詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

木戸多美子『メイリオ』(2)

2014-01-15 10:25:56 | 詩集
木戸多美子『メイリオ』(2)(思潮社、2013年11月30日発行)

 誰にも見えないものを見る木戸の視力。その肉体の、強い力。それは「成就」という作品にくっきりとあらわれている。

虹に激突される地面には
幸福を支える家が立っていて
球根のように深く眠っている
海の彼方へ背を向けて
屋根を突き抜け部屋に満ちる雨
濡れた壁は縁からゆがむ
ゆがみはゆがみのまま暮れてゆく
充血した視界に 庭へ続く石の道が現れた
月に照らされたまま誰にも踏まれず
一千億年の地層と溶け合い
わぁんと静かに核となって
誰かが拾いあげてくれるまでは輝ける闇だ

 ここにも私は東日本大震災を見る。1行目の「虹に激突される地面には」の「激突」に大地の激しい衝撃を感じ、大震災を思うのである。「虹」が激突するのだから、それは悲惨なイメージというよりも、何か明るい感じがして、東日本大震災にそぐわないような気がしないでもないが、これは「頭」がかってに「虹」を美しいものの象徴と考えているためにおきる「錯覚」のようなものだ。大震災のあとの惨状--それを津波の被害ととらえるのではなく、「虹の激突」と呼ぶことで、そこから出発しようとするしようとする決意がそこにある、と読むべきかもしれないのだから。
 でも、そういう「うるさい」ことは書くまい。「意味(流通する論理)」をそこから紡ぎだすのは、やめよう。そういうことは、頭をちょっとかすめたということだけにしておこう。
 ここではきのう読んだ詩と同じように「誰にも……せず」が重要なのだと思う。「誰にも踏まれず」、けれど木戸はそれを踏んだことがある。木戸の肉体はそれを知っている。覚えている。そして、その「覚えている」は「一千億年(永遠)」を超える。
 「永遠と一日」ということばがあるが、木戸は「1億人の誰とひとり」の「ひとり」として、その道を踏み、その道を思い出す。木戸がその道を踏み、その道を思い出すとき、そこには「誰も踏まない」けれど確実に存在する道が浮かびあがるのだ。

 この強い視力の展開のあと、後半、1字下げの部分からの展開が美しい。

おぉい とらえたか
風を
色のない静かな風だ
白鳥の遊覧船がすべってゆく
湖水浴を楽しんだ少年
そこにいろよ
今 透明な小魚が背骨を揺らし
通り過ぎるぞ
足もとから掬い取ることができたなら
君はもっと家に近づける
聞こえるか

 これを読むと「希土黎己」は「木戸れいき(?)」という名前の少年に見えてくる。その少年は猪苗代湖で遊んだことがあるのだ。その少年が、木戸には見えるのだ、と思わすにはいられない。
 少年はそうやって生きているのだから、木戸もまた生きていくのである。「生きていろよ」と呼び掛けながら。木戸に「見える」少年にむかって呼び掛けながら。

 東日本大震災を体験した人に対して言っていいことばなのかどうかわからないが。
 明るい、美しい詩だ。
 こんなに明るいこころで生きていくというのは、どんなに強いこころなのだろう。このことばを書くまでに、どんなに誰にも言えない悲しみをくぐりぬけたのだろう。
 思わず、ありがとう、と言いたくなる詩だ。

メイリオ
木戸 多美子
思潮社

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