ、支払われている。この長い支払間隔のために、農業労働者は自分の商品を掛けで買わざるをえない。……彼は、いっそう高い価格を支払わざるをえないし、掛け買いする底に事実上しばられている。こうして、たとえば賃金の支払いが1か月ごとに行なわれているウィルトシャーのホーニングシャムでは、彼は、よそでは1ストーンあたり1シリング10ペンスの小麦粉に、2シリング4ペンスも支払っている。」(『公衆衛生』にかんする『枢密院医務官』の『第6回報告書、1864年』、264ページ。)「ぺイズリーとキルマーノック(西スコットランド)の捺染工は、1853年に、ストライキに訴えて、支払期限を1か月から2週間に短縮することに成功した。」(『1853年1O月31日の工場監督官報告書』、34ページ。)イギリスの多くの炭鉱所有者たちの方法は、労働者が資本家に与える信用のなおいっそうみごとな発展と見なされうるのであって、この方法によると、労働者は、月末にやっと支払いを受け、その間資本家から前貸しを受けているのであるが、この前貸しはしばしば商品で行なわれ、この商品には、その市場価格よりも高く支払わなければならないのである(現物支給制度)。「炭鉱主たちのあいだでは、支払いが月に一度であって、労働者にはその中間の各週末に現金を前貸しする、というのが通常の習慣である。この現金は店(すなわち、トミー・ショップ、つまり炭鉱主自身のものである小売店)で支給される。労働者はこの現金を一方で受け取り、他方で費やすわけである。」(『児童労働調査委員会、第3回報告書、ロンドン、1864年』、38ページ、第192号。)〉(江夏訳180-181頁)

《フランス語版》

 〈(15) 無数の例のなかの一例。ロンドンには二種類のパン屋があって、それは、パンを価値どおりに売る定価売り業者と、この価値以下で売る安売り業者とである。後者の部類が、パン屋の総数の4分の3以上を占めている(『製パン職人が訴える苦情』にかんするH・S・トリメンヒーア政府委員の『報告書』、ロンドン、1862年、別添32ページ)。これら安売り業者はほとんど例外なく、明礬、石鹸、石灰、石膏、その他同程度に健康的で同程度に栄養のある類似の成分を混ぜた、粗悪なバンを売っている(上記引用の青書、『パンの粗悪製造にかんする1855年委員会』の報告、ドクター・ハッスルの報告『露見された粗悪製造』、第2版、ロンドン、1862年、を見よ)。サー・ジョン・ゴードンは、1855年の委員会の席上でこう述べた。「この粗悪製造の結果、毎日2ポンドのパンで暮している貧民は、このような食物が彼の健康に有害な影響を及ぼすことは別にしても、いまでは彼に必要な栄養素の4分の1もとっていない」。労働者階級の大部分が、この粗悪製造のことを完全に知っていながら、それでもなおなぜこの粗悪製造を我慢しているか、を説明するために、トリメンヒーアはこの理由をこう示している(同上、別添48ページ)。「パン屋か小売店で、売ろうとしているパンをそのまま買うことは、彼にとってはやむをえないことである」。労働者たちは週末になってはじめて支払いを受けるのであるから、「彼ら自身は、この期間中に自分たちの家族が消費したバンを、その週末にやっと支払うことができるのである」。そしてトリメンヒーアは、実地証人の確言にもとついて、こう付言している。「この種の混合物で調理されたパンが、この種の顧客のためにわざわざ作られていることは、周知のことである〈"It is notorious that bread composed of those mixtures,is made expressly for sale in this manner."〉」。「イングランドの多くの農業地方では(スコットランドではなおさらである)、賃金は2週ごとに、また1ヵ月ごとにさえ支払われている。労働者は、賃金の支払いまでは、自分の商品を掛けで買わざるをえない。彼にはなにもかも非常に高い価格で売られるのであって、彼は実際に、彼を搾取してすっからかんにさせる小売店に縛りつけられている。こうして、たとえば、賃金が1ヵ月ごとにしか支払われないウィルトシャのホーニングシャムでは、よそのどこでも1シリング10ペンスである同量(8ポンド) の小麦粉が、彼には2シリング4ペンスの値段である」(『枢密院医官による公衆衛生にかんする第6回報告書』、1864年、264ページ)。「1853年には、ぺーズリとキルマーノック(西スコットランド)の捺染工たちは、ストライキに訴え、自分たちの雇主にむりやり、1ヵ月ごとでなく2週間ごとに支払わせたのである」(『1853年10月31日の工場監督官報告書』、34ぺージ)。労働者が資本家に与える信用の結果としてこの労働者がこうむる搾取の事例として、さらになお、イギリスで多数の炭鉱経営者が用いている方法をあげることができる。彼らは労働者にたいして月に1度しか支払わないので、彼らはこの前貸しの期間中は、とりわけ、労働者が時価よりも高く買わざるをえないような商品で、労働者に支払いをする(現物支給制)。「炭鉱主が彼らの労働者に月に1度支払い、その間の各週末に金銭を前貸しするのは、彼らのあいだの日常の慣行である。この金銭はトミー・ショップで、すなわち雇主に所属する小売店で与えられるから、労働者は一方の手で受け取るものを、他方の手で返済するわけである」(『児童労働調査委員会、第3回報告書』、ロンドン、1864年、38ページ、第192号)。〉(江夏・上杉訳163-164頁)


