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山王信仰と三つ又の巨木

2014-11-15 | 巨樹・巨木と伝承 三頭木
二年前の暮に川倉賽の河原へ行った際に見た山王鳥居。
祭神は地蔵尊のはずでしたが、青森県では観音堂に鳥居があるのはごく普通の事なので特に深く考えずにいました。

山王信仰は比叡山の土地の神を祭る神社として、延暦寺よりもその起源は古いのではないかと言われていて、元は「比叡(ひえ)社」の名称から、文字を変え読みも変わって現在の日吉(ひよし)神社に至っています。

平安時代から続く神仏習合によって、寺と社の違いはあっても天台宗の影響を山王信仰は色濃く受けています。
祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)と三輪山の大物主神、聖真子は山王三聖といわれ、「三」の数字が重要なキーワードになっています。
これは天台宗における真理として「三諦」があり
 ・空諦(くうてい) 一切の存在は空である真理
 ・仮諦(けてい) 一切存在は空であるが因縁に従って現象している真理
 ・中諦(ちゅうてい) 空諦、仮諦に偏らず高次に統合されている真理
この「三諦」を心に観ずることを「一心三観」といい、「山王」の文字はどちらも一心三観をあらわしていて、「山」も「王」も三本の線とそれを繋ぐ一本の線でできているからといわれています。
考えてみれば三つ又の木は「山」の字そのものとも言えるわけで、文字の持つ霊性を強く感じていた時代には文字の形を象る事に意味があったのかもしれません。

江戸時代に多かった修験者は明治の修験道廃止令によって仏道や神道へと鞍替えしていきました。
廃止令前の山伏17万とも言われていて、人口3千万の時代にはかなりのボリュームです。
今熊神社の歴史には修験道本山派の青森県内における歴史が描かれています。
修験道本山派とは京都聖護院を頂点とする修験道の派閥で、青森県南では新郷村にある寺を頂点としてヒエラルキーが出来ており、院号授与のために京都まで出向いたとの記載もあります。
修験道にはおおまかに二つの系統があり、

 天台宗(比叡山) ≒ 京都聖護院 = 本山派修験道
 真言宗(高野山) ≒ 吉野金峯山寺 = 当山派修験道


青森県内ではこの二つの派閥がまだら模様のように勢力を持っていたと考えられますが、明治期の信仰破壊によって曖昧な状況になっいます。
しかし本山派はそれなりの信心者数を持っていたと言えますし、『山王権現』とも言われていた日枝神社の祭神、そしてそれに関係する本山派修験道の教義の中に、三の数字を特に神聖視するエッセンスがあったとしてもおかしくはありません。
もしくは、より古くからある三つ又の木の言い伝えと融合していたとしてもおかしくはないとも思います。

山王権現(付随する「三」の神聖性)≒大山咋神≒山の神

このように並べていくと、山の神と三つ又の木の言い伝えも同じつながりのようにも思えてきます。








北山の三本杉

2014-07-05 | 巨樹・巨木と伝承 三頭木
梅雨の晴れ間に見学してきた巨木。
山の神として祭られる三頭木の杉巨木です。
こんな場所に、と思うような場所にあって、道も付いているものの消えかかっている状態でした。
それでもこの木の周囲は綺麗に刈り払われていて、今でも大切にされている木なのだと感じました。

先日『杣と木地屋』という本を入手して読んでいたところ、神奈川県の丹沢山地にも神木として切ってはならない木があり、その条件には窓木(連理木)などの他に「三本並んだ木」があるとの記載がありました。
「三本並んだ木」という表現は、十和田市の三本木の地名の由来にある木が、じつは三つ又になっていた木ではないかという事例もあり、別々の木が三本並んでいるのではなく、三つ又状になっている木の事をこのように表現したのではないかとも考えられます。
自然の中に生えている木が三本並ぶのはよくあるために他との区別が難しく、神の木として認識されるにはそれなりの特徴が必要です。
木地師は、流通の不便であった時代に良材のある場所を移動しながら轆轤木工をしていた職人で、その移動範囲は一人の木地師が関東東北地域を移動範囲とするほど広いという調査もあります。
そのような木地師の持つ信仰観は全国にあっても不思議ではなく、ただ明治以降急速に忘れ去られた信仰感覚がどれほど伝承されているかの違いにすぎないのかもしれません。

