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ママから学んだことは『自分の好きな自分であること』

2016年05月11日 | 家族のこと
今年の母の日はGWと重なってたそうですが
皆さんちゃんとお礼は言いましたか?

とはいえ
何々の日というのも沢山ありますが
僕としては普段から感謝の気持ちを伝えつつ
記念日にはもうワンランク上の何かをするのが本道かと思うのです。

スポーツでは単発の試合よりも普段の練習の方が大切なように
年間を通じて考えれば365分の1日に全力を尽くすのではなく、
365分の364日に100%を出し切って、残り一日は限界突破するのが良いんじゃないかなと、

そう思ってしまいます。

これって『今この瞬間死んだとしても納得できるように』っていう
僕の生き方の指標でもあるんですけど、僕は交際している女性には常に「可愛いね」と言いますし
好きの気持ちも伝えます。

ご飯を作ってくれれば少し食べるごとに「美味しいね」
美味しくなかったとしても作ってくれたことに「ありがとう」
そして次はもっと美味しくなるように頑張ってくれることに「ありがとう」
起こしてくれたことに「ありがとう」「助かったよ(笑)」
自分の為に綺麗でいようとしてくれることに感謝することも呼吸するように当然です。

練習でもトレーニングでもインターバルをあまり取らないのも傍目に見れば貧乏性かもしれませんが
その時出来ることは目一杯やっておきたい気持ちの表れで、
やっぱりそれは『気持ちの中にやり残しを持ちたくない』ってことだと思うんです。

僕は講演で必ず話すようにしている話があるんですが
僕は小学生の頃母を亡くしています。

くも膜下出血で搬送された時、
「大丈夫だよ」っていう言葉に違和感を感じながらも
倒れた瞬間に119番しなかったことを僕はずっと後悔してました。

病院で意識が戻って
少し安心した僕はまたいつもの日常に戻れると思ってました。
だから「『ママ』って呼んでちゅーしてくれたらもっと元気なるよ(笑)」という笑顔に
いつものように「なんでやねん、おかんやろ(笑)」などと答えていました。

少し疲れたように「ごめんね(倒れたの)カッコ悪いな」と言われたことに
自分の判断を謝りませんでした。

その言葉が最後でした。

なんで大好きな人との会話をマイナス言葉で終わらせたのか、
なんで呼んでほしい呼び方さえできなかったのか、
なんでもっと深く考えて即断できなかったのか、
そこにいた僕は本気で目一杯やっていたのか?
そんな自分の事を好きでいられるのか?

その時の後悔は反動になって
自分がどうありたいかの指針として、今も息づいています。

直接伝えることはできませんが
思い続ける事だけなら僕自身が死ぬまで持ち続けていられると思います。

ママの日には
毎年そんなことを思い出してしまうのです。

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大阪紀行その4『大阪のばあちゃん』

2013年01月28日 | 家族のこと
僕は鹿児島におばあちゃんがいます。
こっちは親父のお母さんなので
直接の血縁関係のおばあちゃんです。

あともう1人
大阪にも【ばあちゃん】と呼んでいる方がいます。

というか、いました。

昔は今よりも近所付き合いというのが密で、
『世話焼きのおばちゃん』
『近所のおばちゃん』というのが結構いました。
特に僕の生まれた地域は低所得者層の下町なので
より一層ご近所で助け合いみたいな精神があったんですよ、
そしてママも親父と離婚して生活も大変でした。

性格も苛烈というか
言いたいことをガンガン言うタイプなので
あんまり幼稚園のママ付き合いみたいのは無かったように思います。

そんななか
文化住宅の隣に住んでいる老夫婦がいました。
※文化住宅というのは大阪の下町によくある集合住宅で
2階建ての長屋みたいな造りの建物です。

その老夫婦には子供がいなかったそうで
僕ら母子のことをいつも気にかけてくれていました。
その後僕らは引っ越したりもしましたが
電車に乗って遊びに行っていました。
その関係は
僕が小学校になってからもしばらく続き、
老夫婦もその文化住宅の近所でタバコ屋さんを営み細々と暮らし
僕はといえば、月一回くらいのペースで電車に揺られて遊びに行き、
じいちゃんと魚釣りに出かけたり
ばあちゃんとファミレスに行ったりしていました。

