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ちょっとした思い付きから

2011-04-27 | 思うこと
家の近くの桜も咲きだしました。
暖かくなったのでカメラ片手に散歩をすると、新しい発見があって楽しい季節です。
昨年中に南部小絵馬について調べたり、自分で絵馬絵を描いたりしたので、こんな時こそ復興祈願絵馬を描いて奉納使用と思いながら、工務店や製材所で木の切れ端をもらって歩いています。
たまたま近くの工務店でそんな話をしたところ、わざわざ絵馬型の木材を作っていただき、しかも御好意で頂いてしまいました。
それでは真面目に描かざるを得ないので、とりあえず描いた物が下の写真です。
墨と筆だけで表現したいと思いながらも、最初の一枚は思った通りには行かなくて、ちょっと弱々しい馬になってしまいました。
もっと力強い馬を描いて、津波被害のあった地域の寺社に奉納していこうと思っています。
なにしろ南部は馬の産地で、絵馬奉納の歴史もあった場所なのですから。
神様に願うということが昔から心の支えになっていたはずです。






4月のイベント

2011-04-26 | 青森イベント

~10日  フクジュソウの中を馬車運行
~24日  湯の島カタクリ観賞会
16日~24日  泉田之也 カワリユクカタチ  南部町ハッシャゲニア 11:00~18:00
23日 24日  ぎんなん寮 春の緑化まつり

気がつけば4月。春の野の花が咲き出す季節で桜の咲く季節です。
今年も自分の気になるイベント情報チェックを作ってみました。





さんのへ川の驛

2011-04-26 | 美味しいお店
自分の中には行ってみたい場所というのがいくつかあって、季節や天気や時間を考えながら少しずつ訪ねて行くのが目下の楽しみです。
同じ場所であっても季節によって全く違う風景を見せてくれますし、その場所のどの季節の何が見たいかでベストな時期を見定めるのもまた楽しい事です。
年によって早かったり遅かったりしますから、自分の家の庭の花の時期を参考にしながらどこへ行くのかを決めるのですが、もちろんハズレもあります。
花の時期には遅かったとか早かったとか、秋だったらとか。
でもそれはまた、もう一度行くための理由になって、いつまでたっても行きたい場所はなくなりません。
ハズレにも楽しい効用があるわけです。

行ってみたいと思いながら、なかなか行けない場所もあります。
わざわざ出掛けて行くには少し遠いけれども、近くまで行ったときに寄ろうと思っていて時間がなかったり、何かの都合で行けない事が続くとか。
そんな場所のひとつが三戸にある「川の驛」でした。
遊び心をくすぐるたくさんの作品がならんだ展示室と、三戸近辺の見所を教えて貰えるだけでも充分楽しく、おまけに郷土料理の「ひっつみ」(450円)も美味しくて言うこと無し。
絶対また行くと思います(笑)




さんのへ川の驛(えき)
場所   三戸町大字川守田字関根川原71-1
営業時間 10:00~16:00
定休日  火曜日




べき論と確率論

2011-04-21 | 人間心理
べき論は巷にあふれていて、その内容は物事を的確に指摘している場合が多いと感じます。
しかし「誰が」実行するのかが曖昧であり、現実的に実行に移すための行程が見えないので、言葉だけが表面を流れていってしまいます。
そして何かがあった後によく出てくるのも「べき論」です。
同じように事後に出てくるのが「確率論」で、「○○パーセントの確率はあった」という文脈で語られています。
確率を考えるとほぼゼロに近くても起きる可能性はありますが、現実的に形にするときどこまでを考えるのかは経済から考えるのが普通です。

たとえば10個のサイコロを振ったとして、すべての目が1になる確率は6の10乗の約6千万分の一で、ほとんど無いと言える確率になります。
この10個のサイコロを一つ一つ違う10色のサイコロにして、振ったとします。
赤は2、白は3、緑は・・・・と、てんでに出た目をひとつの組み合わせとすると、それは6千万分の一の確率で現れている事になります。
全部が同じ数字だと分かり易いだけで、何気なく振った一回ごとの数字の組み合わせはそれぞれ6千万分の一。
確率論では、ある組み合わせがいつ起きるのかがわからないだけで、非常に低い値でもゼロでなければいつかは起こる。それが数秒後なのか数百年後なのかの違いなだけで。


日本の技術や安全性が作り上げたジャパン・ブランド。
電力などのエネルギーが必要なのはジャパン・ブランドによってたつ製品を作り出し、ブランド力によって売る事です。
信用のための基盤が信用を壊してしまう現在の状況は、「ちびくろサンボ」で自分の尾を追いかけながらバターになってしまったトラを連想します。
この事故と災害から検証しなければいけない事はたくさんあるのだと思います。


