昨日訪れた神奈川県立歴史博物館、久しぶりに広重(初代)の「東海道五十三次之内 箱根 湖水図」を見た。また同じく「不二三十六景 箱根山中湖水」と「不二三十六景 相模大山来迎谷」外をはじめて目にした。
同時に広重(二代)の「武州 横浜 野毛」(1859)、「武州 横浜 岩亀楼」(1860)外を見てきた。「岩亀楼」は二回目。ともに開港直後の長閑な寒村の面影と共に、台場建設なども同時に行われていた当時の様子が伝わってくる作品である。
広重(二代)は風景画の構図としては初代の模倣で終わったとの評価が強いが、今でいう時事的な要素を貪欲に取り入れようとした意欲に私は惹かれる。
それは私が時事的なことは苦手で現在時点のことからは遠ざかりたいという思いをどこかでいつも核のように持っているからである。それにもかかわらず、政治や現実の現象に関わり続けている自分が、その核とときにおおいに乖離してしまう。そんな自分を突き放してみている自分が常に存在している。私は広重(二代)にそんな匂いを嗅ぎつけている。だから惹かれるのかもしれない。
さらに広重(二代)は色彩がいい。
この「野毛」という作品でも、台場か護岸工事か波よけ堤防の工事か、埋め立て工事かは判然としないが、活気ある開港の慌ただしい状況が端の方にそれとはわからないくらいに描かれている。同時にそのすぐ上に、野毛界隈の古くからの町並みが崖と黄昏の中に静かにたたずんでいる。
私は広重(二代)の着眼はこちらの家々のたたずまいだと思っている。そこにづかづかと入り込んでくる近代の槌音に対する違和感が漂ってくるところに惹かれる。芸術的価値とは別に着実に広重(初代)よりも広重(二代)が強いられた近代人としての自己分裂を読み取ることが出来そうである。
さて今回は近世から近代のコーナーをじっくりと見ることにした。とりわけ今回新しいと思われる展示に、現神奈川県(武蔵国(都築郡・橘樹郡・久良岐郡)、相模国)の各郡ごとの村落名と石高、藩名、幕府直轄、寺領、相給数の一覧の表が出ていた。カメラに収めてみたが、暗くてうまくはいかなかったが、そのうち整理をしたいと思っている。
この表にじっと見入っていたら、女性の学芸員が寄ってきて説明を若干の説明をしてくれた。また小田原藩など計7藩の本貫地・歴史などの展示も紹介してくれた。彼女が作成した表であったようだ。
残念ながらこの地図と一覧表は図録には収録されていないようである。できればこの力作が収録されて容易に手に入るように願いたいものである。
私はいつも自分が働いていた行政区や横浜市域、川崎市域が当時ではどのくらいの石高とされていたか、また長年働いていた区では、村の大きさと田畑の広さ、石高との兼ね合いなどいくつか比較したい衝動に駆られる。この衝動をかなえてくれる一覧表である。
この女性の学芸員の話は立ち話で短時間だったが、じっくりと講演を聞きたいものだと感じた。
広重とこの地図と一覧表を見ているうちにあっという間に1時間半がたってしまって閉館時間になって退出した。
昨日は5年前に入谷の朝顔市で購入した朝顔の写真を添えてみた。本日は先日家の近くで購入した朝顔が2輪開いた。
昨晩23時過ぎから、実に細かな霧雨となった。30分ほどいつもの家の周囲のコースをウォーキング。霧雨よりも汗で上着が濡れた。
1時には布団に入ったが、2時頃雨の音で目が覚めた。霧雨が本降りに変わっていた。朝も雨の音で目が覚めた。10時には大雨注意報も発表になっている。しかし発表になって30分も経たずに雨は上がってしまった。
最近は大雨注意報といってもたいていの人は無視をする。もっとも大雨警報でも気にしない人が多い現状もあるし、もともと天気予報すら見ない人が多いというのもうなづける。
「GO TO」キャンペーンなるものが始まめという。しかしすでに予約を開始していてキャンセルがどうのこうのという段階という。既に事業を開始してしまっている、ということが国会での論議や政府発表と大きなタイムラグがあること自体に納得がいかない。22日から予約・受付となるのが当たり前だと誰しもが思わないか。既成事実の先行でことが動く、まるで戦前の軍部の独断専行そのものを思い浮かべるのはオジサン世代だけだろうか。もっとも私よりも高齢の閣僚がいて、あの戦争を肯定しているらしいからそのくらいの悪知恵は働いているのだろう。政府が一方的に開始してしまったキャンペーンのキャンセル料、国が補填するのが当たり前である。
