Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

謡曲「海士」を読む

2017年05月05日 22時34分28秒 | 読書
 謡曲「海士」を読み始めた。新潮日本古典集成の「謡曲集」上・中・下の3巻(全100曲)を持っているが、眼をとおしたのは25曲ほど。一番最初に読んだ「定家」が一番印象に残っている。「海士」は上巻に収録されているが、これまで読んだことはなかった。謡曲というのは、さっと目をとおしておしまい、というわけにはいかない。何回も読まないと意図するところがなかなか理解が難しい。
 そして最初のワキの登場、名ノリ、からシテの登場までは言葉も理解しやすい。しかし後半になるにしたがい私などには解説を幾度読んでも理解できないものが多々ある。幾度も繰り返し口に出して、分かるようになるのだとも云われた。
 なかなかそのような時間の撮れない人間には理解は困難なのか、と思っているとき、たまたま能の演目を鑑賞する機会を得た。そのときは「兼平」だったが、以外にも「わかった」ような気持ちになった。たいていは謡曲のコピーがプログラムについている。これがとても嬉しい。能を見るのと謡曲を読む、ともに体験すると理解は早いのかもしれないと感じた。
 しかし如何せん、能のチケットは安くはない。一時期夫婦で続けて幾度か横浜能楽堂に通ったものの、退職してからは行く機会がなくなってしまった。
 私のブログにリンクを張っている「言葉の泉」【⇒こちら】に「海士」の記事があり、触発された。しかし目をとおしてみるとやはりなかなか手ごわい。本日中に目をとおせると思っていたが、一筋縄ではいかない。もう少し時間をかけなければいけないようだ。

「応仁の乱」(呉座勇一)

2017年05月05日 20時55分44秒 | 読書
   

 「応仁の乱-戦国時代を生んだ大乱」(呉座勇一、中公新書)を読み終わった。
 応仁の乱については、中学・高校で習った時は複雑で、よく理解できない構図でウンザリしてしまい、それ以来敬遠してきた。ほとんど意識の外にあったと思う。
 この書は興福寺の支配がつよい大和の国の、興福寺大乗院別当の尋尊と、大乗院門跡の経覚という摂関家の貴族出身の二人の僧の日記をもとにして、大和の国からの視点で応仁の乱の全体像を叙述している。なかなか説得力のある分析と叙述であると思った。
 歴史学は読むだけの私には、評価については出来るわけもないが、楽しく読んだことは確かである。
 方法論や叙述についてはなるほどと思ったが、違和感があるとすれば、戦後の歴史学を大きくリードしてきた「マルクス流の発展段階論」への著者の嫌悪に近い批判の仕方。「マルクス流の発展段階論」や「民衆が~」史観に違和感を持つのは自由であるが、アンチ「マルクス理由の発展段階論」やアンチ「民衆が~」史観が、いたるところで顔を出すことに違和感がある。その史観の功罪はいろいろある。しかし戦後をリードしてきた根拠もあるはずである。功罪、キチンとした評価が私などにはほしいと思う。それは拙速に結論を出してしまうのも危険である。
 党派性に党派性を対峙しても、それは党派同士の空中戦で終ってしまう。叙述や分析について具体的に優れた視点と敷衍をしていけばそれで凌駕できればそれでいいのである。これだけは違和感として残った。

「「事実」の危機」(高村薫)

2017年05月05日 10時35分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 いつものとおり、世界平和アピール7人委員会に掲載された「今月のことぱNo.33」【⇒http://worldpeace7.jp/wp/?p=987】を転載。

「事実」の危機            高村薫

 私たち日本人は戦後の長きにわたって、事実と嘘の区別を自明のこととしてのどかに生きてきた。ときに政治信条の偏りはあっても、新聞やテレビはおおむね事実を報道し、仮に事実でなかった場合にはそのつど追及や謝罪、訂正が行われてきた。おかげで社会に関心のある人も無い人も、新聞を読む人も読まない人も、その気になればひとまず事実を知るすべはあるという仕合わせな幻想の上に安住してきたのだが、アメリカでは大きく事情が異なる。
 自身の政権を批判する報道をすべて「偽ニュース」として一蹴するトランプ大統領の不見識もさることながら、既存のメディア全般に対するアメリカ国民の不信感の広がりはすさまじい。2014年のギャロップ社の世論調査では、新聞・テレビ・ラジオなどのメディアについて、「とても信頼している」「それなりに信頼している」と回答したアメリカ人は40%に留まっている。支持政党別では共和党支持者が27%、民主党支持者が54%である。既存のメディアを信頼していない60%の人びとは、SNSなどで自分に必要な情報を、必要なときに入手しているという。
 このアメリカのメディア不信は、二つのことを教えている。一つは、アメリカ人はある事柄について、それが事実であるか否かに必ずしもこだわらなくなっていること。またもう一つは、とくに政治面でのアメリカ人一般の関心事が、既存のメディアのそれとずれていること、である。たとえば、メディアから納税記録の開示を求められたトランプ大統領が、そんなものに興味があるのはメディアだけだ、国民は関心がないと一蹴したのは、そのことをよく表している。しかも、そこには一片の真実が含まれている。新聞やテレビは長年、その特権的立場にものを言わせてさまざまな「事実」を伝えてきたが、それらは社会的エリートたちの基準で選別された「事実」であって、下層の労働者たちが必要とする「事実」ではなかったということである。
 かくして大衆が関心を払わなくなった「事実」は価値を失い、代わりに「もう一つの事実(オルタナティヴ・ファクト)」が公然と語られる社会が出現しているのだが、ここで注目すべきは既存のマスメディアの予想以上の劣勢である。何であれ「事実」を知りたいと思う大衆が消えた社会に、マスメディアの居場所はない。またそれ以上にこのネット社会では、マスメディアが伝える「事実」も、巷に溢れる有象無象の情報も、「偽ニュース」もオルタナティヴ・ファクトも、すべてが並列になる。そして、そのなかでより派手で目立つ主張がしばし時代を席巻する一方、良識や公共の精神を自負してきたエリートやマスメディアはますます後退を余儀なくされてゆき、市民がときどきに正確な情報を入手できる可能性はどんどん小さくなってゆくだろう。
 しかしながら、私たちの国もマスメディアをめぐる近年の状況は基本的にアメリカと同じである。しかもこの国には、アメリカでは見られない無関心という巨大なブラックボックスがあるため、実はアメリカ以上に「事実」は危機に瀕していると見てよい。