第19番目の作品としては「ロシアの農奴制廃止-自由な労働は国家の礎-」(1924年)。
1913年にロシアを訪れたミュシャであるが、ようやく1861年のロシアでの農奴制廃止が廃止されたロシアの後進性に衝撃を受けている。訪れた当時もまた農民等と支配的な階級との格差はひどかったはずだ。この作品でも農奴解放が宣告された1861年の情景を描いているらしいが、これまでも登場していた子供を抱く女性が再び登場している。そしてこれまでの中世の時期を描いた作品のように描かれた母親の眼は懐疑的であり、子どもの眼は怯え切っている。最下層の民衆を描こうとする衝動は感じることが出来る。解説を読むと画面中央にはウォッカを飲む農民も描かれている。解放されても、行き場のない人間、解放令が出たとしてもその恩恵にあずかることのない当該の農奴の生活状況を見つめている。
そして背景のロシア正教会の姿が不気味なほどに威圧的に人々の頭上にそびえる。ロシアにおける後進性の由来にロシア正教会が深くかかわっている社会体制を表現しているように思える。人物がこれまで以上に克明に鮮明に描かれているのとは対照的にかすんだような正教会の建物(ワシリイ大聖堂)はそれほど印象的である。
また中央にはウォッカを飲む男が描かれており、ロシアの最下層の貧困と社会の病理が告発をするように描かれている。
だが、第1番目の作品から次第にこの第19作目になってくると、作品が類型的になってくるように思われる。同時に表題もスローガン的になり、逸話や説話のミュシャ独自の解釈や、自由な組換えはなくなってくるのではないか、と想像してしまう。
20点ものこのような大作を描き切るということの困難さ、それも時代が近くなるにしたがっての困難さというのが伝わってくる。時代が具体的に人々の記憶に残っていればいるほど、表現者の自由な想像と創造、解釈が許されなくなる。これが類型的ということなのかもしれない。
同時にミュシャの視点が、最下層の民衆の持つ社会的な変動に対する懐疑と怖れといったものへの共感ということでは通底しているものがある。同時に始原的な共同性へのあこがれや理想といったものが、そのまま現在や未来に滑り込んでしまう危うさも強く感じる。この2種の画題が混在、並行して存在しているのがスラヴ叙事詩の特徴でもある。
画中から鑑賞者を見つめる視線はまだまだある。しかし民衆の今、を強く意識して描かれた作品はこれまで上げた7点に絞られるような気がする。
やはり第1番目「原故郷のスラヴ民族」に描かれた二人の人物の視線が一番印象に残った。作品の完成度も高く感じる。そしてミュシャの構想力にも惹かれる。