だがそれ以前に、どうして特定の業種だけが政府の予算の恩恵を被るのか。今回の豪雨でボランティアの受け入れすらためらっている被災地はどうするのか、どうして除外が東京都だけなのか。神奈川で言えば隣接3政令市の川崎・横浜・相模原はどうするのか、誰が考えても合理的な理屈などあり得ない。知事の発言だけが根拠なのか。それならば客観的な根拠ではなく、政治的な力関係でしか判断していないことになる。
そして15分以上の接触が感染にとって危険というのならば、旅行での車・飛行機内での長時間の接近はどうなっているのか。疑問も批判も無限回路のように浮かんでくる。
明るくない雨の朝、頭は異常に暗く沈んでいく。せめて朝顔の花でも眺めているしかない。
本日ははじめに市営地下鉄のセンター北駅にある横浜市歴史博物館にて、企画展「明治・大正 ハマの街 新市庁舎建設地・洲干島遺跡」を見てきた。
横浜市の新市庁舎が竣工したが、そこは開港地の横浜村の一番桜木町よりの干潟とそこに建っていた弁財天(弁天社)の広い敷地のあった地点が洲干(しゅうかん)島。今でも弁天通、弁天橋の町名・橋名が残っている。ここを南端とする細長い横浜村と、江戸後期に埋め立てられた吉田新田の東端の間の海が埋め立てられ関内地区となった。
この展示で特に印象に残ったのは、下水道管。仕事上ずっと見て触り、出納管理をしてきた下水道用の陶管が基本的には150年もの間変化せずに使われてきたことをあらためて再認識。むろん作成方法も材質も強度も耐久性も、大幅に改良されているが、基本は変っていないと思う。
洲干島と弁天社、発掘資料の展示ということであるので、やむを得ないが、私としては弁天社がどのような人々に支えられ、どのように維持されてきたのか、当時の信仰形態を知りたいのだが、なかなかその機会がないのが残念である。
県立歴史博物館の感想は明日。
どうやら雨は降らないうちに日が暮れた。夜は団地の会議、久しぶりに夜の会議に出る。特に発言する予定はないが、話は聞いて全体の流れは押さえておかないといけない。
昨日は寒かった。6月末から薄いタオルケット1枚で寝ているが、寒くて目が覚めたのは昨晩で2回目。
昨晩はやむなく夕方に着ていたTシャツの中に足を入れて寝た。山でテントに寝るときの経験を生かした。それなりに暖かくなって朝まで目が覚めずに済んだ。7月中旬でこの寒さというのはあまり経験がないような気がしている。
本日は午後から地下鉄センター北駅にある横浜市歴史博物館、ММ線馬車道駅にある神奈川県立歴史博物館の2館を見学。感想は会議終了後に間に合えばアップしたいが、出来上がるか否かは自信ない。
朝目が覚めたら、瞼がなかなか開かなかった。寝る前の目薬の成分が結晶化しているようで、瞼の縁にはザラザラした透明の小さな粒がついていた。ビタミンB12が含まれている目薬ということであったので、それが結晶化しているのだろうか。寝る前に両眼に一滴だけ垂らしただけである。昼間に垂らしたときは特にこのよううことはなかった。
特に目に異常をきたしたということではないので、心配はしていない。目の調子は今のところ悪くはない。
7月の初めに購入した朝顔、はじめの2~3日は花が4輪ずつ咲いたのだが、それ以降は咲かなくなった。一昨日1輪咲いたけれども小さかった。妻はこの雨と低温で太陽が顔を出さず、元気がなくなっているのではないか、という。
もともと朝顔・朝顔の種は秋の季語、朝顔市は夏の季語とされる。朝顔といえば朝顔の花を示す。しかし私のイメージでは夏のイメージである。もっとも咲く時期は好みの上では秋であっても8月はとても暑い盛りである。たとえば「汗」は夏の季語であるが、汗をぬぐう時期は8月という秋である。言葉の持つ季節感を大切にすれば、厳密な暦上の季節にこだわることもないと思う。
1907(М40)年作。教職を辞し、作家活動に専念し「虞美人草」を執筆した年、漱石40歳である。
一夜を共にした女を詠む仕立て。女性問題で悩んでいた松根東洋城宛のハガキに記された句の一つ。署名は夏目道易禅者ととぼけたものを使っており、一種の慰めの句と思われる。
だが、真剣に悩んでいる弟子にこれが果たして慰めになったかというと疑問である。
明治の時代、「家柄」「職業」「親の意向」など現代とは違い当人同士外の要素が大きな比重を占めていた。当人同士では解決困難な場面も多かったであろう。
とはいえ恋愛で悩んでいる人間にはこのような句が当時でも心に響いたとは思えない。別れることに未練を残すな、ということなのだろうが、そう簡単に突き放さないでと誰もが云いたくなる。突き放してほしくないから相談したのであろう。