この日、三つ又の形状に対する信仰心の大元は何だったのだろうか、という話になり、八咫烏の足が三本である事、鳥の足跡は三つ又の形をしている事などが話題になりました。
神社の鳥居も、名称は「鳥・居」です。
山の神研究で知られるネリー・ナウマンの著作「生の緒」の中でも、縄文土器に現れる三本指の人物像が指摘されています。











三本木村の名前の由来と三頭木

2013-10-27 | 巨樹・巨木と伝承 三頭木
「三本木(さんぼんぎ)」という地名の由来

この三本木地方は、十和田山(十和田湖)の噴火によってできた火山灰土壌の扇状地帯で、古くからただ荒漠たる平原であった。そしてこの土質のため雨水もすぐに地中へ入ってしまい、樹木もあまり生えなかった。夏は暑い日差しをさえぎる樹木がほとんど無く、また太平洋からは冷たい「やませ」が吹き、冷害を起こし、冬は西北から吹く「八甲田おろし」のためものすごい吹雪となり、この平原で凍死する者が多かった。古くは、主に馬の放牧地帯となっており人が住むのにはあまり適さなかった。この場所に遠方からも良く見える三本の「白たも」の木があった。これは根元から三本にわかれた大木で、現在の十和田市元町の北側、大清水神社の境内にあったという。人々はこの大木を三本木と呼び、いつの頃からかこの地方を三本木、平原を三本木平と呼ぶようになったと伝えられている。

新渡戸記念館HP 三本木原開拓の歴史より抜粋

十和田市の古い地名である三本木。この三本木が生えていた、十和田市の大清水大明神で、この名称の由来は三頭木の信仰と関わりがあるのではないかという仮説の説明会がありました。
東北巨木調査研究会の高渕会長、青森県文化財保護協会会長 盛田 稔氏、釜渕樹木医、市文化財保護協会顧問 山崎氏の説明によると、三本木の地名はこの大清水大明神に生えていた樹木に由来するもので、一本のシロタモの木が三つ又に分かれていて、その木が遠くから見えるほどの巨木であったためとのこと。

南東北に自生するクスノキ科の木でシロダモの学名をもつ樹木があって、でもその木は自生北限が南東北のため、青森県内での自生はない。
ではこの木はどんな樹木であったかは疑問のままです。
シロタモの樹木名は植物に多い地方名であり、該当するのはヤマトアオダモかヤチダモではないかと、意見のまとまらない部分でした。
この三つ又に分かれた木は幕末の頃に倒れたといい、その時に切ったりすれば禍があると云われ、その木は朽ち果てるままになっていたとも。
アオダモの木は今では野球のバットの原木として有名ですが、当時でも木材として高価なものであったでしょう。
そんな樹木が朽ち果てるままになった理由の中に、「三叉の木には神が宿るから切ってはいけない」という山の神の信仰観が覗えます。
身近な地名の中に、三つ又の木に関する言い伝えの名残を感じました。


“三本木”の由来とされる樹種を調査

 
 





山の神と日本人

2013-04-08 | 巨樹・巨木と伝承 三頭木
山の神と日本人(佐々木高明著)を読みました。
日本人はどこから来たのか、また、東北に住む人々と西日本では文化的な違いがあると感じるのだけれども、その違いはどの時代からあって、現在どんな痕跡を残しているのかという疑問に、仮説ながらも興味深い話が続く内容でした。