●第19パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

 〈商品の実在的定在、使用価値としての商品の定在は、単純流通の外部にある。この契機〔商品の使用価値およびそれの実現としての消費という契機〕はそのようなもの〔単純流通の外部にあるもの〕として資本の過程のなかに入ってゆかねばならない。この資本の過程のなかで、商品の消費は資本が自己増殖するための一契機として現われる。〉(草稿集③184頁)

《61-63草稿》

 〈さてわれわれは、自分の貨幣を資本に転化しようとしている・したがってまた労働能力を買う・貨幣所有者が労働者に支払うものはなにか、ということは実際に知っている。そして貨幣所有者が労働者に支払うものは、じつは、労働者の労働能力の、たとえば日々の価値であり、労働能力の日々の価値と一致する価格あるいは日賃銀であって、彼はこの支払いを、労働能力の日々の維持に必要な生活手段の価値に等しい貨幣額を労働者に支払うことによって行なうのである。この貨幣額は、これらの生活手段の生産のために、したがって労働能力の日々の再生産のために必要である労働時間と、ちょうど同じだけの労働時間を表示しているものである。われわれはまだ、買い手のほうがなにを入手するのか、ということは知らない。販売のあとに行なわれる諸操作が独自な本性のものであり、したがってまた特別に考察されねばならないということは、労働能力というこの商品の独自な本性、ならびに、買い手によってそれが買われるさいの独自な目的--すなわち、自分が、自己自身を増殖する価値の代表者であることを実証しようという、買い手の目的--と関連している。さらに--しかもこのことは本質的なことであるが--、この商品の特殊的な使用価値とこの使用価値の使用価値としての実現とが、経済的関係、経済的形態規定性そのものに関係しており、したがってまたわれわれの考察の範囲にはいる、ということがつけ加わる。ここでは付随的に、使用価値ははじめは、どれでもよいなにか一つの任意の素材的前提として現われるのだ、ということに注意を喚起しておいてもよい。〉(草稿集④81-82頁) 
  〈貨幣所有者は、労働能力を買った--自分の貨幣を労働能力と交換した(支払いはあとでやっと行なわれるとしても、購買は相互の合意をもって完了している)--のちに、こんどはそれを使用価値として使用し、それを消費する。だが、労働能力の実現、それの現実の使用は、生きた労働そのものである。つまり、労働者が売るこの独自な商品の消費過程労働過程と重なり合う、あるいはむしろ、それは労働過程そのものである。労働は労働者の活動そのもの、彼自身の労働能力の実現であるから、そこで彼は労働する人格として、労働者としてこの過程にはいるのであるが、しかし買い手にとっては、この過程のなかにある労働者は、自己を実証しつつある労働能力という定在以外の定在をもたない。したがって彼は、労働している一つの人格ではなくて、労働者として人格化された、活動している〔aktiv〕労働能力である。イングランドで労働者たちが、それによって彼らの労働能力が実証されるところの主要な器官によつて、つまり彼ら自身の手によつて、handsと呼ばれていることは、特徴的である。〉(草稿集④83頁)

《初版》

 〈さて、われわれは、労働力というこの独自な商品の所持者に貨幣所持者から支払われる交換価値がどう規定されるか、その仕方を知っている。この交換価値と引き換えに貨幣所持者のほうが受け取る使用価値は、労働力の現実の使用のなかで、労働力の消費過程において、初めて現われる。貨幣所持者は、原料等々のようなこの過程に必要なすべての物を商品市場で買い、それらには価格どおりに支払う。労働力の消費過程は、同時に、商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程でもある。労働力の消費は、他のすべての商品の消費と同じに、市場すなわち流通部面の外部で行なわれる。だから、われわれも、このそうぞうしい、表面で大騒ぎをしていて誰の目にもつきやすい部面を、貨幣所持者や労働力所持者と一緒に立ち去り、この二人のあとについて、その戸口に無用の者立ち入るべからずと書いである秘密の生産の場所に、はいってゆこう。ここでは、どのようにして資本が生産するかということだけでなく、どのようにして資本そのものが生産されるかということも、明らかになるだろう。貨殖の秘密がついに露見するにちがいない。〉(江夏訳181頁)

《フランス語版》

 〈労働力というこの独創的な商品の所有者に支払われる価値が、どのような様式と方法できめられるかは、いまではわかっている。労働力の所有者が交換において買い手に与える使用価値は、彼の労働力の使用そのものにおいて、すなわちその消費において、はじめて現われる。原料などこの行為の履行に必要な物はすべて、生産物市場で貨幣所有者によって買われ、その正当な価格で支払われる。労働力の消費は同時に商品と剰余価値との生産である。労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じように、市場すなわち流通部面の外部で行なわれる。われわれは貨幣所有者や労働力の所有者と一緒に、すべてが表面で、しかも誰の目にも見えるところで起こるような、この騒々しい部面を立ち去り、入ロに無用の者入るべからずと書いてある生産の秘密の実験室の中まで、この二人の後について行こう。われわれはそこでは、どのようにして資本が生産するかということばかりでなく、さらになお、どのようにして資本自体が生産されるかをも、見ることになる。剰余価値の製造という、近代社会のこの重大な秘密が、ついに暴露されることになる。〉(江夏・上杉訳164-165頁)