ちなみに
僕が喧嘩して相手に怪我をさせて
文句言いに来た相手の母親をママが張り倒して
二人して警察に連れて行かれた時も
ばあちゃんが迎えに来てくれました。
(この喧嘩は僕は悪くない喧嘩です)

学校を辞めた後も
働き始めてから何度か会いに行きました。

じいちゃんが亡くなってからは一人でお店を切り盛りしていましたが
近所の同世代の人たちからは名前から【ハルちゃん】と呼ばれ慕われていました。

大阪に住んでいる頃は
頻繁に会いに行きました。
じいちゃんは車が好きだったせいか
車の助手席に乗せるとよく
じいちゃんとの思い出を話してくれました。
古風で寡黙なじいちゃんでしたが
僕はじいちゃんも好きだったので、そういう話も楽しかったです。

東京に引っ越してからは頻繁に会いに行くことはできませんでしたが
年賀状や暑中見舞い、お歳暮&お中元などの関係は続けていました。

そんなある日
電話が来ました。

電話番号はばあちゃんです。

ですが電話口から聞こえる声は初めて聞く声で、ばあちゃんの妹と名乗りました。

ばあちゃんが亡くなったという話でした。

話を聞くと
僕は何も聞かされていなかったんですが
半年くらい前から入院していたそうです。

遺品を整理していると
僕からの年賀状や、お歳暮などに同封していた手紙が沢山出て来たそうで
それを火葬の際に一緒に焼いてもいいのかどうかという話と
僕とばあちゃんはどんな関係だったのかということでした。

ばあちゃんは自分のことはあまり話しませんでした
他の家族がいることも知りませんでしたし
それこそ小さい頃はしょっちゅう家に遊びに行っていましたが
家族の誰かが来ていることもありませんでした。

ただ
僕らが住んでいた文化住宅というのも
あまり本当の家族と交流があるような家も少なかったし、
妹さんとの話でも、実家とは疎遠だったような感じでした。

ただ
入院しているときでも
僕のことはよく話していたようで
「心配するだろうから入院していることは黙ってて」
とも言っていたようです。

何もできないなら
心配くらいはさせてほしかったな、とも思いましたが
一方でばあちゃんらしいなとも思いました。

そしてもう一つ
手紙を入れている箱、
『世己ちゃん』と書かれたずいぶん古い箱の中に入っていた貝殻についても
「そいつらも一緒に連れて行ってやってください」と答えました。

その貝殻は
海兎(ウミウサギ)という貝で
真っ白でツルツルの非常にきれいな貝です。
ちなみに生きているときには体が貝殻全体を包んでいるような構造になっているので
傷もほとんど付かず、宝貝と呼ばれる【昔お金として使われた貝】の仲間です。

そして
今回の大阪紀行で
ばあちゃんがやってたタバコ屋さんの前にも行きました。
家はもう空き家になっていました
何年もだれも住んでいないような風情です。

通り沿いにあったお店
ばあちゃんと一緒によく通ったケーキ屋さんも
中華料理屋さんも、今はもうありません。
しばらく歩きました。
やっぱり「こんな小さい空間だったか?」と感じます。

僕が小さい頃からやってる電気屋さんがあって
ちょうどおばちゃんが店じまいをしている風でしたので
話しかけてみました。
「あそこのタバコ屋さん、おばあちゃんがやってましたよね?」
電気屋さんのおばちゃんは気さくに話してくれました。
「お孫さん?」
「そんな感じです」
手を止めさせて話してくれたことにお礼をしてまた歩き出します。

少し歩くと
ガソリンスタンドがあります。

このガソリンスタンドも小さい頃
ばあちゃんと一緒に通っていました。
何で通うのかというと
このガソリンスタンドの大将は生き物が好きで
沢山の図鑑や百科事典などいろんな本を蔵書していて、
事務所内の本棚に並べていました。

