詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フィリダ・ロイド監督「マンマ・ミーア!」(★★★)

2009-02-03 23:27:06 | 映画
監督 フィリダ・ロイド 出演 メリル・ストリープ、アマンダ・セイフライド、ピアース・ブロスナン、コリン・ファース、ステラン・スカルスガルド

 この映画の一番おもしろいシーンはエンディングである。メリル・ストリープと仲間2人で「ダンシング・クィーン」を歌う。それで終わり、と思ったら、メリル・ストリープがスクリーンから観客席に向かって「まだ帰らないの?」と呼びかける。で、「それじゃあ、もう一曲歌うか」となって、主演級がそろって歌って踊る。あの、アバの時代のふりふりの衣裳で、あのダンスで。舞台のノリだね。
 そうなんですね。この映画は、映画を見るつもりで見に行くとおもしろくありません。映像に工夫があるわけではない。メリル・ストリープが、友達2人が歌う「ダンシング・クィーン」につられて、ベッドのなかで足を思わず動かすシーン、肩を動かしリズムをとるシーンが、唯一、映画ならではアップが利いたシーン。あとは、出演者も歌って踊るのに忙しくて、顔でぐいとひきつける一瞬の演技というものはしていない。そのかわり、とにかく楽しい、音楽なしでは生きられない、という感じで躍動する。音楽はすでになじみの曲ばかり。曲にあわせて、出演者の動きにあわせて、舞台(芝居)の気分で、どれだけスクリーンと観客席が一体になれるか。それが、この映画のとても大事なところ。いっしょに歌い、いっしょに踊るくらいだととっても楽しい、はず。
 私が見たのは福岡東宝。観客は30年前の曲を知っている年代が中心。福岡の観客はとても行儀がいいので、こういう映画でもノリません。私はかなりノリがいい方でなのだけれど、まわりがシーンとしていると、ちょっと動きにくい。(以前、つかこうへいの芝居で、出演者が「みんなで、『おねーさん』と呼びましょう」というシーンで、実際に声を出したのは私と別の女性ひとり、計2人でした。)それに、アバの曲が、私にはあまり楽しくない。毒がなさすぎる。歌詞そのものはけっこうおもしろいのだけれど、メロディーとリズムに毒がない。(アバの曲が好きなひとには申し訳ないけれど。)
 こういう映画は、絶対、大都会で、観客が多い日を狙ってみるべきものです。そうしないと、あ、こういう曲がはやった時代があったなあ、というセンチメンタルな気分になるだけで、元気がでません。せっかく、光あふれる屋外でのダンスシーンが多いにもかかわらず。
 収穫(?)は、ピアース・ブロスナンが歌っていること、かな。はじめて聞きました。メリル・ストリープはすでに「今宵、フィッツジェラルド劇場で」で喉を披露しています。メリル・ストリープは歌がとてもうまい。

アバ・ゴールド

UNIVERSAL INTERNATIONAL(P)(M)

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伊藤悠子「暗い夜のうちを」「詩人の家」

2009-02-03 09:27:42 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「暗い夜のうちを」「詩人の家」(「ふらんす堂通信」119 、2009年01月25日発行)

 温泉。露天風呂。夜、その湯につかりながらの思いを書いている。そこに「久しい」ということばが出てくる。その「久しい」が美しい。

唐突に
久しいという思いがする
(略)
不思議だ
あと三日したら新幹線あさまに乗って家に帰る
それも不思議に思える
水に打たれる羊歯を湯に浸かり見つめていると
それら一連のことが
そうしていつか
忘れてしまうのだろう
そうしてある日
唐突に
姿を見かけなくなって久しいものが
遠く影を傾け
なつかしさとさびしさの飛沫を浴びせるのだろう

細く暗い空洞のような空を
いつ星は渡るのか

 「久しい」という感覚は、「忘れてしま」ったあと、唐突にやってくる。そして、それは「なつかしさとさびしさ」が入り交じったものであると伊藤は言う。この「さびしさ」の感覚が、いつも伊藤のことばにはある。「さびしさ」がどこか遠くから響いてくる。その前に迫ってくるのではなく、どこか遠くから響いてくる。「久しい」どこかから響いてくる。それは空間の「距離」ではなく、「時間」の隔たりなのである。
 「時間」というのは不思議だ。「隔たり」があるようで、はっきりとはつかめない。10年前と3日前の思い出を比較してみるとわかる。10年前を思い出すとき、3日前を思い出すとき、その「10年」と「3日」の間にある「隔たり」に「差」がない。同じように、瞬時に思い出してしまう。同じように、どれだけ頭をひねっても思い出せないこともある。「久しい」は「遠い」のか「近い」のか、ほんとうはよくわからない。
 「遠い」か「近い」かわからないけれど、それは「私」とは確実に離れている。たしかに「隔たり」がある。その、どうしようもない「隔たり」ゆえに、人間は「さびしさ」を感じるのだ。
 たどりつけない--そういう「孤独感」(孤立感)のようなもの、いっしょにいるのに、いっしょにいないともいえる不思議な孤独感。
 そして、それは、「隔たり」がつかめないがゆえに、とても遠い遠いものに、直接触れる。けっして肉体では触れることができないものに、なぜか、肉体そのものとして触れてしまう。その遠いものとは、「宇宙」である。
 伊藤は、書いている。

