毎日幸せに in青森

ヒトはどんなときに幸せを感じるのか?
形而上の話を形而下に

ブログランキングに参加しています

人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 青森情報へ

虐待のニュースから思うこと

2010-08-20 | 子供のこと
最近、虐待のニュースをよく見ます。
ネット上では虐待する親に対して容赦のない批判の声が飛び交っています。

私の子供は発達障害で、頑張って育てているつもりでも子供の行動はどこかおかしく、「しつけのできない親」のレッテルを貼られていました。
自分の事ならどんな批判も受けられるのですが、子供の事は自分の努力ではどうしても埋める事ができなくて、精神的に参っていた時期があります。
原因が子供の行動ですから、親のストレスは子供に向かいます。
頑張って言って聞かせているつもりなのに子供は聞いてくれない。
今では何が問題なのかが分かりますが、なにしろ発達障害(アスペルガーと高機能自閉症)ですから、知識もなければ何でそんな行動をとるのかの理解もなく、ひたすら辛い思いだけが自分を痛めつけていました。

ネット上では虐待をしてしまった親に対して批判の声が渦巻いています。
ネットに限らず実生活でも批判の声が飛び交います。
そんな意見を聴くたびに、発達障害の診断を取る前の自分の子供と私の気持ちを思い出します。
批判を受ければ受けるほど、子供に対しての態度が厳しくなっていく。
他の方法を知るすべがなければ子育ては殺伐とした状況になってきます。
本当は子供を大切にしたいのに、親として周囲からの批判を受ける痛みに負けてしまうのです。
結果として子供への態度は「しつけ」と称する虐待に限りなく近づきます。

もっと、そんな親の気持ちに寄り添う人がいれば、虐待による悲しいニュースも少なくなるはずだし、悲しんでいる子供も減らすことができると思うのです。
批判するだけなら誰にでも出来ますが、その批判が子供への虐待を助長しているのです。




学校では教えない日本のこと

2010-05-15 | 子供のこと
子供が小さいころ、何かの話から襖の話になって
「襖って知ってる ?」
と聞くと、知らないという答えが。
自宅には襖というものがなく、説明するのにとても困った記憶があります。
日本人なら当然知っているはずの事でも、住宅事情や生活の変化で子供には分からないことも多くなってしまったのかとその時に思いました。

紐結びは代表的な例かもしれません。
日本の民族衣装である着物は、直線からなる布を紐を使って身に纏うものです。
凹凸や関節の動きのある体を、伸縮しない布で上手く体に添わせるのは、紐結びの技術の賜物だと思っています。
着物を着慣れた人なら、どんなサイズの着物でも上手に着てしまいます。
紐を使うことがとても汎用性の高い衣服としての着物の肝なのでしょうね。

明治時代以降の近代化の過程で、日本人の強みといえば手先の器用さだと言われていました。
その器用さを生み出す一因に、着物はなっていたのかもしれません。
今でも日本人の器用さが言われる事もありますが、すでに一般的な労働者全体の傾向としてではなくなっているように感じます。
今の生活の中で、何かをを結ぶと言えば靴紐くらい。
何本かの紐を使って毎日着物を着ていた時代とは別の国と言えるほど、生活習慣が大きく変わっています。

せいかつの図鑑 小学館


遅い春

2010-04-26 | 子供のこと
今年の春は天候不順で、いつもなら咲いているはずの春の花も蕾のまま日が過ぎていきます。
不登校だった子供はこの春から中学生となり、何とか毎日学校へ通っています。
先日は学校関係の会合へ参加してきましたが、教師もPTAも子供を育てていくことに強い意欲を持っていて、この学校なら大丈夫なのだと安心するとともに、自分もできる限りの協力をしていきたいと感じるとても良い会合でした。

学校は教職員だけが作るものではない、最近はそう感じるようになりました。
学校の主役は子供、教職員、そして親であり、地域の目に見られることで完成すると思います。
良いことも悪いことも、この全ての関わりの中から出来上がる。
それぞれの関係や期待や評価などがその学校を形作っていると思うのです。
下降のスパイラルに入ってしまえば崩れてしまうし、上昇のスパイラルに乗れば素晴らしい学校になっていく、そんな気がします。
生徒が学校を好きになり教師が子供の力を信じる、親が学校を信頼する、そんな関係性の総和が地域からの評価となるのかもしれません。

今でも学校へ文句を言う親はいます。
学校がより良いものになるようにとの思いからとしても、苦情や文句として出してしまったのでは得られる効果は最低限のものでしかありません。
苦情の出ない程度までの努力しか引き出せないからです。
信頼して協力することは最大限の効果を引き出せます。
自分の子供の通う学校がより良いものであって欲しいという願いは、きっと誰もが思うことのはずです。