僕の家はお金がなく
そういった本は無かったので
よくこのガソリンスタンドに来ては日がな一日本の世界に没頭していました。
そして、この大将の趣味の一つに貝殻収集があって
事務所内のショーケースにコレクションの貝殻を並べて
誰でも見られるようにしていたのです。

初めて行ったのは
じいちゃんと、ばあちゃんと、僕の3人で行ったときです
はっきりとは覚えていませんが、多分ガソリンを入れながら軽く窓とかを拭いている待ち時間だったような気がします。
僕も生き物が大好きだったので
ショーケースの貝殻に食い入るように見入っていました。

そのうち一つの貝殻から目が離せなくなりました。
大将とどんな話をしていたのかはもう覚えていませんが
その貝が【海兎】であること、その綺麗さに感動して手に取ったこと、
そして大将がその貝殻を僕にくれたことは覚えています。

2つもらって
1つは自分で持っていました。
もう1つは
ばあちゃんの家に置いていました。
僕が幼稚園くらいの頃なので、
亡くなるまでの間、たぶん20年くらいですか、
ずっと僕がいないときも思い出と一緒にばあちゃんといてくれたんですよ、
そんな思い出深いガソリンスタンドです。

ちなみに僕が持っていたもう一つは
阪神の地震の時になくなってしまいました・・・

ふと外から見ると
まだショーケースはありました。

なんだか懐かしくなって
中に入ってみました。

ほら貝や、アカニシ、アクキガイ、色んな貝が並んでいます。
まぁ個人の趣味なので特に個別に名前が載っているとか
説明書きがあるといったものはなく
聞けば教えてくれる程度でしょう。

その中に
海兎がありました。

ふと奥の事務所を見ると
本棚の大量の蔵書も見えます。

僕は「大将、これ海兎やね、綺麗やね・・・」と話しかけました。
マニアはそういうネタを振られると嬉々として語り始めます。
しばらく貝談義のあと
「見て一発で海兎って言い当てたのはお兄ちゃんで二人目やで」と切り出しました。
「もう亡くなったけど並びのタバコ屋にハルちゃんっておばあちゃんがおってな、
よくお孫さんみたいな子、連れてきはったわ、ホンマの孫とはちゃうんやろうけど・・・・」

僕「ふんふん」

ハルばあちゃんは
『この子は元気が良すぎて困る』と喜んでいたそうだ
でもガソリンスタンドの大将にとっては
止めない限りずっと本を読んでる学者肌の部分もある子供に見えたそうだ

大将「もう・・・30年以上前ちゃうかな・・・?
あの子はどえらい大物になってるで(笑)」

それは
僕のことだな、と
すぐに気付きました。

そして
僕は当時大将が海兎を【くれた】と思っていたのですが
真相はどうやら『当てたんだからちょうだい』とねだったそうです(>_<)