●第20パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈すでに見てきたように、単純流通そのもの(運動しつつある交換価値)においては、諸個人の相互的行動は、その内容からすれば、ただ彼らの諸必要を相互に利己的に満足させることにすぎず、その形態からすれば、交換すること、等しいもの(諸等価物)として措定することであるとすれば、ここでは所有〔Eigenthum〕もまたせいぜい、労働による労働の生産物の領有〔Appropriation〕として措定されているにすぎず、また自己の労働の生産物が他人の労働によって買われるかぎりで、自己の労働による他人の労働の生産物の領有として措定されているにすぎない。他人の労働の所有は自己の労働の等価物によって媒介されている。所有のこの形態は--自由と平等とまったく同様に--、この単純な関係のうちに措定されている。交換価値がさらに発展してゆけば、このことは転化され、そして最終的には、自己の労働の生産物の私的所有〔Privateigenthum〕は、労働と所有との分離と同一であること、その結果、労働は他人の所有をつくりだすことに等しく、所有は他人の労働を支配する〔commandiren〕ことに等しくなることが、わかるであろう。〉(草稿集①271頁)
  〈そのうえこういえる。諸個人とこれら個人の諸商品のこの自然的差異性……が、これらの個人の相互補完のための動機を、すなわちそこで彼らが平等者としてたがいに前提されまた実証しあうような、交換者としての社会的関連をとりむすぶ動機をなすかぎり、平等の規定にさらに自由の規定がつけくわわる。個人Aが個人Bの商品にたいして欲求を感じることがあっても、彼はそれを力ずくで〔mit Gewalt〕自分のものにするのではない。AとBを逆にしたばあいも同様である。むしろ彼らは所有者として、すなわちその意志が自分たちの商品にしみこんでいる人格として、相互に承認しあうのである。したがってさしあたりここに、人格という法的契機〔juristisches Moment〕またそこに含まれるかぎりでの自由〔Freeheit〕という法的契機がはいってくる。だれも他人の所有物を力ずくで自分のものとはしない。だれでも所有物を自由意志で〔freiwillig〕譲渡する〔entäussert sich〕。しかしそれだけではない。個人Aが商品aによって個人Bの欲求に役立つのは、ただ個人Bが商品bによって個人Aの欲求に役立つかぎりにおいてであり、またそうであるからにほかならず、逆のばあいも同様である。どちらも自分自身に役立つために他人に役立つ。つまりどちらも相互に相手を自分の手段として用いる。〉(草稿集①278-279頁)
  〈したがって、経済的な形態すなわち交換が、あらゆる面からみて諸主体の平等を措定するとすれば、交換をうながす内容、すなわち個人的でもあれば物象的でもある素材は、自由を措定する。したがって平等と自由が、交換価値にもとづく交換で重んじられるだけではなく、諸交換価値の交換が、あらゆる平等自由の生産的で実在的な土台である。これらの平等と自由は、純粋な理念としてはこの交換の観念化された表現にすぎないし、法律的、政治的、社会的な諸関連において展開されたものとしては、この土台が別の位相で現われたものにすぎない。このことは歴史的にもたしかに確証されてきたことである。こうした広がりのなかでとらえられた平等と自由は、古代の自由や平等とはちょうど正反対のものであって、後者は発展した交換価値をその基盤にもたず、むしろ交換価値が発展するために潰え去るのである。この自由と平等は、古代世界においても中世においてもまだ実現されていなかった生産諸関係を前提としている。直接的な強制労働〔Zwangsarbeit〕が古代世界の基礎であって、共同団体〔Gemeinweesen〕は現存の土台であるこの強制労働にもとづいている。中世の基礎とみなされているのは、特権としての労働そのもの、いまだその特殊化された姿のうちにあって、一般的に交換価値を生産するものにはなっていない労働そのものである。労働は強制労働でもなければ、また中世のばあいのように、より高次なものとしての共同的なもの(同職組合)とのかかわりのなかで行なわれてもいない。〉(草稿集①280-281頁)
  〈ところで、交換者〔の関連]も、動機の面からみれば、すなわち経済的過程の外部に属する、自然的な面からみれば、やはりある種の強制にもとづいているということは、確かにそのとおりである。しかし、この関連は、一面からすれば、それ自体、相手が私の欲求そのものにとって、また私の自然的個体性にたいして無関心だということにすぎないし、したがって彼の私との平等と自由--しかしこの自由は彼のばあいと同じ程度に私の自由の前提でもある--にすぎない。他面では、私が自分の欲求によって規定され、強制されるかぎりでは、私に力ずくを行なうのは、もろもろの欲求と衝動の全体である私自身の本性にほかならず、なんら他人のもの〔Fremdes〕ではない(すなわち一般的な、反省された形態で措定された私の利益である)。しかしまた、私が他人に強制をくわえ、彼を交換制度のなかに追いこむものも、やはりこの面にほかならない。
  したがってローマ法〔römisches Recht〕では、奴隷〔servus〕は、自分のために交換をつうじて物を手に入れることのできない者として、正しく規定されている(『法学提要』をみよ)。それゆえ次のことも同様に明らかである。すなわち、このは、交換がまったく発展していなかった社会状態に対応しているにもかかわらず、しかしまた交換が一定の範囲内で発展していたかぎりでは、まさに交換する個人であるところの法的人格〔juristische Person〕の諸規定を展開することができたのであり、こうしてまたこの法は(基本的諸規定からみて)産業的社会のための法の先がけをなし、とりわけ勃興しつつあるブルジョア社会の法として、中世に対抗して効力をもたされるべきものとなったのである。しかしこの法の発展それ自体がまた、ローマ共同団体の解体と完全に一致しているのである。〉(草稿集①282-283頁)
