Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

大雨・洪水・雷注意報は解除

2017年05月18日 22時10分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の横浜では午後に稲妻が光り、雷が鳴り、驚いた。妻と出かける時間を少しおくらせて様子を見た。
 さいわいすぐに雷は遠くに移り、私の住んでいる団地ではそれほどの雨ではなかったようだ。北部方面は強い雨であったらしい。

 18時20分に横浜に出ていた大雨・洪水・雷注意報も解除となった。しかし夕方は半袖では少し寒かった。長袖はすでに箪笥の奥にしまったので、半袖で我慢している。

 本日は朝に組合の会館に出向き、いったん帰宅したのち、再び横浜駅まで出かけた。しかし無理は禁物、ということで歩くのもゆっくりと歩いた。そして二日続けて休肝日。

 明日は昼前から国会へ行くことになっている。昼から夜まで。具合が悪くなったら途中で帰ってくる予定。明日の天気はあたたかいとのことで助かった。


「ミュシャ展」から 3

2017年05月18日 21時05分14秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 1923年作の「ヴィートコフ山の戦いの後-神は力ではなく、真理を体現する-」と題する11作目の作品。
 「ヴィートコフ山の戦い」とは、「フス戦争のさなか、プラハが神聖ローマ皇帝ジギスムント率いるカトリック教徒の軍勢(十字軍)に勝利した戦い(1420年)」。
 ミュシャは「「(すべての作品から)露骨な抗争やそれに伴う流血を思い出させる一切」を省こうとしたと記している。」、「「私の作品がめざしてきたのは、決して破壊することではなく、つねに橋を架けることである」。フス派の部隊とプラハ市民が十字軍に勝利したのち‥野外で感謝の儀式」が描かれているという。
 勝利の感謝の場面であるが、左手前に描かれた赤子を抱く女性は、伏目がちに疲れた様子が見える。戦いの中で多くの苦しみを味わったのだろうか。しかしそれ以上にたくましさがある。左下を見るニヒルな目つきは、儀式に背を向け勝利の儀式の裏にある醜いものを予感、あるいは告発しているのではないか、と思ってしまう。そういう目で背後の人々を見ると白い布を被った女性が多い。彼女たちの表情は決して明るくない。また男の表情も疲労困憊している。市民兵なのであろう。背後にいる子どもと思われる二人の内一人は儀式に興味津々である。
 私は、戦いに勝ったとはいえ、失ったものの多さを見つめるミュシャという画家の眼が、彼女の眼ではないか、と感じた。
 右の中央で光を浴びている人物は、「フス派の指導者ヤン・ジシュカ」という英雄であるらしいが、反フス派の市民を復讐のために殺戮した者でもある。「平和主義者」ミュシャの眼は「戦い」の両面、正義の裏表を見つめている。



 次の12作品目の「ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー-悪に悪で報いるな-」は1918年の作品であるが、「ヴィートコフ山の戦い」と同じころ1420年のエピソードに基づく作品である。ヴォドニャヌイはボヘミヤの小さな街で、フス派と市民がともに暮らしていた。ヤン・ジシュカがプラハ防衛のためこの地を離れると、反フス派の軍が攻撃し、フス派全員を殺害。ジシュカはこの大虐殺の復讐のためこの街を焼き払う。ジシュカへの復讐を誓う市民にペトル・ヘルチツキーという司祭はそれを止めようとする。この場面を描いている。フス派・反フス派の戦いのおぞましさを二つの作品で描こうとしたと思われる。
 12番目の作品でも中央のヘルチツキーの左側にこちらを見つめる女性が描かれている。生きているのかはっきりしない赤子を抱いて、目は天を見つめているのか、鑑賞者を見ているのか、判然としないが虚ろであることは確かだ。焼かれた街から避難してくる人間も疲労困憊し、絶望感からか生気はない。赤子も含めて前景の死者たちは、当てられた光によって神々しさがただよう。
 この12番目の作品は1918年に作られた。解説では「製作中に進行していた第一次世界大戦のおぞましさを寓意的に表現している」と記している。
 これがこの「スラヴ叙事詩」の優れた面なのではないだろうか。

都市の変貌

2017年05月18日 17時31分09秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝6時半頃に起床、8時20分頃に組合の会館に着いた。現役時代の職場はもう少し時間がかかかったものの、8時45分の始業時にギリギリ間に合う時間であった。5年2か月ぶりの出勤の気分である。思ったよりも交通機関は混雑していなかった。
 しかし久しぶりに早起きしたので、正午前には空腹を感じた。

 多少の作業の後、関内駅にもどり北口の改札と階段・エスカレーターの位置が新しくなっていることに気が付いた。最近はもっぱら南口を利用するか、ウォーキングで通過してしまっていたので、工事が完了したとは知らなかった。もっとも改札口はまだ一部の改札機しか開放しておらず、仮囲いの中では工事が行われていたようだ。
 いつの間にか昔から使われていたものが少しずつ変わっていく。久しぶりに利用するときにはとても大きな変化があったように感じてしまう。

 実は私が最初に配属になった職場は、9か月後に落成した。それから41年経過した。待つまでに新しい場所に移転すると聞いている。そのうち33年務めたので、愛着がある。敷地がウナギの寝床のように長く、膨大な資・機材、廃材、20数台の車庫の配置には苦労した。変更がとても難しく、足りない事務スペース、会議室、書庫の配置に苦労した記憶が残っている。 しかしそれが移転するとなると寂しいものがある。職場が無くなるわけではないが、自分の苦労したものが、消されるような気もする。大袈裟に言うとやってきたことが否定されているような気分にもなる。それはそれで致し方の無いことではあるが、それだけ愛着をもって作り上げてきたということでもある。
 区としては新しい区であったが、鎌倉の後背地として中世以降交通の要衝地でもあり、鎌倉道がいくつか残り、公図上も現地もたどることが出来る。開港後の古い歴史のある施設もいくつかあった。そんな中で40数年の歴史は短いが、確かに寂しい。
 区の中心駅、繁華街も再開発で大きく変貌した。これは私が現役であった時。商店街は日々変貌している。
 私が勤め始めたとき、ゴミの焼却工場も稼働しており、高い煙突が区のシンボル的な存在であった。区の多くの地点で眺めることが出来た。燃焼効率がよく、有害物質も出ず優良な施設であったという。しかし今は解体されてしまい、煙をもう見ることはなくなっている。これもまた残念であった。
 40数年たつと、日本の都市はどんどんと変化していく。私はこの変化に追いついていくことが出来るであろうか。

 先日、開港期以降からの地図をいくつも見ることが出来た。内陸であるが、この区の変貌もまた海岸部に劣らないほど激しい。