昨年秋に青森市で全国巨木フォーラムが開催された折、三頭木(三つ又の木)の言い伝えが東北には残っているという東北巨木調査研究会の高渕会長の話に、会場から「インドのシバ神の持つトライデント(三つ又の剣)はシバ神の象徴である」という御意見が出て、この二つの関連について述べておられました。
『山の神と日本人』では山の神の信仰観とよく似ている信仰観が、東アジア・東南アジア・南アジアにまで広がっていると焼畑農民の祭りの調査などから説き起こされています。
これほど広い範囲を持つ信仰観は、何かの宗教とともに広まったと考えるより、人類のグレート・ジャーニーの時点ですでにあった信仰観ではないかとも考えられますし、そうであるなら、ささやかに調べていた私の想像にも及ばぬ古い時代の記憶という事になってしまいます。
東北に広く分布する三頭木の言い伝えは、後からヒンドゥ教が伝わったためであると考えるより、同じ信仰観を持つ広い文化圏の中にあるためと考えた方が自然です。
しかし、同じ信仰観を持つ稲作以前の文化が、アジア大陸の東に広くあったというのも、なかなかに壮大な話とも思います。

昨年の全国巨木フォーラムでご意見を述べられた方の内容はこちら。
三頭木または三又の木
まだ定説の無い歴史についてあれこれと思いを馳せる楽しみが歴史にはあって、分からないからこそ面白い。ヒンドゥ教が日本に伝わったのかもしれないし、同じように元々あった信仰観を習合していった修験道とヒンドゥ教は似ているのかもしれない。
答えが無いからこそ、考えることが面白い。





三頭木とはなにか

2012-09-26 | 巨樹・巨木と伝承 三頭木
東北巨木調査研究会で提唱している「三頭木」は、山の神の信仰がある三つ又の木を意味しています。
これは、ミツマタという名前の樹木があるためと、もうひとつ、単に三つ又の形状になっている木と何がしかの信仰がある、もしくはあったと推測される木を識別するために使っています。
八甲田のブナの巨木「森の神」も見事な三つ又の木で、周囲に社などの信仰の形跡はないものの、周囲の木は皆伐採されているのに、不思議と切られずに残っている巨木です。
この地域で今も残っている「三つ又の木には神が宿るから切ってはいけない」という言い伝えがあり、信仰心に関わる理由のために残されたと考えています。

しかし、山の神の憑代といわれる木は形だけで決められるものではなく、昔の人々が神の憑代として認識していたかどうかが重要になってきます。
明らかに山の神の宿る木であると、はっきりと分かる巨木が岩手県水沢市の一本木のコブニレです。社が無く鳥居には「山神社」の遍額が掲げてあり、この木自体が御神体になっています。
根元から大きく左右に分かれた幹部分をよく見ると、折れて朽ち果ててしまったらしい太い支幹の跡が分かります。元々は三つ又の樹形であったため、このように祭られているのでしょう。

一本木のコブニレ 日本の巨樹・巨木より




もう一つは階上町平内にあるホウノキで、やはり地際から三つ又に分かれたホウノキに向かう小道には鳥居があり、木の横には小さな社もあります。
鳥居には扁額は無いものの、鳥居をくぐって見上げると正面にあるこの木が御神体であろうと推察できますし、このホウノキは三つ又であるだけでなく二本の支幹が2mほど先で癒着している「窓」(連理)を持っていて、昔の人々がこの木を見て神の宿り木と認識したと想像できます。




三頭木とは、
 ○昔の人々が
 ○神の宿り木との共通認識を持つ
 ○理由である形としての三つ又の樹形 であり
 ○実際に信仰の対象になっていたか、伐採されずに残されていた
このような定義が出来るかと思います。
これについてご意見などありましたら、ぜひコメントをいただきたいので宜しく願いします。
 