「それ、俺やわ(笑)」
とは、言えませんでした。

なんだか
言えませんでした。

名乗ると『すごい奴の思い出』みたいな感じで
僕がメインになってしまうような気がしました。

ハルばあちゃんの思い出にインパクトの上書きはしたくなかったんですよ
その大将の思い出の中ではずっとハルばあちゃんが主役であってほしかったんだと思います。

僕は「そのガキ、たぶん凄い奴になってるで(笑)」とだけ話すと、
出されたお茶を飲みほして車に戻りました。

有名人でもないけれど
僕の大切な人は
小さなコミュニティーの中に優しい記憶を残していてくれていました。

あまり悲しい気持ちにならなかったのは
そんな気持ちに触れたせいなのか
ただ時間が経っているせいか
それは分かりません。

でも
ずっとモヤモヤしてた感覚みたいなのがあって
何がどうしたってわけでもないんですが
なんとなくすっきりしたような感じもします。

仕事の合間のたった4時間程度でしたが
とても意義のある時間でした。

仕事に戻る時
ふと何気なく
「ばあちゃん、ありがとうな」と言ったような気がしました。


そしてまた
いつもの仕事に戻ります。

大阪紀行は今回で終了、次からまたいつもの調子に戻ります。










「親子そろって捕まった喧嘩って何?」と聞かれましたら
一応誤解を招かないため
「小学校くらいの時って、いじめっ子が3~4人くらいでフォーメーション組んで
ランドセルをパス回しして返さないというイジメをしますよね、その標的になった時に、
返してもらうのは一旦置いといて「返せよー」とか言いながら助走付けて思いっきりぶん殴って、動けなくなるまで凹って一人づつ人数を減らして、最後の一人になったところで返してもらって、でもそいつが主犯格だったのでやっぱり凹ったんです、そうしたらそいつの両親がうちに文句言いに来て、うちのママは「世己は筋の通らないケンカはしないんだよ!」って相手のオカンを張り倒したら、通報されて二人一緒に警察署まで行ったってわけです」とあくまでも自分は悪くないと主張します




鹿児島紀行その3

2012年08月10日 | 家族のこと
鹿児島紀行その3です。

ちょうど一年くらい前に
おばあちゃんが入院したのでお見舞いがてら行ったことがありました。

http://blog.goo.ne.jp/seiki-v8/e/0e6af258c55500e916f947dcadd5a173

今回も時間があれば寄りたかったのですが
仕事がメインだったのと
目的地から婆ちゃんの家まではかなり距離があること、
ぬか喜びさせてへこますのもダメなので
行ける目途が立つまで連絡はしないようにしていました。

で、なんとか15分くらい時間を空けられるようになったので
ばあちゃん宅へ急ぐことに、
走りながら電話します。
もちろんハンズフリーです。

「ばあちゃん、今から行く」

ばあちゃんは特に驚く様子もなく
「お茶でも入れとくね」

高速道路をひた走って家に着くと
茶とお菓子を準備してくれていました。

前回はほとんど自力で歩けないような状態でしたが
ずいぶんと顔色もよくなって
一目で元気になっていることが分かります。

手すりが増えた家の中なんかはさすがに
年齢を感じますが、

「『今から行く』なんて電話だからばあちゃんボケたかと思った(笑)」なんて
自分から言うくらいですから、きっとまだまだ大丈夫です。

分かれ際、
また涙ぐんでるばあちゃんに
「あんまり泣いてたら干からびるで」って返す僕です。

今回も
車で走っていく僕をずっと見送ってました。

次に来るときには
もうちょっとお土産でも持って来るつもりです。

ばあちゃんとも
次の約束もしているので
きっと待っててくれるはずです。

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おばあちゃんの話

2011年09月22日 | 家族のこと
敬老の日でした。
僕には鹿児島におばあちゃんがいまして、

先日入院したという話を聞いたため
とりあえず一回会いに行こうと思い鹿児島までほぼ日帰りの強行軍を目論見ました。

僕は親戚連中からはあまりいい顔されないというか
鼻つまみ者というか
ゴミ扱いというか
ようするに嫌な奴として扱われているわけです。

僕自身もさして仲良くしたいとも思ってないので好感度上げるようなことはしません。

ただ
ばあちゃんだけは僕の事を大事にしてくれました。

住んでる所が遠かったので
おばあちゃん子になれるほど会ってませんが
大人になってからも事あるごとに
何やかんやと送ってました。

気持ちの若いおばあちゃんで
高級漬物セットを送ったときには『年寄りくさいな~』
好きな食べ物を聞けば「肉かチョコ」

何年か前に飛行機で帰ったときには
搭乗待ちの昼食でカツ丼セットを食べていたので
さすがに年寄りには重過ぎるんじゃないかと思って
「ばあちゃん、余ったらもらうよ」っていおうとしたら
すでに完食してデザートのプリンまで食べ始めていたり、

