監督 サーシャ・ガバシ 出演 アンソニー・ホプキンス、ヘレン・ミレン、スカーレット・ヨハンソン
この映画の失敗は、アンソニー・ホプキンスがヒッチコックの体型をコピーしたことである。だれもがこれは「映画」と知っている。そして、それを見にくる映画ファンはたいていヒッチコックの体型を知っている。でも、映画を見にくるのはヒッチコックの体型を見にくるわけではない。「あ、ヒッチコックに似てる」と思うために見にくるのではない。もし「そっくりさん」を見たいなら、世界にはもっとヒッチコックに似た人間はいるだろう。だいたいメーキャップと衣装で「そっくりさん」に仕立てても、それで似たことになるのか。ならないのでは? そして、それは「演技」でもなんでもないのでは?
で、この「そっくりさん」体型が、ヒッチコックを隠してしまう。精神を。感情を。つまり本質を見えなくしてしまう。
映画で私がいちばんおもしろいと感じたのは、「サイコ」のハイライト、シャワーを浴びる女をナイフで殺すシーン。監督は観客の反応が気が気でたまらない。劇場の外で、今か今かと待っている。金属音のような効果音が響く。そして、ナイフが振り下ろされるたびに観客の悲鳴が響く。それをまるでオーケストラを指揮するように、手をぶんぶん振り回して、その悲鳴に酔う。「そこだ、もう一度、やったぞ」という感じで、体中から喜びがあふれてくる。あ、このシーン、真似してみたい、と思わず思う。
そのとき。
私は「そっくりさん」の体型を見ていない。太っていることを忘れている。ただ監督の「動き」を見ている。太っているために動きが鈍いとか、動きが醜いとかということはない。興奮している感じ、酔っている感じ、その喜びに、ただ感染する。
これが映画。私が見たいのは、「肉体」の形ではなく、その「肉体」を動かしている感情。感情が肉体を突き破ってあらわれる瞬間の輝き。
ヒッチコックの体型を描くのではなく、ただ純粋に精神を描くことに集中すれば、この映画はもっとおもしろくなる。脚本はとってもおもしろいのに、アンソニー・ホプキンスの「そっくりさん」の体型がおもしろさを半分以下にしている。
映画づくりの秘密、という点でも、この作品はおもしろいところを描いている。スカーレット・ヨハンソンが「サイコ」の殺される女になって車を運転していくシーン。スタジオ(セット)で撮影しているのだが、ヒッチコックはカメラをのぞくのではなく、スカーレット・ヨハンソンのわきに立って、そのとき女が思っているであろうこころのつぶやきを口にしている。その声を聞きながらスカーレット・ヨハンソンの顔の表情が変わる。「迫真」のものになる。あ、これが、芝居と映画の違い。舞台では、こういうことは絶対にできない。舞台の上には役者がいるだけ。でも映画は違う。そばで何が起きていようが関係がない。スクリーンにはカメラが映している部分しか存在しない。
だから、なのである。
編集によって、映画はどうとでもなる。シャワーを浴びながら、ナイフでめった突きにして女が殺される。そのとき、女を殺すのは殺人者でなくてもいい。ヒッチコックがナイフを振りかざしてもいい。恐怖におびえる女の顔がアップでとれればいいだけなのである。女の顔の中に恐怖があらわれれば、殺人者役がだれであろうと関係がない。
で、最後に、失敗作だった「サイコ」を編集でよみがえらせるというオチまでこの映画は描いている。その編集に、ヒッチコックではなく、妻の方が能力を発揮する。これが、なかなか、おもしろい。この瞬間から、この映画はヒッチコックの映画ではなく、ヒッチコックの妻の映画になる。ヒッチコックの映画の成功の影には妻がいる。妻が大きな影響力を発揮して、映画を輝かせていた。
で、最初にもどるのだけれど。
この妻の働き、いきいきとした動きが観客に伝わってくるのは、ヘレン・ミレンが妻の「そっくりさん」ではないから。いや、そっくりさんなのかもしれないけれど、私はヒッチコックの妻の体型など知らない、顔も知らないからそっくりさんかどうか判断しようがないのだが--だからこそ、純粋に妻の「本質」だけを見ることになる。そして、その本質に触れて、感心することになる。
観客はスターの「容姿」にひかれて映画を見はじめるけれど、映画を見ているときは、その容姿を忘れて、そこに動いている「感情」を見る。容姿ではなく、感情が見えたとき、ほんとうに感動する。「サイコ」のクライマックスに廊下で両手をぶんぶん振り回し、踊るようなヒッチコックがかっこいいのは、そこに感情の噴出があるからだ。
(2013年04月24日、天神東宝2)
この映画の失敗は、アンソニー・ホプキンスがヒッチコックの体型をコピーしたことである。だれもがこれは「映画」と知っている。そして、それを見にくる映画ファンはたいていヒッチコックの体型を知っている。でも、映画を見にくるのはヒッチコックの体型を見にくるわけではない。「あ、ヒッチコックに似てる」と思うために見にくるのではない。もし「そっくりさん」を見たいなら、世界にはもっとヒッチコックに似た人間はいるだろう。だいたいメーキャップと衣装で「そっくりさん」に仕立てても、それで似たことになるのか。ならないのでは? そして、それは「演技」でもなんでもないのでは?