山の神

2012-05-24 | 巨樹・巨木と伝承 三頭木
三つ又の木の言い伝えに興味を持ち、関連本を探しては読み耽っていたなかで、読めば読むほど増えてくる疑問を簡潔に解説してくれたのがこの本でした。
ネリー・ナウマン 『山の神』
この本では山の神を、山の木や動物の所有者であり土地の所有者としています。
山の神の祭りは全国的に存在して、祭のしきたりなど記録も多く残っていますが、千年以上の長いオーダーの中で、他の宗教との融合を繰り返し、地域独自の変遷もあり多様な様相を呈しています。
共通する条件はやはり土地の神だ、というシンプルな分析は、複雑に絡まった糸をほどいて見せるような爽快感すら感じました。

『常陸国風土記』で引用の多い、行方郡の条の夜刀神(やつのかみ)に関する記述では、土地の神と人との関係が読み取れます。
口訳 常陸国風土記
昔,箭括(やはず)氏のまたちといふ人があって、郡家より西の谷の葦原を開墾して、新田を治った。その時、夜刀の神たちが群れをなして現れ出でて、左右に立ちふさがったので、田を耕すことができなかった。それを見かねたまたちは、鎧を着け矛を執り、立ち向かった。そして山の入り口の境の堀に標(しるし)の杖を立て、「ここより上の山を神の住みかとし、下の里を人の作れる田となすべく、今日から私は神司(かむづかさ)となって、子孫の代まで神を敬ひ、お祭り申し上げますので、どうか祟ったり恨んだりのなきやう。」と夜刀の神に申し上げて、社を設けて、最初の祭を行った。(俗に、蛇のことを夜刀の神といふ) (中略) 壬生連麿がこの谷を治めることになり、池の堤を築いた。そのとき、夜刀の神は、池のほとりの椎の木に登り群れて、なかなか去らなかった。

仮の姿になって現れる土地の神と土地を利用する人間との棲み分けを媒介するのが、神への祭りや物理的な境界としての石や樹木であったりする中で、境界を示す石や樹木もまた神格と認識されるようになったとも考えられる例でしょうか。
中略以降に「夜刀の神が椎の木に登り群れ」との表現があり、「神が宿る木」の具体的なイメージが湧きます。少し今までの想像とは違いますが。
所有者である神はすべての動物になれる可能性があるとも、すべての動物と同体とも理解できそうですが、人々が神性を感じた動物が神格を持つ事になるのでしょう。そんな動物の来る木が神の宿る木かもしれない。

アルビノや、並はずれて大きくなった動物などに山の神の神格を認める例は多くあります。
植物にも神格を認めるものの一つが三頭木(三つ又に分かれている木)であり、窓木(別れた枝が先で癒着し穴になった状態の木・連理)ですが、人々がその木に神を感じる条件である三つ又・窓の木の言い伝えの多くは、この木自体が神なのではなく、この木に神が宿る・来るというものです。
山の神のいる場所として木を祭ることで、神格も後から認識されてきたとも考えられます。神の座である磐座のように。
山の神は動物の姿になって現れる山の所有者、と今の時点で考えています。


アイヌ語の中にも動物や植物の神の名前があるほか、9世紀頃の東北で「連理」が見つかったとの都への報告があるなど、樹木と神の関係は古くから日本各地にあったと推察できます。
アイヌ語の場合は木自体が神であったらしく、神の来る場所とは少し違うようにも思うのです。

バチェラーWEB蝦和英辞典より
Shirampa-kamui シランパカムイ
The name given to any tree regarded as one's guardian deity and so worshipped. such a tree may be taken as the hunter's caretaker. the places where such tree's glow are held very sacred.
訳> 崇拝され名前の付けられた木は人の守り神として祭られた。そのような木は狩人の守り神でもある。この威光の木があるのは非常に神聖な場所。

Shiko-koro-kamui シココロカムイ
樹木 (土地の神聖な所有主) n. A tree. ( lit: "Divine possessor of the ground" )






