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大阪紀行その4『大阪のばあちゃん』

2013年01月28日 | 家族のこと
僕は鹿児島におばあちゃんがいます。
こっちは親父のお母さんなので
直接の血縁関係のおばあちゃんです。

あともう1人
大阪にも【ばあちゃん】と呼んでいる方がいます。

というか、いました。

昔は今よりも近所付き合いというのが密で、
『世話焼きのおばちゃん』
『近所のおばちゃん』というのが結構いました。
特に僕の生まれた地域は低所得者層の下町なので
より一層ご近所で助け合いみたいな精神があったんですよ、
そしてママも親父と離婚して生活も大変でした。

性格も苛烈というか
言いたいことをガンガン言うタイプなので
あんまり幼稚園のママ付き合いみたいのは無かったように思います。

そんななか
文化住宅の隣に住んでいる老夫婦がいました。
※文化住宅というのは大阪の下町によくある集合住宅で
2階建ての長屋みたいな造りの建物です。

その老夫婦には子供がいなかったそうで
僕ら母子のことをいつも気にかけてくれていました。
その後僕らは引っ越したりもしましたが
電車に乗って遊びに行っていました。
その関係は
僕が小学校になってからもしばらく続き、
老夫婦もその文化住宅の近所でタバコ屋さんを営み細々と暮らし
僕はといえば、月一回くらいのペースで電車に揺られて遊びに行き、
じいちゃんと魚釣りに出かけたり
ばあちゃんとファミレスに行ったりしていました。

ちなみに
僕が喧嘩して相手に怪我をさせて
文句言いに来た相手の母親をママが張り倒して
二人して警察に連れて行かれた時も
ばあちゃんが迎えに来てくれました。
(この喧嘩は僕は悪くない喧嘩です)

学校を辞めた後も
働き始めてから何度か会いに行きました。

じいちゃんが亡くなってからは一人でお店を切り盛りしていましたが
近所の同世代の人たちからは名前から【ハルちゃん】と呼ばれ慕われていました。

大阪に住んでいる頃は
頻繁に会いに行きました。
じいちゃんは車が好きだったせいか
車の助手席に乗せるとよく
じいちゃんとの思い出を話してくれました。
古風で寡黙なじいちゃんでしたが
僕はじいちゃんも好きだったので、そういう話も楽しかったです。

東京に引っ越してからは頻繁に会いに行くことはできませんでしたが
年賀状や暑中見舞い、お歳暮&お中元などの関係は続けていました。

そんなある日
電話が来ました。

電話番号はばあちゃんです。

ですが電話口から聞こえる声は初めて聞く声で、ばあちゃんの妹と名乗りました。

ばあちゃんが亡くなったという話でした。

話を聞くと
僕は何も聞かされていなかったんですが
半年くらい前から入院していたそうです。

遺品を整理していると
僕からの年賀状や、お歳暮などに同封していた手紙が沢山出て来たそうで
それを火葬の際に一緒に焼いてもいいのかどうかという話と
僕とばあちゃんはどんな関係だったのかということでした。

ばあちゃんは自分のことはあまり話しませんでした
他の家族がいることも知りませんでしたし
それこそ小さい頃はしょっちゅう家に遊びに行っていましたが
家族の誰かが来ていることもありませんでした。

ただ
僕らが住んでいた文化住宅というのも
あまり本当の家族と交流があるような家も少なかったし、
妹さんとの話でも、実家とは疎遠だったような感じでした。

ただ
入院しているときでも
僕のことはよく話していたようで
「心配するだろうから入院していることは黙ってて」
とも言っていたようです。

何もできないなら
心配くらいはさせてほしかったな、とも思いましたが
一方でばあちゃんらしいなとも思いました。

そしてもう一つ
手紙を入れている箱、
『世己ちゃん』と書かれたずいぶん古い箱の中に入っていた貝殻についても
「そいつらも一緒に連れて行ってやってください」と答えました。

その貝殻は
海兎(ウミウサギ)という貝で
真っ白でツルツルの非常にきれいな貝です。
ちなみに生きているときには体が貝殻全体を包んでいるような構造になっているので
傷もほとんど付かず、宝貝と呼ばれる【昔お金として使われた貝】の仲間です。

そして
今回の大阪紀行で
ばあちゃんがやってたタバコ屋さんの前にも行きました。
家はもう空き家になっていました
何年もだれも住んでいないような風情です。

通り沿いにあったお店
ばあちゃんと一緒によく通ったケーキ屋さんも
中華料理屋さんも、今はもうありません。
しばらく歩きました。
やっぱり「こんな小さい空間だったか?」と感じます。

僕が小さい頃からやってる電気屋さんがあって
ちょうどおばちゃんが店じまいをしている風でしたので
話しかけてみました。
「あそこのタバコ屋さん、おばあちゃんがやってましたよね?」
電気屋さんのおばちゃんは気さくに話してくれました。
「お孫さん?」
「そんな感じです」
手を止めさせて話してくれたことにお礼をしてまた歩き出します。