細く暗い空洞のような空を
いつ星は渡るのか

 いつ星が渡るか、誰も知らない。けれど星が渡ることを知っている。この矛盾。矛盾のさびしさ、美しさ。それは、なぜか、「なつかしい」。
 たぶん、生きるということは、そういうことなのだろう。なにかがそばにあることがわかる。それにはしかし触れることができない。ただ「記憶」として、「いのちの記憶」として、それを感じる。どんなものも、その「遠い」なにかを「いのちの起源」としていることがわかるのだ。だから「なつかしい」。

 だが、いつ、私たちは、それに触れるのだろう。
 同じ「ふらんす堂通信」に発表された「詩人の家」に次の行がある。
 
建物の黒さが夜と同一になるころ
内部の肋骨のような階段を
詩人はのぼっていく
満天に星屑のような鏡
そのひとつひとつが詩人を捉えている

 「建物の黒さが夜と同一になるころ」。あ、そうなのだ。先に10年前の思い出と3日前の思い出について書いたが、「いま」と「10年前」、「いま」と「3日前」--その「時間」の「隔たり」が、その差が「同一」になる瞬間があるのだ。「いま」を起点にして、「隔たり」が消えてしまう瞬間があるのだ。そのとき、「同一」とは、実は「隔たりの距離」のことではなく、「思い出す」という行為そのものなのだ。人間の精神の動き、その動きそのものが「同一」になる。その「同一」は単に「私」ひとりのことではなく、あらゆる人間、あらゆる「いのち」にとって「同一」なのである。
 そこでは、すべてが、見分けがつかない。

満天に星屑のような鏡

 この矛盾したことば(論理的に矛盾したことば、錯乱したことば)の美しさ。天にあるのは、いうなれば「鏡のような星屑」だろう。けれど、そうではなく「星屑のような鏡」と錯覚する。その瞬間の「同一」。「星屑」と「鏡」の「同一」。「比喩」のなかにある別個の「もの」の「同一」。
 比喩とは、あるものがまったく別のものと「同一」であるという認識によって生まれる。その「生まれる」という「いのちの運動」。それが、唯一の「同一」なのかもしれない。

 伊藤は、そういう動きを、少し距離を置いて見ている。直接触れるのだけれど、ことばにするとき、どうしても少し離れてしまう。そこに「ひさしい」「なつかしい」「さびしい」が入り込むのである。
 そして、そういうものが入り込むので、伊藤の世界は、なにかにさーっと洗われたように、清潔で美しいのだと思う。




詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂

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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(3)中井久夫訳

2009-02-03 01:12:59 | リッツォス(中井久夫訳)
集中営    リッツォス(中井久夫訳)

合図の笛。叫び。鞭の風を切る音。鈍い音。
水の逆流。煙。石。鋸。
殺された男たちの間に倒れた樹。
警備兵が死者たちの衣類を剥がす。死者たちのポケットから
ばらばらと音を立ててこぼれる。まず電話用のコインが一つずつ。
小さな鋏。爪切り。小さな鏡。
禿げた勇者の空っぽのかつら。
その藁くずまみれの長い髪。
こわれたコップ。針。
耳の上にはさんでいかタバコの吸いさし。



 名詞の羅列で構成された作品。何の説明もない。けれども、そこから何人もの「死者」の物語や人間性が浮かび上がってくる。ことばが「もの」と対等に向き合うとき、その「もの」が持っている「時間」がことばをとおってあふれだす。そして、「時間」はいつでも「物語」になろうとする。「もの」自体の「物語」を超えて、読者がひそかに共有している「物語」を刺激して動きはじめる。リッツォスはいつでも「物語」を語るのではなく、読者の意識の中にある「物語」を刺激するのである。
 たとえば「電話用のコイン」。男は誰かに電話をかけていた。かけることを日常としていた。それは妻か、恋人か。あるいは「爪切り」や「鏡」。身だしなみを大切にする人柄が浮かぶ。同時に、そんなふうにして日々を大切にして生きている感覚。さらには「かつら」「タバコの吸いさし」。そこにも「物語」がある。「タバコの吸いさし」も単なる吸いさしではなく「耳の上にはさんでいた」ということばがいっしょにあるとき、それは具体的な「肉体」と「くらし」を呼び寄せる。どうしても「物語」がそこからはじまってしまう。
 その、どうしてもはじまってしまう「物語」をリッツォス自身は語らない。「空白」にしておく。「空白」だから、そこにはいろいろなものが含まれる。その「空白」にむけて、読者はどんな「物語」でも投げ込むことができる。

 句点で区切られた。「もの」と「もの」。「ことば」と「ことば」。その間の「空白」。それは、私にはセザンヌの「塗り残し」の「白」にも見える。セザンヌはその「塗り残し」の「白」について、「それにふさわしい色が見つかったら、塗る」というようなことを言ったと思う。何色でもある「白」なのだ。
 その「空白」はどんな物語を受け入れる「空白」なのである。


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