一方では、傍目から見ると恋愛の当事者のことは、突き放して「御馳走様、どうぞご勝手に」という気持ちが強いかもしれない。男女のことはひとりで悩め、一人で解決しろ、これが一番の回答でしかないとも思う。そう思いつつ柔らかにアドバイスしなくてはいけない。こんな突き放し方では、傷口に塩を塗り込む、である。
辛辣でときに露悪的な漱石先生、人生相談にはちょいと適していない。今の世なら、女性から「夏掛けの男のごとく頼りなき 小林貴子」と布団から追い出される運命、反撃にあうこと間違いない。
ブログのコメントで指摘してもらったとおり、目を暖めながらしばらく寝ていた。中学生の頃から目が疲れると蒸しタオルで目を暖めていたが、つい忘れてしまうこともある。指摘してもらって思い出した。指摘、感謝である。
効果は確かにある。もっと早くに気がつかなくてはいけない。
用心をして、パソコンの画面の字はやはり120%にして文章を打ち込んでいる。これが終ったら、本日は本もテレビもなく、寝るに限る。
雨は少しずつ強くなっている。ケヤキの大木の葉にあたる雨粒の音が微かに聞こえ始めた。ベランダの雨水用排水管を流れる音は夕食の頃から次第に強くなってきた。気温も少しずつ低くなっている。先ほどベランダに出て見たら、半袖では寒かった。
雨の区域は西から東へ、そして神奈川県西部には雨の区域は無くなった。日付が変わる頃には雨は上がる可能性はありそうだ。
この雨では夜のウォーキングはあきらめた。
褒められると調子に乗って写真2枚。
ツィッター上では「#GoTo予算を医療に回せ」「#GoToキャンペーンを中止してください」というタグがトレンド入りしているという。当然であろう。この時期に、しかも感染の在り様が未だ不確定の段階で、旅行キャンペーンを政府が音頭を取るというのには愕然とする。
無症状の段階でも人に感染させてしまうということが明らかとなりつつある。感染力の極めて強い場合がある。なども報告されている。
「三密」を避けるのは最低限の防御方法で個人の努力の範囲である。これだけで感染の蔓延が防ぐことが出来るわけはない。それならば医療従事者の院内での集団感染が発生することはまずないはずである。
東京とその隣接3県、大阪などに集中している感染判明者の状況では、自治体が把握していない無症状の感染者、そして本人も感染していることがわからない人が多く存在している。それが移動や旅行先での感染の原因者になってしまうことは明らかである。
今回の豪雨被害の地域では喉から手の出るほど欲しい県外からのボランティアの受け入れを遮断せざるを得なくなっている。また地方の医療体制が脆弱な上に、感染が拡大したら危機的状況になる。
検査も満足に行おうとしない政府が、新型コロナウィルスの全国蔓延を後押ししているということになる。特効薬もなく、有効な予防接種も確定できない段階で、こんな愚策がまかり通ると考えること自体が政治家として恥ずかしくないのだろうか。アベノマスクに次ぐ愚策である。
経済対策としても、旅行業者だけが潤うのではないか、地元経済への波及よりも三密を避ける負担ばかりが増えるのではないか、などと地元から疑問も出ている。制度設計自体の再検討も必要のようである。疑問・批判にきちんと応える必要が政府にはある。発足することばかりが目的化している。そしてそもそも発注そのものの在り方が問題視されている。
野党の言い分を聞かない、人の話に耳を傾けない、いったん立ちどまることが出来ない、願望が先行し精神論を振りかざす、方針転換を恥と考える、動き出したら止められない、実体把握を行わない、特定の業者との癒着、意思決定の責任回避のために隠蔽・改竄・記録破棄‥。まるで時代劇の悪代官のちんけなあり様そのままの政治構造ではないか。
勧善懲悪の時代劇には「正義の味方」が多く存在する。だが「権力構造」と一体の「善意の権力者」に期待するのはもうやめにしたいものである。時代劇としてながく続いている水戸黄門や暴れん坊将軍や遠山金四郎などのような「正義の味方」を願望していても真の「正義の味方」は現れない。権力構造を温存させてしまう負の歴史の連続でしかない。
