Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「オキザリス」

2020年07月21日 23時38分22秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 夜のウォーキングに出掛けたら、雨がポツポツと降ってきた。雨粒は大きめ。しかしポツポツ程度なので40分ほど帽子もかぶらず続行。最後は弱くなりやみそうなところで終了。




 本日の夕方に公園で「オキザリス」という花の名の札の傍にこの見たことのない花が咲いていた。カタバミ科とのこと。
 ネット上に「オキザリスはカタバミの仲間で800~850種があり、世界に広く分布しています。ロゼット状のものから低木状のもの、地中に球根をもつもの、多肉植物に近いものなど、形状はさまざまです。開花期や生育環境、性質も多様で変化に富んでいます」との説明があった。
 花についてはほとんどわからないので、公園に行くと名を知らぬ花ばかりで面食らう。知らないばかりでなく、覚えられない。新しい花の名を覚えても1時間もしないうちに忘れてしまう。写真に名前を写し込んでも、覚えられない。おぼえることはもうあきらめている。
 


「横浜市庁舎の震災復興」

2020年07月21日 21時00分56秒 | 読書



 同じく「開港資料館館報148号」に「横浜市庁舎の震災復興」という論考(吉田律人氏)が掲載されていた。
 災害時の市の行政の在り方など行政に携わったものにとっては興味ある内容。同時に居間一つわかりにくかった先月までの市庁舎にあった場所に四代目市庁舎が震災後に建てられた経緯がすこしだけわかった。
 この四代目新庁舎は、震災で焼けたレンガ造りの二代目が陸軍により爆破解体された後に、当初から仮庁舎として建てられた木造二階建てでり、横浜公園内には最初から分庁舎が建てられている。桜木町駅傍の中央職業紹介所に移転していたのはわずか2年間。引っ越しは天候も悪く、大変な作業であったらしい。
 この四代目庁舎は手直しもされたであろうが、1944年に空襲に備えて現在の老松中学校(鉄筋根クリード3階建て)に疎開するまでの19年間も使用している。
 震災直後急遽移転した三代目の中央職業紹介所と新築なったとはいえ木造の仮庁舎として出発した四代目の建物が震災復興の拠点となっている。
 災害時にこそその力を発揮しなければならない職員や姿勢を支えるさまざまな人々と、彼らや貴重な資料を収容する建物‥。災害対策に携わってきたものとしては感慨深い記事であった。
 出来れば、当時の新庁舎内の配置図なども見てみたいと思った。今の新市庁舎のようにセキュリティ確保ばかりが先行して、市長室がどこにあるのかも明らかにしていない庁舎の在り方を見ると、時代に逆行しているように思える。


「幕末の感染症と横浜」

2020年07月21日 14時02分58秒 | 読書

 横浜開港資料館の館報第148号を横浜市歴史博物館で手に入れて、昨晩から今朝にかけて目を通した。特集は「幕末の感染症と横浜」と題して吉崎雅規氏の文章が1~3頁にわたり掲載されている。

   

 1862(文久二)年7月、日本では麻疹が流行り始めた。8月の段階で江戸近傍では罹患者567,700人、死者は73,100人を共に超えたとの記録があるとのこと。
 さらに前年にはインドでコレラが流行し、8月には麻疹に続いてコレラが日本に上陸、日本橋だけで日に400~500名が死んだという記録もあるようだ。
 8月にはフランス公使の提案で日本の医師と外国医師との治療に関する情報交換を実施している。日本では蘭方医も漢方医も多忙を極めていた。
 この年の8月21日、薩摩藩主島津久光の行列と交錯したイギリス人が殺害された生麦事件が発生、翌年にはイギリス艦隊が鹿児島を砲撃、幕末から明治へ大きく時代が動いていく。
 アメリカ商人フランシス・ホールは生麦事件の一週間後に「東海道における暴行・殺人の興奮はやわらいでいる。コレラの蔓延にむより、一般の人々にとって事件の印象は薄くなった」と記しているとのこと。
 日本人にとっては目前の感染症の拡大への不安の方が大きかった、と筆者の吉崎雅規氏は記載している。

 徳川幕府は民政に腐心しようとしていたことは確かである。その政治体制や財政の基盤が崩壊しかけていたり、時代に対応できない制度であったことは確かであるが、民政を放置するような政府ではなかったようだ。
 いかにも民心に目を向けず、諸外国の圧力に右往左往していただけというほどの無能ではなかったと思う。幕府を倒した明治政府の視点から見た末期の徳川幕府の評価を鵜呑みにする危険をおおいに感じている。


セミが鳴き始めた

2020年07月21日 11時28分57秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 昨日朝一番でミンミンゼミが鳴き始めた。晴れると同時に、梅雨明けを待ちきれずに泣き始めた。妻も私もその声で眼が覚めた。そして今朝もミンミンゼミの声でいったん目が覚めた。しかし今朝はベッドから離れずにそのまま寝てしまった。
 残念ながらミンミンゼミが鳴いた直後から太陽は雲に隠れてしまったらしい。そして朝の一声以来セミの声はしなくなってしまった。
 セミの声がさかんなときは、雨が降るといっせいに鳴き止み、上がると一斉に鳴き始める。曇だからといって泣き止むことはない。羽化したばかりのセミは太陽光線に敏感なのだろうか。

★やがて死ぬけしきは見えず蝉の声    松尾芭蕉
★聞くうちに蝉は頭蓋の内に居る     篠原 梵
★蝉しぐれ防空壕は濡れてゐた      吉田汀史

 セミの鳴き声はともすると死のイメージもついてくるらしい。セミがさかんに鳴いて、まるで短い生の最後を死に向かって競い合うように行進しているかのような印象を持つからなのだろうか。
 本日はそんなイメージの句を3句上げて見た。
 第2句、セミの声は不思議で聞くと惹かれるし、また記憶に残る。ときどきその声をまねて唇を動かしている自分に気がつくこともある。脳の中で、来し方のさまざまな場面、それも思い出したくないことを思い浮かべてしまうこともある。頭の中でセミの声が充満してしまう恐怖というものもある。
 第3句、小さい頃には、素人が掘った防空壕というものを崖地などでよく目にした。寒気も悪く、湿気の多いものであった。空襲警報で怯えて防空壕に籠っていたころの記憶は、そのジメジメした居心地の悪さと混在していたのであろう。特に小さな子どもにとっては二重の恐怖であったかもしれない。蝉しぐれの乾いた音とは対照的な、暗くジメジメした嫌な記憶は死の恐怖とともにあったのだろう。



 しかし同時にセミの声というのに、生の横溢を見ることもある。
 松本竣介のこの作品は、1948年6月の死の直前、3月に描かれている。次男が描いた蝉の絵を画家の手で作り変えたかのように思えるほほえましい作品である。竣介は当時5歳だった次男の書いた絵を大切に保管していたという。
 家族にとっては手放せない作品なのではなかろうか。