河野聡子「確実に詩に関するロング・ワード」(「サクラコいずビューティフルと愉快な仲間たち」2、2011年03月20日発行)
河野聡子「確実に詩に関するロング・ワード」は、タイトルから判断すれば、詩に関しての長い言説ということになるのかもしれない。とても変わった文体である。
その書き出し。
「普通の文」ということばが途中に出てくるが、河野の書いているのは「普通の文」ではない。そして、簡単にいってしまうと「普通の文」とはかけ離れたものが「詩」ということになるのかもしれない。
「普通の文」との隔たり、つまり「間」が、ことばの運動のなかで屹立していれば(明確に存在していれば、手触りとして感じられれば、ということろか)、それが「詩」である。
--という定義を、平均値として理論化できるかもしれない。
私なら、そんなふうに書いてしまうことを、たぶん河野は先に引用した文で書いているのだと思う。
しかし、河野は、私のような文体では書かない。
なぜ、わけのわからない、飛躍の多い、壊れたような文体で書くのか。わかりやすい文体というのは、ある意味で、社会に(現世に)承認された文体である。それは、独自の文体ではなく共有された文体である。
詩は、しかし、共有されるものではない。共有から隔絶したところで、孤独に存在するのもである。共有されてしまっては、詩から墜落してしまう。
文体として共有されることを河野は求めてはいない。河野がめざしているのは、共有されることで「いま」「ここ」を支配している文体を壊すことである。
何によって?
ことばによって。独立した、ことばによって。河野にとって、詩とは、独立したことばのことかもしれない。「共有された文体」からはみだしていくことば。文体を壊しながら、生きていることば。
そういう視点から見つめなおすとき、ひとつのことがわかる。
河野の「文体」は壊れているように見える。「文体」が壊れている、というのは、そこに「普通の」論理の運動がないということである。一方、「文体」が壊れて見えるとき、逆に壊れてようには見えないものかある。ことば--単語である。ことばの、ひとつひとつ、である。
これは考えてみれば、とても変なことである。
河野の詩を読み、なぜ、「文体」が壊れていると感じ、ことばが壊れているとは感じないのか。
「地球」「の」「どんな」「操作」「に」「問題」「を」「しているか」。名詞にかぎらず、助詞、動詞を含めて、ことばのひとつひとつを、私は「日本語」として理解できる。
私は日本語を理解するとき(把握するとき)、一方で「文体」をとおして理解し、他方で「単語」そのものとして理解している。そして、「文体」というのは、意識の一種の運動の軌跡だが、「単語」というのは意識の運動の軌跡とは無関係なものである。意識から分離した状態で存在できるものである。私の意識は、意識とはかけ離れたところにあることば(単語)を意識の軌跡の上に並べ直して、それを「文体」としている。
そして、その「文体」というのは、意識の運動といいながら、私だけのものではない。私が自分ひとりでつくりあげたものではない。私は、私以外のひとの「文」、あるいは「会話」をとおして、意識の運動の軌跡の、一定の法則を学び(吸収し)、その軌跡の上に、単語を並べているだけなのである。
この「文体」を、もし、「単語」のように、個別に(ばらばらに)存在させることができるとしたら、どうなるだろう。
そこには何が生まれてくるだろう。
そこから、詩は、生まれてこないだろうか。
もしそこから詩が生まれてくるとしたら、壊れているのは「文体」ではなく、「単語」だという、いままで考えても見なかった世界が浮かび上がって来ないか。
あ、急いで書きすぎたかもしれない。
河野の作品を読むと、「文体」が壊れているという印象が真っ先に浮かぶが、単語の方が壊れているということがありうるかもしれない。
私は私の「文体」を基本に考えるので、自分の「文体」と河野の文体が違っているために河野の「文体」が壊れてしまっていると思ってしまうのだが、ほんとうは、逆かもしれない。「文体」が壊れているのではなく単語が壊れている。
私の知らない「文体」が、河野の肉体のなかにあり、それは猛烈な勢いで「単語」を壊して行っているのかもしれない。「新しい文体」を河野は宣言しているのかもしれない。「新しい文体」のスピードが速すぎて、「単語」がそれに乗り切れず、乗ろうとした瞬間に弾き飛ばされ、はねとばされ、瀕死の悲鳴を上げているのかもしれない。
どちらがほんとうかは、わからない。
「文体」が壊れているのか、「単語」が壊れているのか。どう見るかで、読者が試されているのかもしれない。
河野の作品はあまりにも過激なので、これ以上は、ちょっと進めない。
「休憩」を挟んで読み進むしかない。
河野聡子「確実に詩に関するロング・ワード」は、タイトルから判断すれば、詩に関しての長い言説ということになるのかもしれない。とても変わった文体である。
