Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

神奈川県立歴史博物館(広重(二代)と村の石高一覧)

2020年07月17日 14時13分26秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等



 昨日訪れた神奈川県立歴史博物館、久しぶりに広重(初代)の「東海道五十三次之内 箱根 湖水図」を見た。また同じく「不二三十六景 箱根山中湖水」と「不二三十六景 相模大山来迎谷」外をはじめて目にした。
 同時に広重(二代)の「武州 横浜 野毛」(1859)、「武州 横浜 岩亀楼」(1860)外を見てきた。「岩亀楼」は二回目。ともに開港直後の長閑な寒村の面影と共に、台場建設なども同時に行われていた当時の様子が伝わってくる作品である。



 広重(二代)は風景画の構図としては初代の模倣で終わったとの評価が強いが、今でいう時事的な要素を貪欲に取り入れようとした意欲に私は惹かれる。
 それは私が時事的なことは苦手で現在時点のことからは遠ざかりたいという思いをどこかでいつも核のように持っているからである。それにもかかわらず、政治や現実の現象に関わり続けている自分が、その核とときにおおいに乖離してしまう。そんな自分を突き放してみている自分が常に存在している。私は広重(二代)にそんな匂いを嗅ぎつけている。だから惹かれるのかもしれない。
 さらに広重(二代)は色彩がいい。
 この「野毛」という作品でも、台場か護岸工事か波よけ堤防の工事か、埋め立て工事かは判然としないが、活気ある開港の慌ただしい状況が端の方にそれとはわからないくらいに描かれている。同時にそのすぐ上に、野毛界隈の古くからの町並みが崖と黄昏の中に静かにたたずんでいる。
 私は広重(二代)の着眼はこちらの家々のたたずまいだと思っている。そこにづかづかと入り込んでくる近代の槌音に対する違和感が漂ってくるところに惹かれる。芸術的価値とは別に着実に広重(初代)よりも広重(二代)が強いられた近代人としての自己分裂を読み取ることが出来そうである。

 さて今回は近世から近代のコーナーをじっくりと見ることにした。とりわけ今回新しいと思われる展示に、現神奈川県(武蔵国(都築郡・橘樹郡・久良岐郡)、相模国)の各郡ごとの村落名と石高、藩名、幕府直轄、寺領、相給数の一覧の表が出ていた。カメラに収めてみたが、暗くてうまくはいかなかったが、そのうち整理をしたいと思っている。
 この表にじっと見入っていたら、女性の学芸員が寄ってきて説明を若干の説明をしてくれた。また小田原藩など計7藩の本貫地・歴史などの展示も紹介してくれた。彼女が作成した表であったようだ。
 残念ながらこの地図と一覧表は図録には収録されていないようである。できればこの力作が収録されて容易に手に入るように願いたいものである。
 私はいつも自分が働いていた行政区や横浜市域、川崎市域が当時ではどのくらいの石高とされていたか、また長年働いていた区では、村の大きさと田畑の広さ、石高との兼ね合いなどいくつか比較したい衝動に駆られる。この衝動をかなえてくれる一覧表である。
 この女性の学芸員の話は立ち話で短時間だったが、じっくりと講演を聞きたいものだと感じた。
 広重とこの地図と一覧表を見ているうちにあっという間に1時間半がたってしまって閉館時間になって退出した。



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