  〈尺度としては、貨幣は等価物に一定の表現をあたえるにすぎず、また貨幣によってはじめて等価物は形態のうえからも等価物とされるのである。なるほど流通においては、いま一つの形態上の区別が現われてくる。すなわち、双方の交換者は、買い手と売り手という区別された規定で現われる。交換価値は、まず一般的交換価値として貨幣の形態で、次に特殊的交換価値として、ある価格をもつ自然的商品で現われる。しかし第一に、これらの規定は入れ替わる。流通そのものは、等しくないものの措定〔Ungleichsetzen〕ではなく、等しいものの措定〔Gleichestzen〕にほかならず、たんなる仮想的な区別の止揚〔Aufheben des mur vermeinten Unterschieds〕にほかならない。不平等はまったく形式的なものにすぎない。最後に、流通する貨幣としての貨幣そのものにおいては、貨幣は一方の手に現われるかと思うとまた他方の手に現われ、またどこに現われるかについては無関心であるから、さらに実態的に〔sachlich--物象的に〕も平等が措定〔される]のである。だれもが相手にたいして貨幣の所持者として現われ、交換の過程が考察されるかぎりでは、みずからが貨幣として現われる。それゆえ、無関心性〔Gleichgültigkeit〕と同値性〔Gleichgeltendheit〕とが物象〔Sache〕の形態で明示的に現存している。商品のうちにあった特殊的自然的差異性は消し去られており、また流通をつうじてたえず消し去られている。3シリングで商品を買う労働者は、売り手にたいしては、商品の同じ買い方をする国王と、同じ機能、同じ平等のなかにあるものとして--つまり3シリングという形態で、現われる。両者のあいだの区別はいっさい消し去られている。売り手もそのものとしては、ただ3シリングの価格の商品の所持者として現われるだけであって、したがって両者は完全に平等であり、ただその3シリングが、あるときは銀となって、あるときは砂糖等となって存在するだけのことである。〉(草稿集①283-284頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈自己労働による領有の法則を前提すると、〔--〕しかもこれは流通そのものの考察から生じる前提であって、恣意的なものではない〔--〕この法則に基づくひとつの王国が、すなわちブルジョア的な自由と平等の王国が、流通において、おのずから演繹されるのである。〉(草稿集③113頁)
  〈このように流通があらゆる側面からみて個人的自由の現実化であるとすれば、流通の過程は、そのものとしてみるならば--というのは、自由という諸関連は交換の経済的形態諸規定に直接に関係するわけではなく、交換の法的形態に関係するか、あるいは交換の内容、つまり諸使用価値そのものまたは諸欲求そのものに関係するかのどちらかだからである〔--〕、すなわち流通の過程を交換の経済的形態諸規定の点からみれば、それは社会的平等〔Gleichheit〕の完全な実現をなしている。流通の諸主体としては、彼らはさしあたり交換を行う者であって、どの主体もこの規定において、したがって同一の規定において定立されているということが、まさに彼らの社会的規定をなしているのである。彼らは実際にはただ、主体化された交換価値〔subjektivirte Tauschwerthe〕として、すなわち生きた等価物として、つまり同等な者〔Gleichgeltend〕として対応しあっているにすぎない。彼らはそのような交換の諸主体としてただ平等であるというだけではない。そもそも彼ら相互のあいだにはなにひとつ差異がないのである。彼らが対応しあうのはもっぱら交換価値の占有者、および交換を必要としている者〔Tauschbedürftige〕としてであり、同一の、一般的で無差別の社会的労働の代理人〔Agent〕としてである。しかも彼らは等しい大きさの交換価値を交換する。というのは、等価物どうしが交換されるということが前提されているからである。各人の与えるものと受け取るものとが同等であるということが、ここでは過程それ自身の明示的な契機である。[彼らが]交換の諸主体としてどのように対応しあうかということは、交換行為において確証される。交換行為とは、そのものとしては、ただこの確証でしかない。彼らは交換を行なう者として、したがって同等なものとして定立され、彼らの商品(客体)は等価物として定立される。彼らが交換するものは等しい価値をもつものとしての彼らの対象的定在にほかならない。彼ら自身は等しい大きさの価値があるわけであるが、彼らが互いに同等で無差別のものとして確証されるのは、交換行為においてである。等価物はある主体が他の主体のために対象化したものである。すなわち等価物そのものは、等しい大きさの価値があるわけであるが、これらが互いに同等で無差別のものとして確証されるのは、交換行為においてなのである。諸主体は交換のなかで、ただ互いに相手に対する等価物を通してのみ同等な者として存在し、一方が他方に対して呈示する対象性の転換を通じて〔のみ〕、互いに同等なものとして確証されるのである。彼らは、ただ互いに相手に対して等価の主体としてのみ存在するのであるからこそ、同等であると同時に互いに無差別でもあるのである。彼らのそれ以外の区別は彼らには関係がない。彼らの個人的な特殊性は過程のなかには入ってこない。彼らの諸商品の使用価値の素材的な差異は、商品の価格としての観念的定在にあっては消えうせており、この素材的差異が交換の動因となっているかぎりでは、彼らは互いに相手の欲求であり(各々の主体が他の主体の欲求を代表する)、ただ等量の労働時間によって充足される欲求にすぎない。この自然的な差異こそ、彼らの社会的平等の根拠であり、彼らを交換の諸主体として定立するものなのである。かりにAの欲求がBの欲求と同一であり、かつAのもっている商品が充足する欲求とBのもっている商品が充足する欲求とが同一であったとすれば、経済的諸関連を問題とするかぎりでは(つまり彼らの生産の面からみれば)、両者のあいだにはまったくどのような関連も存在しないであろう。彼らの労働および彼らの商品の素材的差異を媒介にして彼らの諸欲求を互いに充足しあうことによってこそ、彼らの平等がひとつの社会的関連として成就され、彼らの特殊な労働が社会的労働一般のひとつの特殊な存在様式になるのである。〉(草稿集③126-128頁)