参考図書  青森県史 資料編 古代1




山と森と山の神

2011-12-24 | 巨樹・巨木と伝承 三頭木
青森の方言と言えば津軽弁と南部弁、それと下北弁があるそうです。
独特のイントネーションの他に単語の違いもあって、慣れるまでは話の意味を理解するのに苦労しました。
その頃聞いた話で興味深かったのが「ヤマ」という言葉の持つ意味です。
「ヤマで山菜を採ってくる」のような場合、私はそれを「山」と理解していたのですが、詳しく聞いていくとその「ヤマ」は平地や丘も含んでいて、木の生えている林の意味に近かった。
関東生まれの自分にとって「山」はピークを持った高さのある山で、平地を「ヤマ」と呼ぶことに不思議な違和感を感じていました。
確かに木が生えていれば高く盛り上がって見える、などと自分の理解に引き寄せて考えていた記憶があります。

最近「森」の話を聞きました。
当地では苗字にもなっている「一ッ森」「二ッ森」。
大きな山の頂上から数えて一つ目の小さなピークを「一ッ森」、二つ目のピークを「二ッ森」と呼ぶとのこと。
山の中に「二ッ森」と呼ばれる場所があれば、そこから二つ目のピークが頂上と分かるのは実用的な名付け方と感心してしまいました。
「森」といえば高低に関係なく木の鬱蒼と生えている場所と認識していた自分にとって、小さなピークを表す「森」は意外でした。
「山」と「森」の言葉の意味が逆転しているかのようです。

近在でよく目にするのが山の神の祠です。
それは大体において集落のはずれの林の中に祭られている小さな祠で、御神体も無い場合が多い。
山の神は青森だけではなく全国に存在しますが、仏教とも神道とも違う信仰といわれています。
山の神ですから当然山岳信仰と同じものと思われていますが、山岳信仰は神格があると思われる高い山に対する信仰で、「山」が表わす意味が違えば、山の神は山岳信仰とイコールではなくなってしまいます。



少し前の大河ドラマで話題になった、兜に「愛」の字を掲げた武将がありましたが、あの「愛」は当然現代で理解されている愛とは違う意味があると知人と話し合ったことがあります。
当時の感覚で「愛」と掲げるとすれば、上杉謙信の「毘」と同じ様に愛染明王からとった一字ではないかと私は推測したのですが、信仰に根差した文字の意味は揺らぎの多いものの上、時代によって受け取り方が違うと感じたものです。

蛇足ながらその大河ドラマを見ていないので、どのような解説があったのかは今でも分かりません。




巨木と信仰 3

2010-12-25 | 巨樹・巨木と伝承 三頭木
神道において神様の数え方は一柱、二柱です。
神社の御神体は人間の形からイメージされた神像ではなく、石や鏡や玉である場合が多く、御神木と云われるように樹木が神とされる場合もある。
八百万の神は全ての自然物に宿るわけですから、御神体も様々であってもいいはずですが、樹木の神格化の例は全国といわず国境を越えて多くあります。
樹木を木材まで広げて考えれば、例はもっと多くなります。日本は木材で家を作る位ありふれた素材だからとも言えますが、それだけとも言えないような。
木柱といえば諏訪大社の御柱祭を思い出しますし、ストーンサークルの木柱版ともいえるウッドサークルは縄文時代まで歴史を遡ります。
神を柱と数えるその後ろには樹木を神格化する考え方があるのではと想像してしまいます。

寺社巡りをしていると、地面に挿した杖から根付いたという御神木の謂れがよくあります。
杖の持ち主は高僧であったり歴史上の有名人であったりと様々ですが、杖と大地が生み出す不思議は樹木に限らず、泉が湧き出した理由にもなっています。
杖もまた木であって、木-柱-杖は神または神の依り代として扱われ、密教の呪具としての錫杖には神聖な力があるとみなされます。
さらに箸もその関係につながって、茶碗に盛ったご飯に箸を突き立てることは現代でも葬祭儀礼の一つです。