原発事故考(上)失敗学会理事長・畑村洋太郎
「ゼロリスク幻想」とソーシャル・リスクコミュニケーションの可能性 山口浩


浅虫カタクリ祭り

2011-04-16 | 青森自然
青森のカタクリは今、浅虫の湯の島で見ごろです。
青森県内では一番早く咲きだす湯の島のカタクリは、春がここにもやって来た事を教えてくれます。
15日には9分咲きの状態でしたが、北側斜面は3分咲きなので後10日は楽しめそうです。
震災と原発事故で精神状態がなんとなく落ち着かないこの頃ですが、春は確実にやって来ることを教えてくれるのは早春の花ですね。
世の中の状態がどうであれ、季節に誠実である花を見るとなんとなく落ち着きます。
湯の島カタクリ祭りは24日まで。

 





災害に備えるために

2011-04-15 | 家庭・経済
停電やガソリン不足で日常生活が大きく変わった震災後。
そんな中、とても役立った生活習慣がありました。
コンポスターの使用と圧力鍋の利用です。
ゴミ処理施設の運転が燃料不足で止まり、ゴミの収集はストップしていました。
家庭でゴミの取り扱いをするのに困ることは、臭いの問題と量の問題が大きいと思います。
特に生ゴミは長い時間置いておくと腐敗臭が出てきますが、生ゴミをコンポスターで処理できれば臭いの問題もほぼ解決できて、量も半減します。
庭にほんの少しスペースがあれば、穴を掘って設置するコンポスターを通年使用できます。

オール電化や停電の長かった家庭では、停電時にカセットコンロを使用することもあったと思いますが、ガスボンベの使用量を少なくするのに圧力鍋は効果的です。
炊飯時間は普通の鍋よりも大幅に短くなり、その他の料理にも活用できます。
使用説明書を見ると、わが家で使用中のもので加圧後弱火7分とあり、一般的にホームセンターなどで売られている物も大体同じと思います。
加圧状態になるまで大体10分位ですから、ガスの使用量は少なくて済むでしょう。
省エネな生活を心掛けていましたが、災害にも強いとあらためて実感しています。

以上は災害時にどう対応するかの話ですが、忘れてならないのは、災害があった場合に自分も死ぬ可能性もあることです。
一番大切なのは悔いのない生き方をしているかどうかで、それは何か大きな事を成し遂げることではありません。
大切な人を大切にしていたかとか、もし自分が死んだ時に残った人を悲しませないような心配りができているかとか、子供がいるなら子供が自分の人生をしっかりと生きられるような語り掛けをしていたかとか、そんな日々を送っている事だと思うのです。




正しい買いだめのススメ

2011-04-13 | 家庭・経済
家庭は生活物資のストックの場でもあります。
常日頃から、もしもの場合に備えて一週間分の食料・生活物資をストックしてありますが、震災後はほぼゼロ状態まで無くなっていました。
直近の大きな余震の確率は減ってきたとはいえ、スマトラ沖地震の予後を見ると、大きな余震は今後も続くと思われます。
少しずつ家庭内にストックを積み上げていくことが大切なのですが、一度に買ってしまうのは震災後の買いだめ行動から起こった物資不足の状況から見ても、買った品物をきちんと消費する観点から見ても無駄の多い行動と言えます。

備蓄用品を買うに当たって、いきなり大量に買っても保管場所に苦労します。
家庭でのストックが1週間分を切ったなら次を買う。
そのストックを10日分、2週間分に徐々に引き上げていく。
特に食料品では消費期限もあるため、一度に大量に買い込んでしまうとうまく消費できません。
大震災の後に役立ったのは乾物類でした。
豆腐はしばらく入手できませんでしたが、高野豆腐は汁物や煮物で豆腐の代わりとして重宝しました。
野菜不足には切り干し大根・すき昆布で対応していました。

春になって庭の植物も芽を出してきましたが、家庭菜園も有効ですね。
ただ野菜は収穫時期が短いので、シソ、万能ネギ、パセリなど長く収穫できる薬味を植えておくのも便利です。
家の北側など日当たりの悪い場所に空きスペースがあれば、山菜のミズ(ウワバミソウ)がいいですね。
よく増えて収穫時期は春遅くから秋まで続きます。




豊かな暮らしとは何だろう

2011-04-12 | 社会
ネット上では反原発の声が大きくなっています。
私はずいぶん前に、ある知人と話していた時に感じた違和感が消えません。
最新の家電機器に囲まれクーラーの効いた友人の部屋で、何気ない雑談の合間に友人の語った一言。
「私は原発反対よ。」