  〈貨幣が入ってきても、貨幣が実際、平等の関連の実在的な表現であるかぎり、貨幣がこの平等の関連を止揚することはけっしてない。まず第一に、貨幣が価格を定立する要素、つまり尺度として機能するかぎりでは、ただ量的な差異しか生じさせないことによって、諸商品を質的に同一のものとして定立し、諸商品の同一の社会的実体を表現することが、まさに貨幣の機能であることが、形態の面からも示されている。次いで流通においてもまた実際に、どの主体のもっている商品も同一のものとして現われる。それは、どの商品も流通手段という同一の社会的形態を受け取るからである。流通手段という形態においては、生産物のあらゆる特殊性が解消されており、どの商品の所有者も手につかめるかたちで主体化された、一般に適用する商品〔die handgreiflich subjektivite allgemeingültige Waaer〕の所有者となる。能幣は臭くない〔non olet〕ということが、ここでは本来の意味で妥当する。ある人の手にしているターレルがこやしの価格を実現したものか絹の価格を実現したものかは、そのターレルからは絶対にわかりようがないし、ターレルがターレルとして機能しているかぎりでは、個別的な差異はすべてそのターレルの占有者の手のなかでは消えうせてしまっている。しかも、こうした個別的差異の消失は全面的なものである。なぜなら、商品はすべて鋳貨の形態に転化するからである。流通はどの人をも、ある特定の契機において、他人と同等のもの〔gleich〕として定立するばかりでなく、同一のもの〔dasselbe〕として定立するのであって、流通の運動の本質は、社会的機能からみてどの主体も交互に他の主体にとってかわるということにある。交換者たちは流通のなかで、今はたしかに買い手と売り手として、つまり商品と貨幣として質的差異をもって〔qualitativ〕対応しあってはいるが、しかし彼らはやがてその位置を変換するのであって、〔流通の〕過程は不等性を定立する過程〔Ungleichsetzen〕であると同時にその不等性の定立を止揚する過程〔Aufheben〕でもある。その結果、この不等性を定立する過程は単に形態上のものにすぎないこととして現われるのである。買い手は売り手となり、売り手は買い手となるのであるが、どの人も、買い手となりうるのはただ彼が売り手であることによってのみである。〔しかし〕この〔買い手と売り手という〕形態上の区別は同時に、流通のすべての主体にとって、[彼らが]通過しなければならない社会的な変態としても存在している。それに加えて、商品は価格として観念的には、商品に対立している貨幣に劣らず貨幣である。それ自身流通するものとしての貨幣においては、それは、あるときはある人の手中に現われ、またあるときは他の人の手中に現われるが、貨幣は誰の手中に現われるかに対しては無頓着である。こうした貨幣という姿で平等が物象的に定立されており、区別は単に形態上のものにすぎないものとして定立されているのである。各人は他人に対して流通手段の占有者として現われるのであり、交換の過程が考察されるかぎりでは、彼自身貨幣として現われるのである。商品のうちに存在していた特殊な自然的差異はすでに消え失せており、また流通を通じて絶えず解消されてゆくのである。〉(草稿集③129-130頁)
  〈一般に諸個人の経済的過程の内部での彼らの社会的関連を吟味する場合には、われわれはこの過程そのものの形態諸規定だけに着目しなければならない。しかし流通においては、商品と貨幣との区別以外には、区別は何も存在しないし、さらにまた流通は両者の区別を絶えず消失させてゆく運動でもある。平等は、流通においては社会的(ゾツイアール)産物として現われる。それは交換価値が一般に社会的(ゾツイアール)定在であるからである。〉(草稿集③131頁)
  〈貨幣はただ交換価値の実在化〔Realisirung〕にすぎず、交換価値の制度〔Tauschwerthsystem〕の発展したものが貨幣制度〔Geldsystem〕であるから、貨幣制度は実際にはただ、この平等と自由の制度の実在化でしかありえない。〉(草稿集③132頁)
  〈だから、流通において展開される交換価値の過程は、自由と平等を尊重するだけにとどまらず、自由と平等とは交換価値の過程の産物なのである。つまり交換価値の過程こそが自由と平等の実在的な土台である。自由と平等とは、純粋な理念としては、交換価値の過程のさまざまの契機の観念化された〔idealisirt〕表現であり、また法的、政治的および社会的な諸関連において展開されたものとしては、それらがただ〔経済とは〕別の展開位相〔Potenz〕において再生産〔再現〕されたものにすぎない。このことは歴史的にも実証されている。交換価値の過程に基づく所有と自由と平等との三位一体は、まず最初に17世紀と18世紀のイタリア、イギリスおよびフランスの経済学者たちによって理論的に定式化されたが、それだけではない。所有、自由、平等は、近代ブルジョア社会においてはじめて実現された。古典古代世界では、交換価値は生産の土台としての役割をはたさず、むしろ交換価値の発展とともに生産は没落していったのであるが、その古典古代世界が産み出した自由と平等は〔近代ブルジョア社会における自由と平等とは〕まったく反対の、本質的に局地的〔lokal〕でしかない内実をもったものであった。他面では、古典古代世界においても自由人の範囲内では、少なくとも単純流通の諸契機は発展していたから、次のことは明らかである。すなわちローマ、とくに帝政ローマの歴史はまさに古典古代的共同体〔das antike Gemeinwesen〕の解体の歴史であるから、そのローマにおいて、法的人格〔juristische Person〕の諸規定、つまり交換過程の主体の諸規定が展開され、ブルジョア社会の法はその本質的諸規定についてはすでに完成させられていたとはいえ、この法はなによりもまず中世に抗して、成立しつつある産業社会の法として貫徹させられなければならなかった、ということである。〉(草稿集③134-135頁)