魔法の時間

2010-03-09 | 子供のこと
人間の能力獲得には臨界期の存在するものが知られています。
たとえば絶対音感はおおよそ7歳位までに獲得できなければ、その後の訓練で身に付けることはできないとも言われています。
視覚も、生まれてまもなく視覚を失った人にその後視力回復の手術をしても、視覚情報処理を司る脳の機能が育っていないために通常言われる視力を回復することは困難だとされています。

人間が何かの能力を獲得するには概ねこの年齢までといったリミットがあるとすれば、幸せを感じる能力や自分の可能性を信じられる能力といった個々の問題まで臨界期があるのでしょうか。
歳を取ればとるほど考え方が変わらなくなっていくのはよく知られていますが、しかし高齢の方であっても柔軟に物事を受け入れる方もいます。
ただ小さい子供が何でも信じてしまうような、そんな柔軟さは子供独自のものだと思います。
その短い時間に、いかに子供に幸せな考え方を、自信を、自分の力で掴んでいく未来を信じさせられるのか。

「自分はダメな人間だ」
そう感じる子供の数が日本は突出して多い、という調査もあります。
小学校低学年くらいの、まだ魔法がかけられる時間に、もっと自分に自信が持てるような魔法の言葉をたくさんかけていたら。
そんな反省を少しだけしてしまいました。






「もっと」と思う気持ちが

2010-02-17 | 子供のこと
子供が生まれるときに親が思うことは、五体満足に生まれてくるかとか元気に生まれてくるかとか、とにかく生きているかどうかが大切です。
生きる力を持って生まれてくれただけで嬉しいと思います。私もそうでした。
ところが子供が育ってくると当初のただひたすら感謝する気持ちは薄れてきて、できない事ばかりに目が行ってしまいます。
ふと気がつくと子供との会話は「あれをしなさい、これをしなさい」の要求と小言ばかりになっています。

子供が生まれたばかりの頃、この子との将来は楽しく過ごしたり一緒に遊んだりの素晴らしい時間を思い描いていたはずなのに、なぜ年月とともにそんなことを忘れていってしまうのでしょう。

より良いものを求める気持ちは人の向上心には必要なのですが、そればかりを追いかけていれば理想と現実のギャップに苦しみます。
子供は日々成長していくものですが、成長の速度は人それぞれ。
「這えば立て、立てば歩めの親心」
この諺は、親とはそういったものだという意味と、だからそんなに焦らず見つめていようという二つの意味があったと思います。







情報のクオリティ

2010-02-11 | 子供のこと
子育てで悩みを持っている方がネット上の情報を捜すことがありますが、その際に注意してほしい事は「不安を煽る情報は信じるに足りない」ということです。

私も情報を探したり相談できる人を探したりしたことがありますが、説明を聞いてみると「~をすれば自閉症は治る」「~をしなければ悪くなる」と言われる事がありました。
自閉症とは個人の個性のひとつであり、病気を治療するように治す対象ではありません。しかし会話など、人間関係を形成する力が弱いので、歯磨きや文字を教えるように人間関係を作る力を身につけられる様に育てる・躾ける必要があるだけです。
ある程度の知識も持っていたので「治る」というのが間違いだと分かりましたが、正しい理解ができていないままこのように言われれば、不安からその情報にすがりついていたかも知れません。

自閉症に限らず子育てにおいては正しい育て方など存在しないと思っています。
子供は一人一人が違うので、その子の個性に応じた最良の方法を探すことが大切です。
外からの情報は参考にはしてものめり込まない、子供を見つめていれば答えは子供が出してくれます。




子供が親を超える時

2010-01-24 | 子供のこと
わが家の子供たちはなぜか小学校高学年になると、私に腕相撲を挑んできます。
手っ取り早く超えられそうな大人と見ているのか、越えたい対象として見ているのかは定かではありません。
私も多少は運動もしていたので小学生ごときに負けまいと真剣に戦っていました。
それでも男の子ですから、中学生になれば敵わなくなってきます。
長男が初めて私に勝った時はそれは嬉しそうでした。
何度か確認をするように腕相撲を申し出て、自分が上であることを納得するまでそれは続きましたが、その後は買い物の荷物は必ず持ってくれたりと私を気遣うことが多くなりました。