以前に入院した理由は台風の日に雨漏りを修理しようと屋根に上がっていたら足を滑らせて転落したと
およそ80過ぎのお年寄りとは思えない理由だったり・・・

ばあちゃんも僕に会いたがってたのですが
いつも「もうすぐ死ぬから一回顔見たい♪」と笑ってました。

電話ではよく「ばあちゃん、死ぬ死ぬ詐欺やないんやから(笑)」と返してました。

腰も曲がってなくて毎日小さい山の上のお墓に墓参りに行ったり
「ばあちゃんはものすごい美人だったから北方小町って呼ばれてたんだよ」っておどけてみたり。
※これは本当で実際とてつもない美人でした。
・・・なぜにこの部分が遺伝しなかったのでしょう

ただ
やはり年齢的なものなのか
喉の調子も悪くなり、電話ではあまり長い時間は話せなくなってきました。
そんな折、腸の壊死で入院という話を聞きました。

もしもの事も考えますので
敬老の日のプレゼントもかねて
実際に会いに行くため時間を調整しました。

当初は入院先の病院に行く予定でしたが
驚異的な回復力を見せ、自宅での静養で大丈夫とのことでした。

おばあちゃんなので
そんなに大柄ではありませんが
なんだか前よりも小さくなっていました。

流暢に話す事もできなくなっていました。

体が弱くなると
気持ちも弱くなるのか
憎まれ口も出なくなっていました。

戸を開けて、横に座って「お待たせ」と言って手を添えると
ずっと涙を流していました。

「なんにもしてあげられなくてごめんね」って言ってくれました。

綺麗な手でした。
今まで生きてきた痕が刻まれた
宝石のような手です。

気持ちの強さって力になるんでしょうね
すごい握力でしたよ。
数え切れないくらいのプロ格闘家と組み合ってきましたけど
誰よりも力強かったです。

多少落ち着いて話しました

入院でずいぶん痩せた事
「でも43キロまで増えたんだよ」って笑ってました。
僕も「体重増えるうちはまだまだ大丈夫やで」と返しました。

以前は
「ばあちゃんもうすぐ死ぬから世己に会いたいな~(笑)」って笑ってました

今は
「もう一回元気になりたい」って言ってます。

きっとなれると思います。

なるに決まってます。

僕のばあちゃんです。

生物としての強さは僕と遺伝子レベルで同じはずです。

後がないような人にあんな握力は出せません

短時間の滞在でしたが
きっと喜んでもらえたと思います。

絶対に喜んでもらえたはずです。

帰るとき
歩くのも苦しいのに玄関まで出てきてずっと手を振っていました。
居間から立ち上がって玄関先まで見送る、ほんの数メートルの移動に数分かかっています。
介助しようとする親戚を断って
僕に心配させないようにでしょう
自分の足で歩いていました。

立ってるだけでも辛いはずなのに
まっすぐこちらを見送ってくれました。

見えなくなるまで、ずっとです。

親戚連中から「世己は手が付けられない」だとか
「ばあちゃんから何とか言ってやって」と言われてきた僕は
今はばあちゃんにとっての『自慢の孫』になれてるかな?

僕自身は
まだ途中だと思っています。

常日頃から「俺は偉人になる!」と放言していました。

なので
偉人になった報告をするまでは自慢の孫ではないということです。

アメ車雑誌やバイク雑誌に掲載されたのは大切に取っておいてくれてました。
格闘技雑誌の記事を見て「世己は東京でプロレスラーをやってる」という話になった事もあるようです。

まだまだ

偉人になるって公約を果たして
また「お待たせ」って宝石の手を握るまで

のんびり待っててもらわないといけません。

時間が無いなんて言わせません。

僕のばあちゃんなら
きっとずっと待っててくれると思うのです。


「また来るから元気で待ってて」っていう約束は
きっと守ってくれるはずです。



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自販機の思い出

2011年04月17日 | 家族のこと
都知事が
節電の一環としてパチンコ屋を閉めちまえだとか
自販機の稼働率を下げろだとか吼えてるそうですな

まぁ
僕はパチンコ業界にはかつて働いてたこともありますが
当時からさして興味はなく
今まで打ったことは数回しかありません。

なので
実感としては『どうでもいい』というのが正直な感想です。

んで自販機、
確かに多すぎる気はします。
特に同じ会社の自販機がずらっと並んでいるのを見ると
「無駄だなぁ」と感じます。

また同じ商品がいくつも並んでいるのですから
全種類を1つづつ並べれば
本体は少なくていいと思うのです。

ただ
これはきっとシェアの奪い合いで
コンビニでいう『ドミナント出店』みたいなもんなんでしょうか?