《初版》

 〈労働力の売買がその限界内で進行する流通あるいは商品交換の部面は、じっさい、天賦人権の真の楽園であった。ここで支配しているものは、もっぱら、自由平等所有、そしてベンサムである。自由! なぜならば、ある商品たとえば労働力の買い手も売り手も、自分たちの自由意志によってのみ規定されているから。彼らは、自由な法的に対等な人間として契約を結ぶ。契約は、彼らの意志にたいして共通の法的な表現を与えているところの自由な産物である。平等! なぜならば、彼らは、商品所持者としてのみ互いに関係しあい、等価物と等価物を交換するから。所有! なぜならば、どちらも、自分のものだけを自由に処分するから。べンサム! なぜならば、どちらにとっても、自分のことだけが問題であるから。彼らを結び付けて関係させる唯一の力は、彼らの私利の、彼らの特殊利益の、彼らの私的利害の、力なのである。そして、このように各人が自分のことだけを考え、誰も他人のことを考えないからこそ、すべての人が、事物の予定調和の結果として、または、全能な摂理のおかげで、彼らの相互の利益の、公共の福利の、全体の利益の、事業だけを、遂行しているわけである。〉(江夏訳182頁)

《フランス語版》

 〈労働力の販売と購買が行なわれる商品流通の部面は、実際、天賦の人権と市民権との真の楽園である。そこでひとり支配するものは、自由、平等、所有、そしてベンサムである。自由! 一商品の買い手も売り手も強制によって行動せず、むしろ自分たちの自由意志によってのみ、規定されているからである。彼らは、同じ権利をもつ自由な人間として、ともに契約を結ぶ。契約とは、彼らの意志が共通の法的表現をそのなかで与えられているところの、自由な産物である。平等! 彼らは商品の所有者としてのみ相互に関係し、等価物を等価物と交換するからである。所有! どちらも自分に所属するもののみを処理するからである。ベンサム! 彼らのどちらにとっても、自分自身だけが問題だからである。彼らを対面させ、関係させる唯一の力は、彼らの利己主義の、彼らの個別的利益の、彼らの私益の、力である。各人は自分のことだけを考え、誰も他人のことを気にかけないのであって、まさにこのために、事物の予定調和によって、すなわち、全知の摂理の庇護のもとに、彼らはめいめい自分のために、めいめい自分の家で働きながら、同時に、全体の功利、共通の利益のためにも働くのである。〉(江夏・上杉訳165頁)


