詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ソフィア・コッポラ監督「SOMEWHERE 」(★★★★★-★)

2011-04-07 22:39:54 | 映画
監督 ソフィア・コッポラ 出演 スティーブン・ドーフ、エル・ファニング

 冒頭、野原(?)を車がぐるぐる回るシーンがある。カメラは固定されていて、車の円を描くシーンは半分以上映らない。車がスクリーンにないとき、ただの野原があり、その円の中心には何やら柱らしいものが立っているが、その「意味」もわからない。ただ車の走る音(エンジンの音)だけは聞こえている。
 これはあまりにも映画の「意味」を象徴しすぎていておもしろくない。「構図」が絵になりすぎているのも、こういう場合問題である。「構図」が「物語」を語ってしまうからである。
 「構図」だけにかぎらず、そこで描かれる「風俗(?)」も、主人公の暮らしを象徴しすぎていておもしろくない。主人公が手にケガをして、ベッドにいる。双子(?)のダンサーがやってきて踊ってみせるシーン(2回ある)も、主人公の男の空しさを象徴しすぎていて、退屈である。
 映画は「意味」を語りすぎると、おやしろくない。「空虚」というのはいつでも「意味」になりすぎる。「文学」になりすぎる。
 ただし、1か所、あ、そうか、こういうことをソフィア・コッポラは描きたいのかと思わせるシーンが、前半の「空虚」のなかにある。大音響の音楽をかけて、女が二人、煽情的なダンスをしている。それを見ながら男が眠ってしまう。そのあと、女二人は舞台装置であるステンレス(?)のポールを分解し、かばんにしまう。その、ストーリーとは何の関係もないシーンをコッポラは丁寧に撮っている。そこが、とてもいい。
 男にとっては虚栄の、空虚な暮らし。けれど、その空虚な暮らしの別なところには、それぞれに「暮らし」がある。「暮らし」があれば、そこでは「肉体」はひとつひとつときちんと向き合い、それを消化しなくてはならない。女たちは煽情的に踊ってみせ、金を稼ぐのだが、その踊りのためにはポールが必要で、それはデリバリーサービスをするためには持ち運べるものでなくてはならない。そして、それは「暮らし」の糧であるから、当然丁寧に取り扱わなければならない。そのときの手つき。その肉体の動き。そこにこそ、この映画の、ほんとうのテーマが隠れている。
 映画は、その男の空虚な暮らしに娘が侵入してくることから、少し変わってくる。「空虚」だけだったものが、そうではなくなってくる。ただし、取り立てて特別なことをするわけでもない。男がイタリアへ行かなければならなくなったときは、そのままついてくる。豪華なホテル(部屋の中にプールがある!)で、娘が泳ぐのを見ていたり、「特別なことがない」とはいいながら、それはあくまで男の暮らしにとって特別ではないということなのだが……。
 けれど、変わる部分もある。
 たとえば男が女とセックスをする。翌朝、娘との食卓に、その女がいる。娘は何も言わないけれど、じっと父親を見つめる。そういう視線--その視線のなかにある「暮らし」(思想)というものを、男はそれまで感じたことはなかった。どんな女とセックスしようが、それをとがめる人など誰もいない。それが男の「空虚」な「暮らし」であった。その「空虚」なことがらに対して、娘が視線だけで割り込んでくる。娘の「暮らし」(思想)を肉体で表現する。--これは、ダンサーが持ち運びのポールを分解し、片づけるのに似ている。そこには「ことば」はないけれど、「暮らし」がある。「ことば」にすることを省略しても成り立つ「肉体」がある。
 娘がつくる朝食のシーンもいい。豪華なホテルに住んでいるのだが、自分で料理する。そのつくられた料理の映像が、この映画のいちばんのいい部分である。手間隙かけてつくりあげた食べ物、消えてなくなるもの--その美しさ。「料理」は消えてなくなるが、大事な人に食べてもらいたいと思ってつくったこころ、それからおいしいものを食べたという記憶、それをつくってくれたのが娘だというよろこび--それは「暮らし」からは消えない。「肉体」からは消えない。この料理のために、この映画はあるといっていいくらいである。マリー・アントワネットでコッポラが描いた「買い物商品(靴やドレス)」の映像をはるかに超える美しさがある。
 こういう「暮らし」というのは、娘といっしょにいるときは気がつかない。娘の「肉体」が「暮らし」を見えにくくするからである。「肉体」と「暮らし」は一体化していて、きりはなすことができないし、「暮らし」というのは「肉体」のようにははっきりと視覚化されにくいからである。どうしても視線は娘そのものを見てしまう。
 女との自堕落な関係を非難するような視線--その視線をもっている娘、おいしい料理をつくってくれた娘。「非難」や「料理を作るこころ」は、「肉体」の内部にしまいこまれていて、ことばとして語られることもない。見えるのは、いつでも娘そのものなのだ。
 男は、その娘がキャンプに行ってしまってから、つまり、男のそばを離れ、遠くへ行ってしまってから「暮らし」に気がつく。「暮らし」を隠している娘の「肉体」がないから、急に「暮らし」が見えてくるのである。
 この「肉体」と「暮らし」の関係の描き方は、すばらしい。おしつけがましさがない。とても自然である。
 男の監督の場合、こんな具合には描けないだろうなあ。私が書いている文章のように、どうしても「理屈」になる。「肉体」ではなく、ことば、あるいは「意味」になってしまう。

