Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は市立病院へ

2017年05月10日 21時31分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日は朝から市立病院へ。先月いつも血圧の薬を処方してもらっている内科で、咳と痰がながく続いていることを告げて、肺のレントゲン写真を撮ったところ、微かだがね肺に影があるように見える、ということで市立病院を予約し、紹介状を書いてくれた。
 咳と痰は少しおさまったが、まだ完全には止まっていない。

 午後からは退職者会の会議。夜は呑み会であるが、診断結果によってはどうなるかわからない。本人はほとんど気にしていないが、妻はあれこれと心配している。

 病院へは9時前に来てほしいということなので、家を8時過ぎに出て歩いていく予定にしている。こんなに早く家を出るのは珍しい。果たして起きられるであろうか。

 本日はこれから若干の作業をこなさなくてはいけないことに気が付いた。退職者会ホームページに二つ記事をアップしなくてはいけないのを忘れていた。

「ミュシャ展」を訪れた

2017年05月10日 20時20分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 午前中の講座終了後に新国立美術館で「ミュシャ展」を見てきた。横浜駅前のチケットショップで100円安い1500円で入場券を購入。たかだか100円であるが、新国立美術館でチケットを購入するために10分以上並ぶことを考えると、とても得した気分になる。実は一軒目は売り切れといわれ、二軒目で購入できた。
 開場はチケット売り場は並んでいて、10分以上と小耳にはさんだ。草間彌生展と同じ窓口で販売していたようだ。並んでいるのは草間彌生展のチケット購入者のほうが多かったと思われる。草間彌生展の会場は入場待ちで並んでいた。ミュシャ展のほうは待たずに入場できた。
 本日は、作品の感想を述べるにはまだ頭の中の整理は無理なので、外堀から‥。
 作品があまりに大きく、新国立美術館の添乗でも高さがギリギリにおさまっており、作品は人の膝くらいから天井まで目一杯。作品と作品の間が狭く、鑑賞スペースが限られているため、遠くから全体を見ようとすると、後ろの作品を遠くから眺めようとする人と見つめ合う羽目に‥。そして下部は人の姿が目に入ってしまい、近くに寄らないと見ることが出来ない。
 これは会場の不備ではなく、作品の大きさ故の致し方ない状況であると思う。また上部は遠くて視力に難のある私は、双眼鏡ないしオペラグラス必携であった。これは迂闊。残念ながら上部を見ることは私には無理であった。これから訪れるかたは双眼鏡ないしオペラグラス持参をお勧めする。
 そしてスラブ叙事詩の第15、第17~20を展示しているコーナーが撮影可能エリアとなっている。スマホ・携帯電話の撮影音がやたらと鳴り響き、カメラへおさまる範囲を探して、カメラを見ながら移動する人が多く、鑑賞者にぶつかって来るので、落ち着いて見学ができない。これは考えものである。この「撮影可能エリア」なるものの在り方には苦言を呈したい。
 ショップはいつものとおりごった返していた。多くの人が関連グッズや図録、ポストカードの前に並んでいた。私はスラブ叙事詩20作品のポストカードを各1枚購入した。あの巨大な作品の迫力には到底及ばないが、やはり全部そろっていたことは良かったと思う。
 混雑はしていたが、見て回ることができるギリギリの混雑度であったと思う。私は図録を横浜の書店で事前に入手していたので、スラヴ叙事詩20作品の解説和事前に読むことが出来た。20作品分の情報を覚えることは出来ないので、縮小コピーをしてそれを読みながら作品の前に立ったが、こういう感想ははやりよくないと思った。作品を前にしたら字面を追う時間があったら、分からずと作品を隅々までじっくり見ることのほうが大切だとあらためて感じた。

 さて、少しだけ本題に触れてみる。
 淡い色彩が、この大作の場合、白を有効に際立たせるにはとても有効な方法だったのではないかと思い至った。それは敬虔で平和主義者としてのミュシャの想いと繋がっているのかと思った。激しい戦闘場面は避けているが、白兵戦直後の死体の累々とした場面や、祈りの場の描写等々にこの白色が作品の価値を高めているように感じる。そして多くの作品に登場する、鑑賞者を見つめる民衆を代弁するような人の鋭い眼を際立たせてもいる。
 印刷した図録では味わえない効果だったと感じた。
 また、遠距離からの鑑賞にはつらいものがあるかもしれないが、抑制された描写に惹きつけられる白色の効果、といったものがあるのではないか。私の目には好ましいものと映った。
 等身大の人物ということにミュシャはこだわったのではないだろうか。画面手前に位置するように描かれた諸人物と鑑賞者はとても近い距離に見える。作品に描かれた群衆の中にスッと入ってしまう感覚にも襲われた。人物を等身大とすることで作品があのように巨大化したと考えると、頷けるような気がした。


ミュシャ展を前にして

2017年05月10日 12時58分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨晩はミュシャ展に備えて、ミュシャ展のカタログから「スラヴ叙事詩」の解説記事に目をとおした。全20作品の内、10作品の解説を読んだ。私などの知らない伝説や史実を下敷きにした作品であり、それもミュシャ自身の解釈による作品でもあり、描かれていることが何を意味するのか、理解できない。
 ミュシャがこれらの伝説や史実をどのように解釈し、何を描きたかったのか、これは実際の作品を見ながら、肌で感じるしかない。解説者の目をとおした鑑賞からは離れることは出来ないが、私の感覚も大切にしたいものである。
 戦後の日本に生れ、育った私などには、「民族性」や「伝説」へのアイデンティティというのはわからないし、またあまり触れないままに育った。そのようなアイデンティティに自己を同値することは厭うべきものとして生きて来た。一方でそのようなところで自己を安住させる人々に強烈な違和感と、ほんの少しだけの憧憬も持っている。これはあの戦争に至る日本型ファシズムの異様で醜悪限りない在りように対する強烈な嫌悪に基づいている。これはどうしても抜け出せないものである。
 ヨーロッパという民族と国家、言語や宗教が複雑に絡み合った世界が生み出す「民族」という幻想をどのように把握するのか、いつも答えは出てこない。私は見つめる側でしかない自分がどこまでいっても、渦中の人間になることは出来ないと感じている。
 こんどの展示で、どのような感慨が浮かんでくるのだろうか。




本日からの講座

2017年05月10日 09時35分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日は午前中が講座。案内チラシによると「18世紀中ごろまで西洋と東洋はほとんど同じような経済発展をたどったことが明らかになってきた。その後両地域の経済発展はおおいに違ってきます。この「大分岐」と呼ばれる現象は、なぜ起こったか」という問題意識で行われる。「この講座で重視したいのは、近代ヨーロッパで展開した知的な革命の影響です」となっている。
 江戸時代の17世紀から18世紀にかけての人類史としての同時代性という観点で美術史や文化史をとらえてみたいという欲求が私には強い。その思いとうまく切り結ぶことが出来るのであろうか。
 講師は神奈川大学名誉教授の山本通氏。4回の連続講座である。期待と不安が半々といったところである。