●第21パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈他方、貨幣関係がこれまでにその純粋な姿で、またそれよりも高度に発展した生産諸関係と無関係に展開されるかぎりでは、この貨幣関係の規定のなかには次のことが含まれている。すなわち、単純につかまれた貨幣諸関係のなかでは、ブルジョア社会の内在的対立がすべて消し去られたようにみえ、またこの面からして、ブルジョア経済学者によって現存の経済的諸関係を弁護するための逃げ場とされる以上に(彼らはこのばあい少なくとも首尾一貫していて、交換価値と交換という、貨幣関係以上に単純な規定にさかのぼる)、ブルジョア民主主義によって、この貨幣関係がふたたび逃げ場に使われるのである。事実、商品または労働がまだただ交換価値としてだけ規定され、さまざまの商品を相互にかかわりあわせているその関連が、これらの交換価値相互間の交換として、それら交換価値の等置として規定されているかぎり、この過程をたがいのあいだで進行させる諸個人、諸主体は、ただ単純に交換者として規定されているにすぎない。形態規定についてみるかぎり、彼らのあいだにはまったくなんの区別も存在しない。そして、これが経済的規定、すなわち彼らが相互に交易関係〔Verkehtsverhältniß〕にあるさいの規定であり、彼らの社会的機能または彼らの社会的相互関連の指標〔indicator〕である。主体はどちらも交換者である。すなわち、そのどちらもが、相手が彼にたいしてもっているのと同じ社会的関連を相手にたいしてもっている。それゆえ交換の主体として、彼らの関連は平等〔Gleichheit〕の関連である。彼らのあいだになんらかの区別とか、ましてや対立をさがしだすことは不可能であり、一つの差異性をさがしだすことさえ不可能である。……関係の純粋な形態、その経済的側面が考察されるかぎりでは……形式的に区別される次の三つの契機だけが現われてくる。すなわち、関係の諸主体、つまり諸交換者。これは同一の規定で措定されている。彼らの交換の諸対象、諸交換価値、諸等価物。これらは等しいだけでなく、明示的に等しいものとされねばならず、また等しいものとして措定されている。そして最後に、交換という行為そのもの、つまり媒介。これによって諸主体はまさに交換者、同等者〔Gleiche〕として、彼らの客体は諸等価物、等しい物として措定される。〉(草稿集①275-277頁)
  〈このような解釈の仕方がその歴史的意義において強調されるのでなく、より発展した経済的諸関係--そこでは個人はもはやたんなる交換者、すなわち買い手と売り手としてでなく、たがいに規定された諸関係のなかで相対して現われ、もはやだれもが同じ規定性におかれていることはない--にたいして、反駁としてもち出されるならば、それは、自然の諸物体は、たとえば重さの規定でつかめば、みな重さがあり、したがって同等だから、あるいはそれらはすべて三次元の空間を占めていることによって同等であるから、それら諸物体のあいだにはなんの区別も存在せず、いわんや対立や矛盾など存在しない、と主張しようとするのと同じことである。交換価値それ自体もまた、ここでは交換価値のより発展した対立的諸形態と対立させられて、単純な規定性のなかにとどめられている。科学の歩みのなかで見れば、これらの抽象的諸規定は、まさに最初の、もっとも空疎な〔dürftigst〕諸規定として現われる。それは部分的には歴史的にも先行して現われる。より発展したものはより後のものとして現われるのである。現存のブルジョア社会の全体のなかでは、諸価格としてのこうした措定や諸価格の流通などは、表面的な過程として現われ、その深部においてはまったく別の諸過程が進行し、そこでは諸個人のこのような仮象的な〔scheinbar〕平等と自由は消失する。〉(草稿集①285頁)
  〈他方では、社会主義者たち(とりわけ、社会主義がフランス革命によって宣明されたブルジョア社会の諸理念の実現であることを証明しようとするフランスの社会主義者たち)の愚かさも、同様に明らかであり、彼らは、交換、交換価値などは、もともとは(時間的に)、あるいはそれらの概念からすれば(それらの適切な形態においては)、万人の自由と平等の制度であるのに、貨幣、資本などによって改悪されてしまったのだ、ということを論証する。あるいはまた、歴史はその真理にふさわしい仕方でみずからを貫徹せんものとこれまでなお成功しない試みを重ねてきたが、いまや彼らは、たとえばプルドンのように、正真正銘の本物〔der wahre Jacob〕を発見したのであるから、それによってこれらの諸関係の真正の歴史がいつわりの歴史のかわりに提供されるはずだ、などということも論証する。彼らにたいする回答はこうだ。すなわち、交換価値、またいっそうくわしくいえば、貨幣体制は事実、平等と自由の体制なのであるが、この体制がさらに発展するなかで自由と平等のまえに妨害的に立ちはだかるものは、この体制に内在する妨害要因なのであり、やがては不平等と不自由として化けの皮をあらわすような平等と自由の現実化にほかならないのだ、と。交換価値が資本に発展しないようにとか、交換価値を生産する労働が賃労働に発展しないようになどというのは、かなわぬ願いであり、ばかげた願いでもある。これらの諸氏がブルジョア的弁護論者たちと区別される点は、一方では、この体制が含んでいる諸矛盾を感じとる心であり、また他方では、ブルジョア社会の実在的姿態と観念的姿態とのあいだの必然的区別を概念的に把握〔begreifen〕せず、したがって、観念的表現が突際にはこの現実の映像にすぎないものだから、この観念的表現それ自体をあらためて実現しようとするなど、無用な仕事に手を染めようとするユートピア主義である。〉(草稿集①286-287頁)
  〈同じく、労働者が貨幣の形態、つまり一般的富の形態で等価物を受けとることによってもまた、彼はこの交換において、他のすべての交換者と同様、同等者〔Gleicher〕として資本家に相対している。少なくとも仮象の上ではそうである。事実上は、この平等はすでに次のことによって妨げられている。すなわち、彼が労働者として資本家にたいしてもつ関係が、交換価値とは特有のかたちで〔spezifisch〕異なる形態をもつ使用価値として、しかも価値として措定された価値に対立して、この仮象上の単純な交換にたいして前提されていること、したがって、彼は実際のところ、経済的には別の規定をうけた関係のうちにあること--つまり彼は、使用価値の本性、商品の特殊的な使用価値は、それ自体としては、どうでもよいとする交換の関係の外にあるということである。そうはいうものの、この仮象は幻想として労働者の側に存在するとともに、またある程度は他方の側にも存在しており、したがってまたこの仮象は、労働者の関係を、他の諸社会的生産様式のうちにある労働者の関係と区別して、本質的に変容させるのである。〉(草稿集①340-341ページ)
  〈労働能力のなかに含まれている労働時間、すなわち、生きた労働能力をつくりだすのに必要な時間は、生きた労働能力を--生産諸力の段階が同一であると前提すれば--再生産するのに、すなわちそれを維持するのに必要な時間である。だから、資本家と労働者のあいだで行なわれる交換は、交換の諸法則に完全に照応しており、しかも、照応しているばかりでなく、それの最終的な開花である。というのは、労働能力それ自身が交換されないあいだは、生産の基礎はまだ交換に立脚しておらず、交換は、ブルジョア的生産に先行するあらゆる段階ではそうであるように、ただ、交換の土台としての非交換に立脚する狭い範囲にとどまるにすぎないのだからである。だが、資本家が交換によって手に入れた、価値という使用価値は、それ自身が価値増殖の要素および価値増殖の尺度、つまり、生きた労働および労働時間、しかも労働能力に対象化されている労働時間よりも多くの労働時間、すなわち生きた労働者の再生産に要する労働時間よりも多くの労働時間である。つまり資本は、労働能力を交換によって等価物として手に入れたことによって、労働時間--労働能力に含まれている労働時間を超えるかぎりでの--を交換によって等価物なしに手に入れたのであり、他人の労働時間を交換なしに、交換という形式を媒介として、取得したのである。それゆえに、交換はたんに形式的なものとなり、また、すでに見たように、資本が労働能力との交換によって、資本自身がもつ対象化された労働としての、労働能力以外のなにか他のものを手に入れるかのような、したがって総じて労働能力との交換によってなにかを手に入れるかのような外観もまた、資本がさらにいっそう発展すれば止揚される。だから、転回が生じるのは次のことによってである。すなわち、自由な交換の最後の段階は、商品としての、価値としての労働能力を、商品、価値と交換することだということ、労働能力が受け取られるのは対象化された労働としてであるが、しかしその使用価値は、生きた労働すなわち交換価値の措定にある、ということである。転回が生じるのは、価値としての労働能力がもつ使用価値が、それ自身、価値創造的要素であり、価値の実体であり、そして価値増加的実体である、ということからである。つまり、この交換において労働者が彼のうちに対象化されている労働時間の等価物と引き換えに与えるのは、価値を創造し増加する彼の生きた労働時間である。彼は、結果としての自分を売る。原因、活動としては、彼は資本によって吸収され、資本のなかに体化される。こうして交換はその反対物に転回し、そして私的所有の諸法則--自由、平等、所有--、すなわち自己労働にたいする所有とそれの自由な処分とは、労働者の所有喪失と彼の労働の放棄〔Entäußerung〕とに、彼が自分の労働にたいして他人の所有にたいするしかたで関わることに、またその逆に、転回する。〉(草稿集②443-445頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈このことから、あの社会主義者たち、とりわけフランスの社会主義者たちの誤謬が生まれる。つまり、彼らはフランス革命によって〔その真の意味を〕発見されないまま歴史的に流布されるに至ったブルジョア的な諸理念を実現させるのが社会主義なのだということを立証しようと望み、また、交換価値は本源的には(時間的に)、あるいはその概念からすれば(つまりその適合的な形態においては)、万人の自由と平等の制度であるのに、それが貨幣、資本等によって歪められているのだということを論証することに精を出している。あるいはまた、歴史はこれまでのところはまだ自由と平等をその真実〔Wshrheit〕に照応した形態で実現しようと試みて失敗しつづけてきたのだが、今や--たとえばプルドンのように--自由と平等の諸関係の歪められた歴史にかわってそれらの真の歴史を提供してくれるような万能薬〔つまり社会主義〕を発見することを歴史が求めているのだということを、論証することに精を出している。交換価値の制度〔Tauschwerthsystem〕は、そしてそれ以上に貨幣制度は、実際には自由と平等の制度である。そしてより深く展開してゆくにつれて現われてくる諸矛盾は、この所有、自由および平等そのものに内在している諸矛盾、蔦藤である。というのは、所有、自由および平等そのものが折あるごとにそれらの反対物に転変するからである。〔それが理解できずに〕たとえば交換価値が発展して商品や貨幣という形態から資本という形態に進むことがないように、あるいは交換価値を生産する労働が発展して賃労働に進むことがないようにと願ったりするのは、あだな望みでもあり、愚にもつかない望みともいうものだ。これらの社会主義者たちがブルジョア弁護論者たちから区刻されるのは、一面では、この制度のはらんでいる諸矛盾を彼らが感じていることによってであり、他面では、ブルジョア社会の実在的な姿態と観念的な姿態とのあいだの必然的な区別を概念的に把握せず、したがって〔ブルジョア社会の〕観念的表現を、つまり神々しく輝いているので、現実それ自体を映し出しているだけなのに、みずから光を発するものとみなされている映像を、もう一度それ自体として現実化させようという余計な仕事を引き受けるユートピア主義によってである。〉(草稿集③136-137頁)