四国には山の忌み木として錫杖木(しゃくじょうぎ)と呼ばれる木があるそうです。
錫杖の形を見ると○と1が合体したФ型ですが、自然樹形として想像すれば三股か窓型になるのでしょうか。
物の形がその性質を現している、という考え方は古くからあり、薬草でも「葉の形が~に似ているから~に効く」のような言い伝えも多くあります。
樹木は成長過程の偶然からとても変わった形を作り出すことがあります。
奇異な形を尊ぶ以外に、神聖を現す何かに似た形のものをもまた神聖であると捉える信仰も広くあります。
たとえば観音様に似た自然石を神として祭るなど。

錫杖は修験道において重要な呪具です。
修験道といえば日本全国に霊山がある山岳信仰で、山で仕事をする人々と修験者・山伏の信仰は関係が深い。
三股の木と神の言い伝えに関連がありそうです。

ちなみに修験道といえば真言、天台の密教と繋がっています。
密教の呪具である三鈷や五鈷の形は三股の木とよく似ている。個人的にはこのあたりが三股の木の言い伝えの元ではないかと思っているのですが。


参考図書
箸と俎  鳥越憲三郎 毎日新聞社
カミの発生  萩原秀三郎 大和書房


巨木と信仰 2

2010-12-24 | 巨樹・巨木と伝承 三頭木
山で木を切る杣人・山子といわれる人々も機械化された現代ではほぼいなくなり、その伝承も途絶えようとしています。
そんな山仕事を書籍より抜粋してみました。

採面を分ければ、山子の仕事に入るわけだども、最初の一日は一本だけ伐って飯場に帰ると、山の神様に拝んだものだス。これを鉞立て(まさかりだて)といったが、これがら山で仕事するんて、怪我しないように守ってけれど、山の神様に頼むわけだスな。
(P60)

杣が山に入り木を切るとき、一番大切なことはその木が倒れる方向だ。高さが30メートルぐらいもあり、1トン以上もの木が倒れるのだから、極めて危険な作業だ。<中略>・・そのとき、うまい杣人は狙った方向に正確に倒す。もちろん人のいる方向には絶対に倒さない。それだけでなく、倒すとき、別の木にぶつからないように倒す。別の木にぶつかると、倒された木もぶつけられた木も傷がつき、材としての価値が下がってしまうからだ。
(P95)

【聞き書き資料】秋田杉を運んだ人たち 野添憲治著 御茶ノ水書房


山で木を切る仕事は危険と隣り合わせでした。
作業の安全を願って山仕事を始めるときは山の神様を祭り、山の中での戒律も厳しく守られていたそうです。
仕事中は尻を下ろすな、木を倒すときは大声を上げよ、など安全のために必要な戒律もありますが、山の神様は女性だから身だしなみを整えなければいけない、など宗教的な戒律も多かったようです。
どちらとも言えないのが「忌み木」に関する言い伝えで、暴れ木、癖木、窓木など。伐ってはいけない、伐ればよくない事が起こると言われていた木の事で三股の木もここに含まれます。
これは奇異な形をした木に神性を感じるからという理由の他に、伐り倒す際にどこへ倒れるのかの予測が付き難く危険だからとも言えるのでしょう。
上に挙げた書籍の中にはこのように書かれています。

ただ、現場には何本かの、特別に難儀な木があったもんだス。根上がりをして棚を組まんと伐れない木とか、丸太のような枝がついている木とかで、これをあぼれ木といったものね。

今も生きている巨木は何かしらの理由があって伐られずにいた木でした。
その理由の一つに、伐り倒すさいの危険が挙げられます。
伐り倒す事もあったものの、神様の依り代などとしてそのまま残しておくことも多かったらしく、そうして残った木が神格化した場合もあったはずです。
杣人・山子と同じように山に用材を求めて入っていた木地師は、山に作業小屋を作るとき、近くの老木や巨木を御神木として祭ったとも。
日本において神は、災いをもたらす者でもあったのです。



