星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

カーヴィーなわたし

2011-03-04 | ダンス日和
   人は失ってから、それが大切だったことに気づく。
   
        
           アレキサンダー・アーキペンコ「空間にあるトルソ」1936年

最近気づいたことがある。私は三人以上と話す時、空間で浮かんでしまうことを言う癖があるらしい。
潜在意識では「え?なになに」と続けばいいなと願っているのかもしれない。
時々、浮いたまま自分一人で追いかけてしまうこともある。

兵庫県立美術館で、同世代の友人達といっしょにこのトルソを見た時私は言った。
   …「逆カーヴもありうるわね」
この言葉は、しばらく、空間に浮かんでいた。
そして、後からじわ~と、自分の言葉に傷ついた。きっと友人達も傷つけた。

モナリザと自分の顔を比べたりはしないのに、どうしてこのトルソは、自分と重ねてしまうのだろう。
それは、きっと、このカーヴィーラインがとてもとても好きであるだけでなく、かつては…と、自己妄想の記憶の中の探し場があるからだと思う。

この日、兵庫県立美術館のコレクション展Ⅲには、小出楢重の「裸婦」1930 の水彩画も出ていた。
自らを自虐的に「骨人」とよんだ画家が、思い切りカーヴィーボディを描いている。
彼もこのラインがとても好きだったに違いない。
 
~今の処、何といっても私が思う存分の勝手気ままを遠慮なく振る舞い得る場所はただ一枚のカンヴァスの上の仕事だけである、ここでは万事をあきらめる必要がない。私の欲望のありだけをつくす事が許されているのだといっていいと思う。~「小出楢重随筆集」芦屋風景より

カンヴァスの上での自由を得られない私は、未来に探し場を求めるという妄想・幻想を抱いて、樫木裕実先生のDVDについていくしかない。
 
「これを20年前からやっておけばよかったわ」と言った私に、
「70才になってもそう言うね」と母が言った。

汗と共に、小さな声が、空間にひらひら舞う。
  
      ♪あきらめないで~ 
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