で、この「そっくりさん」体型が、ヒッチコックを隠してしまう。精神を。感情を。つまり本質を見えなくしてしまう。
映画で私がいちばんおもしろいと感じたのは、「サイコ」のハイライト、シャワーを浴びる女をナイフで殺すシーン。監督は観客の反応が気が気でたまらない。劇場の外で、今か今かと待っている。金属音のような効果音が響く。そして、ナイフが振り下ろされるたびに観客の悲鳴が響く。それをまるでオーケストラを指揮するように、手をぶんぶん振り回して、その悲鳴に酔う。「そこだ、もう一度、やったぞ」という感じで、体中から喜びがあふれてくる。あ、このシーン、真似してみたい、と思わず思う。
そのとき。
私は「そっくりさん」の体型を見ていない。太っていることを忘れている。ただ監督の「動き」を見ている。太っているために動きが鈍いとか、動きが醜いとかということはない。興奮している感じ、酔っている感じ、その喜びに、ただ感染する。
これが映画。私が見たいのは、「肉体」の形ではなく、その「肉体」を動かしている感情。感情が肉体を突き破ってあらわれる瞬間の輝き。
ヒッチコックの体型を描くのではなく、ただ純粋に精神を描くことに集中すれば、この映画はもっとおもしろくなる。脚本はとってもおもしろいのに、アンソニー・ホプキンスの「そっくりさん」の体型がおもしろさを半分以下にしている。
映画づくりの秘密、という点でも、この作品はおもしろいところを描いている。スカーレット・ヨハンソンが「サイコ」の殺される女になって車を運転していくシーン。スタジオ(セット)で撮影しているのだが、ヒッチコックはカメラをのぞくのではなく、スカーレット・ヨハンソンのわきに立って、そのとき女が思っているであろうこころのつぶやきを口にしている。その声を聞きながらスカーレット・ヨハンソンの顔の表情が変わる。「迫真」のものになる。あ、これが、芝居と映画の違い。舞台では、こういうことは絶対にできない。舞台の上には役者がいるだけ。でも映画は違う。そばで何が起きていようが関係がない。スクリーンにはカメラが映している部分しか存在しない。
だから、なのである。
編集によって、映画はどうとでもなる。シャワーを浴びながら、ナイフでめった突きにして女が殺される。そのとき、女を殺すのは殺人者でなくてもいい。ヒッチコックがナイフを振りかざしてもいい。恐怖におびえる女の顔がアップでとれればいいだけなのである。女の顔の中に恐怖があらわれれば、殺人者役がだれであろうと関係がない。
で、最後に、失敗作だった「サイコ」を編集でよみがえらせるというオチまでこの映画は描いている。その編集に、ヒッチコックではなく、妻の方が能力を発揮する。これが、なかなか、おもしろい。この瞬間から、この映画はヒッチコックの映画ではなく、ヒッチコックの妻の映画になる。ヒッチコックの映画の成功の影には妻がいる。妻が大きな影響力を発揮して、映画を輝かせていた。
で、最初にもどるのだけれど。
この妻の働き、いきいきとした動きが観客に伝わってくるのは、ヘレン・ミレンが妻の「そっくりさん」ではないから。いや、そっくりさんなのかもしれないけれど、私はヒッチコックの妻の体型など知らない、顔も知らないからそっくりさんかどうか判断しようがないのだが--だからこそ、純粋に妻の「本質」だけを見ることになる。そして、その本質に触れて、感心することになる。
観客はスターの「容姿」にひかれて映画を見はじめるけれど、映画を見ているときは、その容姿を忘れて、そこに動いている「感情」を見る。容姿ではなく、感情が見えたとき、ほんとうに感動する。「サイコ」のクライマックスに廊下で両手をぶんぶん振り回し、踊るようなヒッチコックがかっこいいのは、そこに感情の噴出があるからだ。
(2013年04月24日、天神東宝2)
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