参考図書
秋田杉を運んだ人たち 野添憲治著 御茶ノ水書房
本朝巨木伝  牧野和春 工作舎
木の聲  橋本正 小学館


巨木と信仰 1

2010-12-23 | 巨樹・巨木と伝承 三頭木
額に文字といえばマンガ「キン肉マン」を思い浮かべます。
東北地方では「ヤスコ」「アヤツコ」ともいわれ、乳幼児の額に×、犬、○などの文字を書き魔よけとする習俗です。
「アヤ」は×または十字を意味して、もとは×や十であった記号が犬、大などに変化したと考えられていて、東北に限らず全国に見られ、鎌倉時代には皇子女の幼少時の外出前に額に「犬」と奉書する慣習もあったとの事。
幼児だけでなく、葬送儀礼において遺体や葬儀を出す家に×印を記す習俗も全国に見られます。
「七歳までは神のうち」であった幼少時と、人が亡くなった印としての×や十。
まじないや民話の中に登場する二つの線が交わる記号は、ある種の神秘性を持っているようです。道路の交差する「つじ」は異界と現世の出会う場所ともいわれ、辻占いは現在でも生きている他、×には封筒の綴じ目に書かれるように封印の意味もあります。

青森県三戸郡地方や階上町晴山沢地区では三十三年忌に「マッカトウバ」「マダカリトウバ」といわれる、上部が二股または三叉になった落葉樹の丸木の塔婆を立てる習慣があり、アイヌと青森、岩手二県で同じ習俗が認められます。東日本には広く動物供養のためY字型塔婆を立てる習慣があったと記録されていますが、人の供養のための二股、三股の塔婆は弔いあげの際で、神様の領域へ移行する大きな区切りであり、人と神との境界を暗示しています。

十字型の他にY字型に関しては、二股の間から覗くと魔性の者が見分けられるとする俗信も多く、以下のような例もあり、十字型と意味の重なる部分も見られます。
・菅江真澄「けふのせばのゝ」 和賀と江刺の境界争いに白狐が現れたことから、二股の木を植えて境界を決めた
・古事記 根国行き 最後の部分 大国主命となった大穴牟遅神は八上比売を因幡から出雲へ連れてくるが、正妻の須世理毘売を畏れて生まれた子供を木の股にはさんで因幡へ帰ってしまった



×や十、Y型に関する習俗、伝承を拾い上げてきましたが、実はこれは前フリです。
「三頭木には神が宿る」という言い伝えを調べています。「三頭木」とは同じような太さで三股に分かれている木のことです。
三股に分かれた木の形を見ると、その要素としてYと十の形を含んでいて、型の持つ意味合いは伝承の意味を浮き上がらせてくれると思うのです。

林業・杣・山子の関連書籍を調べていくと、確かにこの言い伝えが出てきます。
『東北の生業 1 農林業』(明玄書房 昭和55年発行)では東北6県の内秋田県を除く全ての県で「三股の木」についての記載があり、秋田県に記載がないのは秋田杉についての記載で紙数を割いているため、このような伝承がないからではないと推察できます。

三股の木は ・神が宿る       ・惜しみの木
      ・山の神である     ・山の神のとまり木
      ・神の休み場である

表現は少しずつ違いますが、山の神と深く関係のある木が三股の木であることが分かります。
この他、「窓木」といわれる木も記載されていますが、二股になった木の枝が窓を開けたように上で交わる場合の他、単に二股の木としている場合もあり、上のY字型の俗信にもある通り、のぞき窓としての意味合いがあると思われます。

ここまで書いてきて、二股も三股もおなじでは ? と感じた方も多いと思いますが、三股の木について別の見方からの話はまだ続きます。

参考図書
しぐさの民俗学
井之口章次 日本の俗信
近代八戸地方の農村生活 八戸市発行
人・他界・馬
古事記
東北の生業 1 農林業(明玄書房 昭和55年発行)