当時は私もまだ未熟で、違和感はあるものの何がどのように変なのか明確に説明できるスキルも無かったのです。今なら説明できるかというと、そうでもないのですが。
戦後日本の経済は輸出と内需に支えられていて、時代ごとに「三種の神器」があり庶民の憧れでもありました。
3Cと言われたカー・クーラー・カラーテレビの後は、新たな三種の神器という格付けは無かったものの、各種家電製品が世に送り出されて「ちょっと便利」な生活は当たり前のものになりました。
新しい電化製品が普及すればそれに見合った電力が必要になります。
製品を作り出す工場でも電気は必要になり、発電・製造・消費の関係は縄をなうように歩調を合わせて拡大してきました。
「ちょっと便利」な生活に慣れてしまうと生活スキルの世代間伝承は途絶えてしまいます。
手に職をつける、そんな言葉も使われなくなり、包丁を使えるより学歴と将来の収入が大切になって受験戦争へと流れは向かいます。
生活の中の楽しみはお金とエネルギーに換算され、お金があれば楽しく暮らせると誰もが思う、そんな世の中になりました。

私はそんな考え方は好きではなかったけれど、そうして回っている経済があるからこそ生きて楽しく暮らせているわけで、昔の友人の一言に対する違和感を声高に主張することもできないし、間違っていると言うこともできない。
ただ「ちょっと便利」な生活の代償はとてつもなく大きくて、大震災後に今の自分の立ち位置を多少でも見直そうと考える人が増えてくるかもしれません。

一つだけ、もしもこれから新しい方向に進みだす時には、「不便を我慢する」というマイナスのベクトルで考えるのではなく、「持たない生活の楽しさ」を追求するプラスのベクトルであればいいなと思っています。
いつの時代も人間は楽しみを見つけながら生きていたはずで、ささやかな娯楽を楽しめるのも人間の能力のひとつです。



電気でなくてもホドホド快適・便利 非電化製品カタログ

ロハス(LOHAS)の登録商標の無断使用でシャープが三井物産とトド・プレスから警告



生活のスキル

2011-04-10 | 家庭・経済
小さい頃に母親の手仕事を眺めて育ち、成人してからは登山などのアウトドアや一次産業にたずさわる友人がいて、そんな人たちが身に付けている自然との付き合い方の知恵に憧れていました。
今でも少ない道具とエネルギーでどれほどたくさんの事が出来るかが、毎日の生活において個人的なテーマとなっています。
庭にコンポスターを置くのも、フードプロセッサを持たないのも、機械の力に頼らず身についた生活技術を活用するすべを楽しむためにしています。

人間の両手は道具を器用に操れるように出来ていて、それを繰り返すことによってより精度の高い技術へと昇華させることが可能です。
日本人は器用であると言われているのは、植物を利用して生活する日本の気候と深く関わっていると思います。
木と紙の家を作り出すのも、それをうまく使っているのも、手に加わる力を高い精度で操る技術のはずで、電力の無かった時代の人々は各自が当然のようにそんな技術を身に付けていたはずです。
科学・産業が発達して日々の雑用を電化製品が変わってこなしてくれると、そんな生活技術を身につけることは省みられなくなってしまったけれども、それでも「ダッシュ村」で見る農家の生活の知恵は、多くのとの興味を引きました。
昔の手仕事や生活技術が素晴らしい人間の能力であることに同意する人も多いのではないかと思います。
しかし実生活でそんな技術を補ってくれる電化製品に囲まれて暮らしていると、わざわざ時間をかけて自分ですることも少なくなってしまいます。
技術の進歩とは、実は人が身につける生活技術の喪失を伴います。
しかし、生活技術を肩代わりしてくれた電気機器は停電になると全くの無力です。
お金を払えば、電気を使えば機械がやってくれた仕事。それをこなすスキルも今以上に必要な世の中になるのかもしれません。




安心のための努力

2011-04-06 | 人間心理
『安心』には何も実体がない。
実際の状態がどうあれ、事象と全く関係なく「安心」は存在するのだと福島原発事故の成り行きを眺めながら考えていました。
東京電力が『安心』のための広報に力を入れていた事にも批判がありますが、安心とは個人の心の中にしかないもので、客観的事実とは関係なく生まれ出るものだとしたら安心感の広報をすることは間違ってはいないと思います。
問題は実際に『安全』のための対策がどうだったのかという事で。

「安全・安心のため・・・」という言い回しで並ぶ二つの言葉は、並べて使っている間に同じものとして認識され、「安全だから安心」から「安心だから安全」への変遷があったのかもしれない。
『安心』を強く求めるうちに前提となる『安全』は置き去りにされてしまった。
ほんらい求めるべきなのは『安全』であって、安心するために必要なのは意味を理解するための知識だったのだと思います。
そして『安心』のために必要な努力は際限がないのです。あくまで心の中の問題であるために。
原発の問題だけでなく、『安心』を過剰に求めるあまり、逆に大きな損失やリスクを作り出している場合も多いのではないでしょうか。