巫病と言うものがあって、神の託宣を聞く人が、その力を得る前に罹る体調の変化を指しています。
青森県はイタコやゴミソ、オカミサンなど巫業に関わる人が現在もいて、そういった技能を身に付けた時の話を聞くことも多い。
そんな風土であるため、巫病らしき病の人がいればその人の経過に関心を持つ事も多くあり、巫業というのは神がかりをする本人と周囲の期待との間に生まれてくる職業とも言えるでしょう。
板柳にある赤倉神社は、赤倉沢で神になったといわれる明治時代に実在の人物を祭っている社です。
奥の院は岩木山の赤倉霊場にあり、板柳の赤倉神社は、その人の家の敷地に創建された神社で、今も信仰する人は多いと感じます。
明治時代の人物ですから古い社ではありませんが、信仰心がどのように醸成されたのか。また、この地方特有の信仰感覚を考える上で人々がどのように認識していたのかがよく分かる、そんな神社でもあります。
地域によって信仰の形は変わってきます。でもその違いこそが地域の特色を炙り出す指標のような物だったりします。
津軽という独特の文化を、このような信仰心から考えてみるのも興味深いものです。
「古い」というのは、実はとても大きな魅力の源泉だと確信しています。
新和村種市の対馬佐治兵術といふ人の兄が代わり者で山人になったといわれてゐる。十七、八歳のころから性質がボンヤリとなり、寒中でも白衣一枚で褌をしないで座って目をつむり、人が近寄っても他を向いて物も言わないといふ風で、いつ誰が言ったともなく、この人を神様と呼び、その父の手を経てこの神様から護符をもらうやうになった。しかし、心が進まぬ時は、いくら父から乞はれても与えてくれず、尚はげしく言われる時は日をつむったまま、座ってゐるところを探ってふれたものを手あたり次第にくれてやった。多くは節のある一、二寸のわら片であるが、そういふ時は神様のきげんが悪いから病人の看護に気をつけよと、その父が護符を乞ふ人々に注意してやるが、その病人は助かることはなかったといふ。(中略)
寒中でも、例の学衣で外出し、三十日間も家に帰らないこともあった。ある時、今日は遊びに行くぞといふので、父が握り飯二つを持たせてやったが、それっきり一ヶ月経ってもニケ月経っても帰らなかった。父も心配して村人に頼んで山を探したところ、岩木山の赤倉といふところに着物が、たった今脱いだやうに捨てられてあったので、父は帰宅する腹がないのだらうといって、そのまま引返した。
翌年、この家の苗代田の傍の平地の体み場に不思議にも清水が湧くやうになったが、地方の人は、これは神様の与へた水だといって崇め、眼を痛む人がこの清水で洗ふと治るといはれ、今はここにお堂も建ってゐる。
『津軽海峡夜話』―― 福士四郎、昭和一五年「種市の神様」
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青森県はイタコやゴミソ、オカミサンなど巫業に関わる人が現在もいて、そういった技能を身に付けた時の話を聞くことも多い。
そんな風土であるため、巫病らしき病の人がいればその人の経過に関心を持つ事も多くあり、巫業というのは神がかりをする本人と周囲の期待との間に生まれてくる職業とも言えるでしょう。
板柳にある赤倉神社は、赤倉沢で神になったといわれる明治時代に実在の人物を祭っている社です。
奥の院は岩木山の赤倉霊場にあり、板柳の赤倉神社は、その人の家の敷地に創建された神社で、今も信仰する人は多いと感じます。
明治時代の人物ですから古い社ではありませんが、信仰心がどのように醸成されたのか。また、この地方特有の信仰感覚を考える上で人々がどのように認識していたのかがよく分かる、そんな神社でもあります。
地域によって信仰の形は変わってきます。でもその違いこそが地域の特色を炙り出す指標のような物だったりします。
津軽という独特の文化を、このような信仰心から考えてみるのも興味深いものです。
「古い」というのは、実はとても大きな魅力の源泉だと確信しています。
新和村種市の対馬佐治兵術といふ人の兄が代わり者で山人になったといわれてゐる。十七、八歳のころから性質がボンヤリとなり、寒中でも白衣一枚で褌をしないで座って目をつむり、人が近寄っても他を向いて物も言わないといふ風で、いつ誰が言ったともなく、この人を神様と呼び、その父の手を経てこの神様から護符をもらうやうになった。しかし、心が進まぬ時は、いくら父から乞はれても与えてくれず、尚はげしく言われる時は日をつむったまま、座ってゐるところを探ってふれたものを手あたり次第にくれてやった。多くは節のある一、二寸のわら片であるが、そういふ時は神様のきげんが悪いから病人の看護に気をつけよと、その父が護符を乞ふ人々に注意してやるが、その病人は助かることはなかったといふ。(中略)
寒中でも、例の学衣で外出し、三十日間も家に帰らないこともあった。ある時、今日は遊びに行くぞといふので、父が握り飯二つを持たせてやったが、それっきり一ヶ月経ってもニケ月経っても帰らなかった。父も心配して村人に頼んで山を探したところ、岩木山の赤倉といふところに着物が、たった今脱いだやうに捨てられてあったので、父は帰宅する腹がないのだらうといって、そのまま引返した。
翌年、この家の苗代田の傍の平地の体み場に不思議にも清水が湧くやうになったが、地方の人は、これは神様の与へた水だといって崇め、眼を痛む人がこの清水で洗ふと治るといはれ、今はここにお堂も建ってゐる。
『津軽海峡夜話』―― 福士四郎、昭和一五年「種市の神様」
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