少し歩くと
ガソリンスタンドがあります。

このガソリンスタンドも小さい頃
ばあちゃんと一緒に通っていました。
何で通うのかというと
このガソリンスタンドの大将は生き物が好きで
沢山の図鑑や百科事典などいろんな本を蔵書していて、
事務所内の本棚に並べていました。

僕の家はお金がなく
そういった本は無かったので
よくこのガソリンスタンドに来ては日がな一日本の世界に没頭していました。
そして、この大将の趣味の一つに貝殻収集があって
事務所内のショーケースにコレクションの貝殻を並べて
誰でも見られるようにしていたのです。

初めて行ったのは
じいちゃんと、ばあちゃんと、僕の3人で行ったときです
はっきりとは覚えていませんが、多分ガソリンを入れながら軽く窓とかを拭いている待ち時間だったような気がします。
僕も生き物が大好きだったので
ショーケースの貝殻に食い入るように見入っていました。

そのうち一つの貝殻から目が離せなくなりました。
大将とどんな話をしていたのかはもう覚えていませんが
その貝が【海兎】であること、その綺麗さに感動して手に取ったこと、
そして大将がその貝殻を僕にくれたことは覚えています。

2つもらって
1つは自分で持っていました。
もう1つは
ばあちゃんの家に置いていました。
僕が幼稚園くらいの頃なので、
亡くなるまでの間、たぶん20年くらいですか、
ずっと僕がいないときも思い出と一緒にばあちゃんといてくれたんですよ、
そんな思い出深いガソリンスタンドです。

ちなみに僕が持っていたもう一つは
阪神の地震の時になくなってしまいました・・・

ふと外から見ると
まだショーケースはありました。

なんだか懐かしくなって
中に入ってみました。

ほら貝や、アカニシ、アクキガイ、色んな貝が並んでいます。
まぁ個人の趣味なので特に個別に名前が載っているとか
説明書きがあるといったものはなく
聞けば教えてくれる程度でしょう。

その中に
海兎がありました。

ふと奥の事務所を見ると
本棚の大量の蔵書も見えます。

僕は「大将、これ海兎やね、綺麗やね・・・」と話しかけました。
マニアはそういうネタを振られると嬉々として語り始めます。
しばらく貝談義のあと
「見て一発で海兎って言い当てたのはお兄ちゃんで二人目やで」と切り出しました。
「もう亡くなったけど並びのタバコ屋にハルちゃんっておばあちゃんがおってな、
よくお孫さんみたいな子、連れてきはったわ、ホンマの孫とはちゃうんやろうけど・・・・」

僕「ふんふん」

ハルばあちゃんは
『この子は元気が良すぎて困る』と喜んでいたそうだ
でもガソリンスタンドの大将にとっては
止めない限りずっと本を読んでる学者肌の部分もある子供に見えたそうだ

大将「もう・・・30年以上前ちゃうかな・・・?
あの子はどえらい大物になってるで(笑)」

それは
僕のことだな、と
すぐに気付きました。

そして
僕は当時大将が海兎を【くれた】と思っていたのですが
真相はどうやら『当てたんだからちょうだい』とねだったそうです(>_<)

「それ、俺やわ(笑)」
とは、言えませんでした。

なんだか
言えませんでした。

名乗ると『すごい奴の思い出』みたいな感じで
僕がメインになってしまうような気がしました。

ハルばあちゃんの思い出にインパクトの上書きはしたくなかったんですよ
その大将の思い出の中ではずっとハルばあちゃんが主役であってほしかったんだと思います。

僕は「そのガキ、たぶん凄い奴になってるで(笑)」とだけ話すと、
出されたお茶を飲みほして車に戻りました。

有名人でもないけれど
僕の大切な人は
小さなコミュニティーの中に優しい記憶を残していてくれていました。

あまり悲しい気持ちにならなかったのは
そんな気持ちに触れたせいなのか
ただ時間が経っているせいか
それは分かりません。

でも
ずっとモヤモヤしてた感覚みたいなのがあって
何がどうしたってわけでもないんですが
なんとなくすっきりしたような感じもします。

仕事の合間のたった4時間程度でしたが
とても意義のある時間でした。

仕事に戻る時
ふと何気なく
「ばあちゃん、ありがとうな」と言ったような気がしました。


そしてまた
いつもの仕事に戻ります。

大阪紀行は今回で終了、次からまたいつもの調子に戻ります。










「親子そろって捕まった喧嘩って何?」と聞かれましたら
一応誤解を招かないため
「小学校くらいの時って、いじめっ子が3~4人くらいでフォーメーション組んで
ランドセルをパス回しして返さないというイジメをしますよね、その標的になった時に、
返してもらうのは一旦置いといて「返せよー」とか言いながら助走付けて思いっきりぶん殴って、動けなくなるまで凹って一人づつ人数を減らして、最後の一人になったところで返してもらって、でもそいつが主犯格だったのでやっぱり凹ったんです、そうしたらそいつの両親がうちに文句言いに来て、うちのママは「世己は筋の通らないケンカはしないんだよ!」って相手のオカンを張り倒したら、通報されて二人一緒に警察署まで行ったってわけです」とあくまでも自分は悪くないと主張します