※ドミナント出店⇒空いてるテナントなら自社店舗を入れてライバル社が入れなくすることで
地域の勢力を強めるやり方、流通面でも有利になるらしい・・・

ずいぶん前置きが長くなってしまいましたが
その昔、自販機のハンバーガーというのがありまして、
最近ネットで名前を知ったのですが
『グーテンバーガー』というそうです。

20年位前までは
高速道路のSAなんかによく置いてた奴ですが
会社が撤退したとかでもう稼動している自販機はありません。

今はホットドッグなんかの自販機になってますね。

他にも
今もありますがカップめんとか、
今は見ませんがカキ氷の自販機もありました
あれってシロップが出てくるストローを
アリンコが登っていくんですよ
地方にツーリングに行くと
生めんタイプのうどんなんかも見かけます。

なんかね
暖まりムラがあったり
アホみたいに熱かったり

対して美味しくないんですけど
昭和の残り香みたいな感じがするんですよ

匂いで記憶がよみがえる事を『プルースト効果』といいますが
味と匂いが近しい関係なら思い出と一緒に味わってるのかも知れません

僕にとってのグーテンバーガーの味は
母を亡くして家を出たとき
「明日からどうしようかな?」と
考えながら食べた味です。

決して高いものではないけれど
二人で遊びに行ったとき
よく食べてたのを思い出してました。

「『ママ』って呼びながらちゅーしてくれたらあげるよ
なんて、いつも悪戯っ子みたいな会話でした。

年齢的には追い越したような気がしますが
精神年齢が低いのは血筋なんだなと実感してます

節電で止まっている自販機に
母の日のポスターみたいなのが貼ってあったので
つい思い出しました。


「グーテンバーガーいいよね!」と思っていただけましたら
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釈尼妙華

2009年05月21日 | 家族のこと
こないだのブログで母のことを少し書いたら
いろんなところからコメントもらったり、メールが届いたりした。

『僕のお母さん』的な作文を書いたことがなかった僕にとっては
なんだかこそばゆいというか、少しいい気持ちだった。

このブログは一応事務所用のなので、
書こうか書くまいか迷っていたが
僕の人間形成の一端という意味で書くことにした。

というのは後付けの理由で
要するにママ自慢がしたかっただけです(笑

さて、タイトルは母の戒名だ。
意味は知らない。

僕の母というのは、いつでも目一杯というか
褒める時も怒るときも思いっきりな人でした。

朝起きたら『ぎゅー』
学校行くときも『ぎゅー』
帰ってきたら『ぎゅー』
寝る前ももちろん『ぎゅー』
たとえ喧嘩して帰ってきても
夕飯の時に「どんな喧嘩だったか、筋が通る喧嘩だったか、
誰のための(何のための)喧嘩だったか」たくさん話して
「世己はえらいぞ」と言ってくれました。
とりあえず一緒にいるときは
常に何かしら褒められてたような記憶があります。
ただ、必ず「○○だから」と理由を添えて褒められてたので
おかしな選民思想は持たなかったんじゃないでしょうか?

怒るとき・・・といってもちゃんと怒られたのは
記憶では1回しかなくて、
時期は忘れてしまったが、僕はカブトムシの幼虫を育てていまして、
んで、サナギになっていたのだが、当時僕は何かの本で
【昆虫のサナギの中は液体状になっていて、成虫の体に再構築される】
というのを読んでいました。
それで、サナギの中身がどうなってるのか気になって気になって
とうとうそのサナギを切ってしまった・・と。
子供って残酷です・・・