その書き出し。
地球のどんな操作に問題をしているか、間、立つのが、あれば、「詩」としてそれは平均のためどんな理論が自然で、普通の文を承認するようにそこにあるか、しかし、現世の多くの問題であるかにかかわらず、あります。
「普通の文」ということばが途中に出てくるが、河野の書いているのは「普通の文」ではない。そして、簡単にいってしまうと「普通の文」とはかけ離れたものが「詩」ということになるのかもしれない。
「普通の文」との隔たり、つまり「間」が、ことばの運動のなかで屹立していれば(明確に存在していれば、手触りとして感じられれば、ということろか)、それが「詩」である。
--という定義を、平均値として理論化できるかもしれない。
私なら、そんなふうに書いてしまうことを、たぶん河野は先に引用した文で書いているのだと思う。
しかし、河野は、私のような文体では書かない。
なぜ、わけのわからない、飛躍の多い、壊れたような文体で書くのか。わかりやすい文体というのは、ある意味で、社会に(現世に)承認された文体である。それは、独自の文体ではなく共有された文体である。
詩は、しかし、共有されるものではない。共有から隔絶したところで、孤独に存在するのもである。共有されてしまっては、詩から墜落してしまう。
文体として共有されることを河野は求めてはいない。河野がめざしているのは、共有されることで「いま」「ここ」を支配している文体を壊すことである。
何によって?
ことばによって。独立した、ことばによって。河野にとって、詩とは、独立したことばのことかもしれない。「共有された文体」からはみだしていくことば。文体を壊しながら、生きていることば。
そういう視点から見つめなおすとき、ひとつのことがわかる。
河野の「文体」は壊れているように見える。「文体」が壊れている、というのは、そこに「普通の」論理の運動がないということである。一方、「文体」が壊れて見えるとき、逆に壊れてようには見えないものかある。ことば--単語である。ことばの、ひとつひとつ、である。
これは考えてみれば、とても変なことである。
河野の詩を読み、なぜ、「文体」が壊れていると感じ、ことばが壊れているとは感じないのか。
「地球」「の」「どんな」「操作」「に」「問題」「を」「しているか」。名詞にかぎらず、助詞、動詞を含めて、ことばのひとつひとつを、私は「日本語」として理解できる。
私は日本語を理解するとき(把握するとき)、一方で「文体」をとおして理解し、他方で「単語」そのものとして理解している。そして、「文体」というのは、意識の一種の運動の軌跡だが、「単語」というのは意識の運動の軌跡とは無関係なものである。意識から分離した状態で存在できるものである。私の意識は、意識とはかけ離れたところにあることば(単語)を意識の軌跡の上に並べ直して、それを「文体」としている。
そして、その「文体」というのは、意識の運動といいながら、私だけのものではない。私が自分ひとりでつくりあげたものではない。私は、私以外のひとの「文」、あるいは「会話」をとおして、意識の運動の軌跡の、一定の法則を学び(吸収し)、その軌跡の上に、単語を並べているだけなのである。
この「文体」を、もし、「単語」のように、個別に(ばらばらに)存在させることができるとしたら、どうなるだろう。
そこには何が生まれてくるだろう。
そこから、詩は、生まれてこないだろうか。
もしそこから詩が生まれてくるとしたら、壊れているのは「文体」ではなく、「単語」だという、いままで考えても見なかった世界が浮かび上がって来ないか。
あ、急いで書きすぎたかもしれない。
河野の作品を読むと、「文体」が壊れているという印象が真っ先に浮かぶが、単語の方が壊れているということがありうるかもしれない。
私は私の「文体」を基本に考えるので、自分の「文体」と河野の文体が違っているために河野の「文体」が壊れてしまっていると思ってしまうのだが、ほんとうは、逆かもしれない。「文体」が壊れているのではなく単語が壊れている。
私の知らない「文体」が、河野の肉体のなかにあり、それは猛烈な勢いで「単語」を壊して行っているのかもしれない。「新しい文体」を河野は宣言しているのかもしれない。「新しい文体」のスピードが速すぎて、「単語」がそれに乗り切れず、乗ろうとした瞬間に弾き飛ばされ、はねとばされ、瀕死の悲鳴を上げているのかもしれない。
どちらがほんとうかは、わからない。
「文体」が壊れているのか、「単語」が壊れているのか。どう見るかで、読者が試されているのかもしれない。
河野の作品はあまりにも過激なので、これ以上は、ちょっと進めない。
「休憩」を挟んで読み進むしかない。
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