《初版》

 〈こういった、単純な商品流通あるいは商品交換の部面から、俗流自由貿易論者は、資本と賃労働との社会にかんする見解や概念や自分の判断基準を引き出してくるのであるが、こういった部面から立ち去るにあたって、わが登場人物の容貌は、すでに幾らか変わっているように思われる。さきの貨幣所持者が資本家として先頭に立って進み、労働力所持者が貨幣所持者の労働者として貨幣所持者のあとについてゆく。一方は意味ありげにくすくす笑いながら、仕事一途に。他方はびくびくとしぶりがちに、まるで、自分自身の皮を市場に運んでいまや革になめされるよりほかにはなんの期待もない人のように。〉(江夏訳182頁)

《フランス語版》

 〈単純な流通のこの部面は、俗流自由貿易論者にたいして、資本と賃労働にかんする彼の観念、概念、観察方法、判断の基準を提供しているが、われわれがこの部面から離れる瞬間に、われわれの戯曲の登場人物の相貌のなかに、ある変化が起きているように思われる。以前のわれわれの貨幣所有者が先頭に立ち、資本家として最初に行進する。労働力の所有者は、資本家に属する労働者として、後からついて行く。前者は、嘲笑的なまなざし、尊大で忙しそうな様子。後者は、自分自身の皮を市場に運んだが、もはや鞣(ナメ)されるという一事しか期待できない人のように、おずおずと、ためらいがちで、進み渋っている。〉(江夏・上杉訳165頁)

以上。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『資本論』学習資料No.27(通... | トップ | 『資本論』学習資料No.28(通... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『資本論』」カテゴリの最新記事