しかも現在の政権与党の中からの「正義の味方」など望むこと自体が無理である。今の政権与党の政治を見ていると、為政者は何が悪で何が正義か、ということすらわからなくなっているとしか思えない。政治理念が無く、悪が定義されなければ与党内に「正義の味方」など望むべくもない。「何が悪か、何が正義か」という理念が無ければ、正義の味方が降臨出来ることも出来ず、そんな時代劇は三流以下のドタバタである。
一時もてはやされた座頭市や闇の仕事人や木枯し紋次郎の世界も我々の視界から消えて久しい。彼らは権力者とは無縁であることを貫くが、怨念を鎮めはするものの晴らすことはない。個人を断罪するが、腐敗の根拠・制度の欠陥には迫ろうとしない。いっときの清涼剤の位置といってしまうのは惜しいが‥。さらにいつしか殺しの美学、殺陣の美学に移行していったと思う。
木枯し紋次郎はたたかおうとしない人には味方にはならないという「ニヒル」が売り物だった点が多くのファンを集めたが、中途半端に終わってしまった。
最近は時代劇ではなく、ミステリーもので政治の悪とたち向かう、というのも流行り出したとのことである。それらが陰謀論に堕してしまわないことを願っていることだけは此処で表明しておこう。
さて、現在は江戸時代という近世ではないのである。願望では政治は浄化しない。民主主義と、独裁ないし権力の暴走とは、歴史の教訓では表裏一体の緊張関係にある。フランスの近代の始まりの革命記念日以降の歴史は誰しもが教科書で学ぶ。奇しくも昨日はパリ祭であった。
権力者を交代させる「正義の味方」は憲法上は主権者である。「権力は腐敗する」は人間社会が「権力構造」を作り出したときから逃れられないものである。それを防ぐ手立ての歴史が人間の歴史である。防ぐことが出来なければ、独裁ないし権力の暴走で民衆が苦しむ。あるいはそれを招いた社会そのものが衰退し歴史から消えていく。
すでに日本社会の衰退は始まっている。モノ作りも、文化も、食料も、エネルギーも、環境対策も‥。経済の成長が社会構造をより進歩させるという幻想にすがっていられなくなった。今回の新型コロナウイルス感染症の問題でも、日本の資本主義の弾力は無くなったことが明るみに出た。生産ラインを状況に合わせて医療器具や衛生用品などに転用・運用することも即座には出来ていない。ワクチンや特効薬の開発や生産は、果たしてどうなるか。
働く者が報われない社会が目の前の光景である。第一線の医療従事者などの働く者に対しては過酷な労働を強い、処遇改善すら行わずに政府は放置をする。人的不足を補うために離職したばかりの医療の有資格者の活用などを図るために充実した処遇の指針を政府が作るとか、同時に医療器具・防護機材の供給増をはかるなどの施策はなかった。
それどころかウィルスの運び人と差別される状況を放置してしまった。運送業者にもそのような悪罵が投げかけられた。
機動力と応用力の効かない政治と経済、目を覆いたくなるような日本という社会、坂を転がり落ちる日本という社会に生きていることに私たちはもっと自覚的でありたい。自覚的な人々の努力はあちこちに垣間見える。しかし漠とした不安は、他国へのバッシングで留飲を下げるというところまで劣化している。
「方丈記私記」(堀田善衛)の第8章「世中にある人と栖と」を読み終えた。
「我が国のとりわけて平安時代の住居ほど不用心で不思議なものは稀なのではないかと思われる。宮廷にしてもなんにしても、要するに開けっ放しなのだ。盗禁衛ヲ犯ス、とか、群盗、大谷斎宮御所ヲ侵ス、とかいう記事が日記類に頻々として出て来る。平安朝の滅亡にはこの住居形式というものが、一因をかしていたのではないかと思われるほどである。もっとも宮廷、宮殿というものは、どこの国でもいつでも不思議なものである。各室各室には、妻子やおめかけやら、なにやらかにやら夫婦どもが大勢いたわけだが、各室全部素通しでドアーがない。えそらく番兵がドアーであって、番兵などは人間ではなかったのであろう。」
「(車に積んでたった二台で移動できる組み立て式の家を設計した長明は)本質的この男は実践者である。理屈はいわば後から来る。この方丈記の文体の腰の軽さ、軽みは‥実践者の文体だ‥。無常観の実践者、という背理がそこにある。」
「京郊外の春の日に、牛車二台でギイギイとのんびりした音をたてながら、この家の材料を積んで、牛車の傍に自ら付き添って歩いている、神主から転向した坊主頭の老長明を想像してみると、私はときに噴き出し笑いに笑い出したくなる。大真面目であったか、得意顔であたか、などということは、どうでもよろしい。出家、世捨人、隠者というもの、それは内心のこととして如何なる深く刻み込まれたような思想的、宗教的、文学的問題をもつにしても、外側から見るとき、‥一種の滑稽感が身に添っていた筈である。」