腕相撲に勝って自分の力が親を超えたことは、体力の面での家庭内の順位付けが変わったという事ですが、子供にとっては重要な通過地点です。
先日は中学生の次男が挑んできました。
私が全力でがんばってもゆとりを持って勝てたのかとても嬉しそうで、私が怪我をしないようにそうっと倒してくれました。
もしも男の子が体力的な朝鮮を挑んできたら、ためらわずに受けてあげて下さい。それが男の子の大きな分疑点になるのですから。

ちなみに女の子を育てたことはないのですが、同姓である母親を批判することが多くなると聞きます。
穏やかなゲートですが、それが大人になる第一歩なのかもしれません。





なぜ議論をするのかという議論

2010-01-08 | 子供のこと
先日若い男性と雑談をしていて、子供を叩く父親の話から何故議論をするのかの話に繋がって話し込んでいました。
何しろ若い男性(中高生二人)ですから若い「物の見方」が微笑ましいのですが、物事を突き詰めて考えたい歳頃の、話したい・聞きたいエネルギーを思い出していました。

若者のコミュニケーション能力が低くなっているとするニュースもありますが、これから世の中の色々な事を見たいと思っている年代には、きちんと人との交流に対する内圧があります。
そんな青年達には周りの大人がもっと対応出来ればいいのですが、今の青少年にとって周りの大人とは親と教師と塾の先生だけの場合も多い。

親でも教師でもなく上下関係もない大人と話をする機会は、自己形成のために必須なのだと感じます。
子供が青年期を抜きに一気に大人になることなど出来ません。
上下の関係でも横の関係でもない、ななめの関係の大人を作れるかは子供本人の運もありますが、周りの大人が意識していればより良い環境になるでしょう。

自分も変な話ばかりする高校生だった。
そんな事を思い出す楽しみもあります。




サンタが今年もやって来る・・のか

2009-12-24 | 子供のこと
子供たちが小さい頃、澄んだ瞳で「ウチにもサンタは来るのかなぁ」と訊かれた時、「ウチは臨済宗だから来ないのよ」と答えていた事をこの時期になると思い出します。
個人的に、どこかの縁もない人がプレゼントを持ってきてくれるという話をブラックジョークのように感じていたからでしたが、子供には少し申し訳ない気持ちも持っています。
サンタは来ないけどクリスマスの飾りはいいのよ、と年末が近づくと天井にモールやイルミネーションを吊るして、寝る前の時間を楽しく過ごしていました。

いつの間にかクリスマスの飾りつけもしなくなりました。
今では年末の夜を楽しみに車で走りながら町のイルミネーションを見に行くだけです。
三沢市は米軍関係者も多く住んでいて、住宅地でもちょっとした飾りがあちこちで輝いています。
12月は三沢市の一番綺麗な季節かもしれません。







子供の喧嘩に親が出る

2009-12-21 | 子供のこと
子供社会の中で人間関係の作り方やコミュニケーションを子供たちが学んでいるとすれば、その中に大人が入っていく事は子供が自ら学ぶことを阻害してしまいます。
喧嘩や小さな揉め事が起こっても、自分たちで解決法を考え出しお互いが楽しく遊べるようなルールに変える、という作業が社会性を作り出す基礎だとすれば、大人が大人のルールを持ち込んでくることは子供の考える機会を奪ってしまうからです。

毎日の遊びの中で繰り返し続く人間関係構築のための試行錯誤は、大人から見れば無駄な行為に見えますが、どんな事でも反復練習なしの上達はありません。
歩く、走る、投げるなど運動能力に関しても、子供の頃の遊びの中で自然と身につくようになっていて、遊びが楽しくて何度も繰り返す子供の特性こそが人間に備わった成長のための能力なのだと思います。
運動能力と同じように社会に適応する能力も子供の遊びの中に組み込まれていて、毎日の反復練習(これこそが遊びなのですが)でしっかりと身についていきます。

科学というものは、細かく分類してそれぞれの小さいパーツごとに特性を調べ検証する作業の積み重ねです。
一見不条理で無駄に見える子供同志の遊びに、見えない大切な効果があると科学的に裏付けることはできないでしょう。
科学には再現可能であることが必要ですが、一人一人が違う人間では再現可能性はありません。
それでも子育ては先人からの知恵として諺や格言の中に生きています。
人間が後天的に獲得する能力を如何に育てるのかは、集団で生きることが大切だった時代には重要な事柄だったと思います。

子供の喧嘩に出てくる親の多い時代になりましたが、できる限り子供たちだけで解決させる、という視点は忘れないようにしています。
子供のためにと思っていることが逆に子供の成長を妨げてしまう事例は多くあります。