Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

いろいろと考えたけれど‥

2018年07月21日 21時35分06秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★手榴弾めくアボカドと首夏の夜を    伊藤伊那男

 朱夏は夏そのものの異称。首夏は初夏・初夏の意味で、立夏を過ぎた新緑の5月ごろであろう。はじめこの句を読んだときはアボカドを手榴弾に見立てただけの句かと思い、スルーした。次にアボカドを手榴弾に模するすらば、朱夏あるいは炎天、大暑、酷暑、刧暑などもいいと感じた。そうすると鎮魂の意が句から立ち上るのではないかと思った。これはこれで私の好みの句となる。
 同時に、ではなぜ初夏の意の首夏としたのか、という疑問が湧いた。野菜としてのアボカドは脂肪を多く含み、寿司がアメリカではやった際に、アメリカから逆輸入された寿司ネタでもある。鮪の赤味によく合い、私も好きなサラダの具材である。首夏の夜「に」手榴弾めいたアボカド「を」愛でながら食べたのであれば、「てにおは」が違う。ここではアボカドと首夏の夜が並列なのである。
 また「手榴弾めく」で切れるとするとどうなるのか。社会全体が少々危うい状況になった、ということが「手榴弾めく」だっとしたらどう解釈できるか。その不穏な空気が、アボカドと首夏の夜にどのように反映されているのか、これはかえって難しい。最後が「を」ではなく、「と」ならば、「未だまだアボカドと首夏の夜は平穏だが‥」という風に成り立つ。
 ここまで来て私はお手上げである。「手榴弾めくアボカド」がどのようなイメージを喚起するのか、合点がいくまで少しこだわってみようかと思った。果たしてわかるだろうか。



目が弱くなった

2018年07月21日 18時25分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝から会議の資料作りが15時過ぎに終了。コピーの原本が無事出来上がった。今回は25頁もある厚いものになってしまった。これでは他の方にも迷惑なのだが致し方ない。もっとも横浜市に提出した助成金請求の申請書類一式のコピーがそれだけで14頁もある。これがなければ、少し多めとはいえいつもの枚数に近い。

 完成後、目がチカチカしていつものように眼精疲労らしい症状。横になったらそのまま2時間熟睡してしまった。目がすぐに疲れてしまう。矯正はこれ以上無理である。視力の老化というものなのだろうか。読書も次第に長時間できなくなっている。これは気力の問題もあるだろうし、目がすぐに疲労してしまうこととの相乗効果かも知れない。

夏休みが本当に「休み」になっているか

2018年07月21日 12時25分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の朝にブログに掲載しようとした記事を間違って昨晩遅くにアップしてしまった。「処置有見舞」という題の記事である。先ほど少し書き直した。

 今晩予定の団地の管理組合の会議は明日の午前中に変更になっている。資料作りを現在実行中。15時くらいまでには完成したいもの。

 私の部屋にはエアコンがないので、暑い。しかもパソコンやプリンターの熱も加わり、キーボードに汗がしたたり落ちる。やむなく扇風機を2台使って居間のエアコンのつめたい空気を私の部屋に流れるようにしている。毎年8月にこれをするのだか、今年はもう耐えられなかった。それなりに効果がある。汗がひいてきた。

 本日から学校は夏休みとのこと、きっとクーラーのない教室から解放され、水もスポーツドリンクの飲用すら制限され、休み時間や体育・行事などで屋外に出ることも強要されているであろう小学生などにとっては地獄からの解放なのかもしれない。
 学校が子供の避難場所ではなく、地獄の特訓の場になっているという話があちこちから聞こえてくる。ところが、さまざまな活動が学校で夏休み中行われ、県大会等々と称してみっちり仕込まれるという。少年野球やサッカーなど地元での活動もまた、根性論・恫喝指導が教員免許を持たない人間によって行われている。近くの少年野球場などを見かけると聞くに堪えない罵声、人格否定の怒声が子どもたちに浴びせられている。それを親などの保護者が傍で容認しているのを見るにつけ、こわくなる。
 教員のクラブ活動などを根拠とした長時間労働が問題になっている。私はこれはおおいに改善しなくてはいけないと思うと同時に、その長時間労働の原因の長時間クラブ活動に参加する小中学生の長時間拘束もまた問題にしなくてはいけないのではないかと思う。
 現役の教員ではなく、退職した元教員などを「活用」し始めている。だがよく考えて欲しい。彼らは「専属」である。むろん彼らの労働の条件もまたキチンと整備されてしかるべきだが、その指導を受ける子どもにとっては、長時間の拘束がさらに長く続くことにもつながらないか。そちらの方もまた深刻である。小中学生のクラブや活動が全国レベル・地方レベルに引き上げられることで、子どもに過大な「訓練」が課せられている。
 根性論や恫喝で導かれる活動は、子どもたちから自ら考えることを奪う。主体的にものを考えない子どもをつくるだけである。社会全体にとっても不幸である。