 だから。

 最初のシーンに戻って、ちょっと苦情を言いたくなるのである。
 映画で描かれていることが「構図」になってしまうと、映画が「貧しく」なる。ストーリーや意味の構図を役者が「肉体」で破っていくときに映画は傑作になる。「構図」に閉じ込められてしまうと、人間を見ているのか、監督の描いた「構図」を見ているかわからなくなる--ではなく、監督の思い描いた「構図」だけを見せられているような気がして、寂しい気持ちになるのである。
 この映画でいえば、冒頭のシーンがそうだし、男が「空虚」にきづいたあと、別れた妻と電話で話すシーンがそうである。男は泣きだすのだが、そのとき男はスクリーンでいうと右側を向いている。背中はベッドにもたれている。その男が泣くとき、男は前かがみになる。そうすると、左側がぽっかり空いて見える。背中に「空虚」を背負った感じがそのまま映像になる。こういうシーンを「意味」がくっきり出たいいシーンと思う人もいると思うが、私はがっかりするのである。屋外プールで浮輪(浮き板)にのっていて、その男が中心から少しずつずれていって、真ん中に「空虚」が浮かび上がるシーンも同じ意味でつまらない。
 ただし、そういうシーンを超えるシーンもいくつかある。男と娘が屋外のプールサイドで甲羅干しをしているシーン。なにもしないのだが、不思議な幸福感がある。そのふたりの前を別の親子が横切っていく。そのときのノイズ。そして、残された水の足跡。そこにある「暮らし」がとても美しい。見上げた空にまで、その「暮らし」は広がっていく。それは娘がそばにいることで引き寄せてしまう「暮らし」の充実である。娘が「暮らし」をもッテイルから、その「暮らし」に重なる形で他人の家族の「暮らし」が侵入してきても、それは二人を邪魔することにはならない。ぎゃくに祝福することになる。このシーンは「料理」に匹敵する美しさに満ちている。
 また男が車を走らせる最後のシーン。それまでも何回か車が走るシーンが出てくるが、この最後のシーンは非常に変である。スクリーンに占める車の位置が、なんとも不気味なのである。ちょうどスクリーンの対角線の中心にあるように見えるのだが、その車が常に宙に浮かんだ視線、それもとても変な高さなのである。天--神?でもなく、人間が立っているときの視線の位置でもなく……。どうやって撮った? この不安定な、と私には感じられるのだけれど、その映像が男がどんどん「空虚」そのものへ入っていく感じがして、ぞくっ、と肉体に響いてくる。



 いろいろ不満があるが、それは私の欲張り、ということなのかもしれない。★5個から1個引いたという変な「評価」をしているのは、その辺のことが、私自身のなかでうまく整理できていないため。
        (2011年04月07日、ソラリアシネマ2--ここのスクリーンは暗い)

 

マリー・アントワネット (通常版) [DVD]
クリエーター情報なし
東北新社



コメント   トラックバック (1)   この記事についてブログを書く
« 河野聡子「確実に詩に関する... | トップ | 誰も書かなかった西脇順三郎... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事

トラックバック

友達のススメ「ゴッドファーザー」 (いろはGOD正方形)
ジャンル問わず色々でっす