詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

志賀直哉(19)

2011-01-06 11:44:35 | 志賀直哉
「朝顔」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 「朝顔」は虻が蜜を吸う描写が印象的な小品であるが、読み返してみて、違う部分に志賀直哉らしさを感じた。

私は朝顔の水々しい美しさに気づいたと時、何故か、不意に自分の少年時代を憶ひ浮べた。あとで考へた事だが、これは少年時代、既にこの水々しさは知つてゐて、それ程思はず、老年になつて、それを大変美しく感じたのだらうと思つた。
                                (290 ページ)

 「あとで考へた事だが」というのは、きわめて散文的で詩情をこわすような表現だが、この「あとで考える」というのはなかなか厳しい姿勢である。生き方である。何かを感じたことなど、ふつう、ひとはあとからもう一度考え直そうとは思わない。そのとき、ふと感じて、そのままにしておく。
 ところが、志賀直哉は、ふと感じたことを、これはどういうことだったのかと考え、そこに「論理」を持ち込む。「論理」で感情を補強する。
 有名な(と、私が思っているだけかもしれないが)虻の描写のあとにも同じような文章がある。

虻にとつては朝顔だけで、私といふ人間は全く眼中になかつたわけである。さういふ虻に対し、私は何か親近を覚え、愉しい気分になつた。
                                (291 ページ)

 「虻にとつて(略)私といふ人間は全く眼中になかつた」という虻の「論理(わけ)」の発見が、志賀直哉の感情「親近」「愉しい気分」を補強している。
 志賀直哉は、いつでも「感情」に「わけ」をさがしている。そして、それをさがしあてるまで書くのだと思う。
 この作品の最後もおもしろい。志賀直哉は「虻」と書いた来たが、調べてみる虻と蜂は羽が違うということを知る。そして、

朝顔を追つて来たのは何(いづ)れであつたか。見た時、虻と思つたので虻と書いたが、いまもそれが何れかは分からずにゐる。
                                (291 ページ)

 朝顔の蜜を吸ったのは虻か、蜂か。いずれであっても、

虻は逆(さか)さに花の芯に深く入つて蜜を吸ひ始めた。丸味のある虎斑の尻の先が息でもするやうに動いてゐる。
 少時(しばらく)すると虻は飛込んだ時とは反対に稍不器用な身振りで芯から脱け出すと、次の花に身を逆(さか)さにして入り、一ト通り蜜を吸ふと、何の未練もなく、何所かへ飛んで行つて了つた。
                                (291 ページ)

 という美しい描写は変わらないと思う。しかし、それは私(あるいは他の読者)がそう思うだけてあって、志賀直哉にとっては、それが虻か蜂かわからないことには本当の美しさにはならないのだ。
 志賀直哉にとって「わけ」とは「事実」であり、それは志賀直哉だけの「事実」(たとえば、朝顔を少年時代にも美しいと知っていた、ということ)であっては不十分なのだ。「わけ」として成立するためには、他人と共有できる「事実」でなければならないのだ。
 ここに志賀直哉の厳しい美しさがある。ことばの美しさがある。



小僧の神様・一房の葡萄 (21世紀版少年少女日本文学館)
有島 武郎,志賀 直哉,武者小路 実篤
講談社

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