昨晩は風呂から上がって上半身裸のままパソコンの前でうたた寝を1時間以上してしまった。寒さを感じてあわてて寝間着の上を羽織って布団の中へ。
この時期に風邪をひいてしまってはまずい。常時体温は0.5℃ほどの幅で上下しており、一応起床時の検温はいつもの体温の幅の上限であった。二日ほどは用心して過ごしたい。
「百年戦争」と「方丈記私記」とを交互に読んでいるうちにいつの間にか正午を過ぎた。中国地方の豪雨被害の情報が昨晩からツィッター上に表示されている。
降れば土砂降り、を通り越して、降れば甚大被害、がここ何年も続いている。
午後からの雨は止まない。5ミリに満たない雨であるが、本降りである。明日の朝まで続くのだろうか。明日の昼までの降水確率は80%、午後からは50%、終日雨模様ということであろう。
本日は読書もせず、ウォーキングにならなかった外出のあとは、ひたすらボーっとしていた。雨を眺めるでもなく、何かの考えに耽るでもなく、退職者会の業務にも手をつけず‥。友人に長めのメールを送信したのみ。長いメールはひょっとしたら迷惑になるとは思いながらも、つい送信ボタンを押してしまった。
さて明日も雨。明日には読書再開としたいものである。
期待に反して、予報どおりに午後から降り始めた。往復6千歩ほどのウォーキングで終わってしまった。予定の半分ほど。急遽神大のキャンパスの生協前で折り返し。雨がしのげるこの場所で100円の缶コーヒーの一服。雨は弱くはならず強くなってきてしまった。
昔の大学では、古い映画ポスターや各種催し物の古びたチラシが校舎に貼ってあったが、今の大学では、そのようなものは皆無。オジサンにはあまりにきれいな大学はピンとこない。生気を感じない。コロナ騒ぎの閉鎖措置でもあるので、いっそうさびしい。明日はパリ祭。フランスでも今年はどうなるのだろう。日本では例年梅雨明け前の雨にたたられることが多い。
★古き良き雨の映画やパリ―祭 鷹羽狩行
天気は昨日とは変わって朝からどんより。午後からはまた雨が降る予報になっている。
最近はさまざまな日程が極端に少なくなり、今週と来週が頭の中で混同している。来週月曜日が退職者会の幹事会である。頭の中では20日(月)としっかり正しくインプットされているのだが、それが本日13日(月)だと勘違いする日が先週に幾度かあった。
先週のある日、頭の中では「今度の月曜が20日」となってしまった。13日の週が頭の中から抜けてしまったのである。13日の週は18日(土)だけに予定が入っている。週に2ないし3日ほどの予定が入らないと日時の混同が起きるのかもしれない。
要するに、暇になると日時の感覚がずれてしまったり、抜け落ちてしまう。生まれてこのかた68年間、毎日時間に追われて生きてきたようなものである。これがコロナウィルスの感染拡大に伴う「巣篭り」の影響だけでなく、現役を退いて毎日の予定が無くなるとこんな症状が出て来るのかもしれない。
時間に追われる生活は誰しもが経験してきたことである。これが急にストップしてしまうと、脳も急ブレーキが効かなくなり、いろいろと齟齬をきたしてしまうのではないか、と思う。
現役を離れるとということは、少しずつゆっくりとした時間の流れになるように自分を制御しないといけないということである。
過度ではない範囲で、新幹線ではなくせめて鈍行のスピードで時間をうまく組み立てていくようにしないといけないのであろう。
人と会うことで予定を立てることもいい。それが出来なければ、自分でいろいろな場所を訪れたり、何かをこなしたりしながら、自分自身と会話を続けることもまた時間を自分で制御する方法だと思う。
今回の教訓としては、1週間の内、2日ないし3日はあらかじめ予定を立てて、スケジュール帳に書き込んで行くことであろう。例えば会議や人に逢う日、医者に行く予定などだけでなく、近くの公園でのんびり過ごす予定もスケジュール帳に書き込んでしまうのもやってみたい。思いついて公園に行くのも悪くはない。だがそれだけではなく、一週間前に予定を立てて近くの公園に行く、ということである。
現役時代よりも、「予定」の定義が変わってくるということでもある。他人との関係から強いられた予定ではなく、自分自身のための能動的な予定、という風に切り替えればいいのである。
判り切ったことでも少し視点を変えることが大切なのであろう。