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住宅の哲学

2009年07月18日 | 住宅関係
 衣装に哲学があるように、住宅にも哲学がある。 
ソクラテスやカントを期待して訪れた方には残念であるが、私は観念的な論を好まないので、ここでは、哲学を真理の学問と定義したい。

 住宅の必要性は、人間の体が自然に対して余りにも無防備であるために起こることであるし、それは外敵に対しても安全に休息をとることが出来るようにそれなりの、丈夫さを有してなければならない。
分かりやすい言葉なので、政治の世界でよく取り上げ使われる、『安心』『安全』ということである。

 政治的な誘導か、経済的な誘導か、どちらも含まれてそうなったのだろうが、現在の家族形態は核家族を良しとして、社会が構成されている。 経済的には、その方が物は動くし、貨幣も動くので、なんとなく便利なような気はするが、それは本来人間が継承してきた文化、習慣、経験の継続を絶つ役割を促進している。 
そしてその核家族化が進んだ国ほど、国民はバラバラになり価値判断基準がすべて金銭で置き換わるようになる。 金銭で世の中を見るのではなく、善意で物事を計るように、生まれたばかりの赤ちゃんは、ご年配の人に喜びと生きる勇気を与えるし、子供たちは出来る範囲のお手伝いをし、青年たちは新しいことにチャレンジする。 そして、年配の人はその人が身につけた仕事をすれば、その個々人の役割、励ましあいとかで有機体として機能すると思われる。 かつての、東南アジア系住民はそれが普通であったのだろう。

幾世代か同居することによって、精神的には核家族のように自由奔放には行動出来ないので、お互い譲り合いをしなければ、一家を維持することが難しい。
戦前の、家族主義のように家長が全てを決める時代でもないし、家族がNOを突きつけることも許されない時代でもない。 お互いが少しずつ譲り合う心を復活させるうまい方法を考えたいものだ。

 現在の建築士の制度にもいろんな問題が内包されているが、最も矛盾をはらんでいるのが、そのクラス分けだろう。 職業訓練校卒でも、東京大学建築学科卒でも、その制度上では合格すればどちらも一級建築士である。
社会の需要によって、合格する難易度が違うこともあったので能力の違いは止む得えないが、その技術力はピンキリである。 かつての「アネハ事件」のこともあり、ますますその資格の内容は複雑多岐に進んでいる。 
ダニ公務員が天下りし、その複雑多岐の隅々まで講習を義務付け、講習会費を給与に充てんが為、複雑さを解消したくないと言う思いもあるのだろうか?
そして、確認申請で問題が出れば逃げまくり、結局責任者は居ないことになる。
国民目線ではなくて、退職金目線で勤め上げようとしているナサケナイ人が多い。

 本当の、国民の健康と安全は、資本原理主義が跋扈する中でかすんで見えなくなってしまっている。 建築学上からいえば、住宅は奥が深く一言では言えないが、始めに、精神的安寧の状態を保てることが住いの第一条件である。


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