思いっきり[ぐー]で殴られました。
もー滅多打ちです。
母が「手ぇ痛なったわ」って言ったので終わりかと思ったら
今度は布団叩きでフルスイングです。

力業ではありますが、命の大切さとか
痛みを感じることとか、
そういうことは一回きちっと教えないとなと思います。

小さく怒られたのは数え切れないほどあるのですが
怒った後はかならず『ぎゅー』しながら
「なぜ怒られたか」を話してくれました。

たとえ殴られても【大切にされてる】ことを感じてました。

一方ある意味溺愛じみたところもありまして、

ある日、学校の帰り道で喧嘩しました。
事の発端は、いじめる側が4人一組になって、
ターゲットの荷物とかを取り上げて
「かえせよー」なんて近寄ってきたら
仲間に投げ渡して返さない、というやつです。

んで僕がターゲットにされたと、
「返せよ~」なんて言うのもアホ臭かったので
2,3回「返せよ」と言ったあとは
思いっきり石投げ付けて、ひるんだ主犯格をぶん殴ったわけです。

んでその日の夕飯時にその話をしていて
「ちょっとやり過ぎかもね」なんて母も笑ってましたが
相手とその両親が僕の家に来たんですよ、
「どうしてくれるんだ!」みたいな感じで

母は「絶対引いたらアカンで」と言ってドアを開け相手方両親と対面、
会話の大部分はほとんど分かりませんでしたが、
基本は「子供の喧嘩に親が出てくるな」と
「うちの世己は筋の通らないケンカは絶対しない」でした。
最後は僕が殴った奴がさすがに非を感じたのか「おかん、もうええよ」と
引き下がりました。
後で聞くと、どうやら詳しい状況は話していなくて
怪我してるのを見て大騒ぎしてたそうです。

喧嘩して学校に呼び出された時も
「筋の通らない喧嘩をするような教育はしてない」
「うちの世己と喧嘩したなら向こうの方が悪い」
「相手もここに連れて来い」

その日の夜の話は
かならず、行動と責任と、手加減がテーマです(笑

傍から見れば、
自分の子供だけが正しいって信じきる痛い親って思われるかもですね。
でも、僕にしてみれば筋の通らないことや曲がったことが許せないわけで
そこで引いたら母への面子が立たないのです。

弱い者いじめは絶対にしてない
生まれてこの方、筋の通らない喧嘩はしたことがない

そう言い切れることは
きっと母の教育は過程の是非はあれども
結果的には正しかったんではないかなと思います。

そんな日常でしたが、
お金はなかったし、ずっと働きづめの母でした。
寝てる姿はほとんど見てません。
生活は楽ではなかったはずですが、マイナス言葉は吐きませんでした。
僕が新聞配達をして月80000円の給料をもらうようになり、
全部を母に渡しても、僕名義の通帳を作って
「世己が大きくなった時に欲しいもの買うんやで」と

本当は【今、母がゆっくりできる時間】を買いたかったんですけどね

どこかへ行くとかもほとんどありませんでしたが、
一緒にいた時間全部が楽しい時間の宝物です。

そんな小4の大みそか、
二人で大掃除をしているとき、「頭が痛い」とうずくまってしまいました。
実はそれまでも頭が痛いとじっとすることが何度かありました。
でもすぐに治ってたのですが、その時は尋常でない気配を察しました。
「大丈夫だから」という母の言葉は採用せず
勝手に救急車を呼び、病院へ運びました。

原因はクモ膜下出血でした。
その日は多少話せる程度に意識はあったので

前のブログのようなやり取りがあったわけです。

初日に病室で別れる時、最初で最後の
僕から母への『ぎゅー』でした。

入院二日目からは意識のない母の周りで
親戚やら、父やらがどこからともなく湧いて出てきて
冷静に雑務をこなしていきます。

僕は取り残されてる感じです。
それまでうたた寝程度しか見たことのなかった母の寝顔を眺めながら・・・

そして1月3日、
他のメンバーの涙がとんでもなく胡散臭く感じました。
なんだか、準備してました感しか感じられないんですよ・・
偽善臭さというか、今までほったらかしでこれか?って

その後は、お通夜やら何やら、
空虚極まりない忙しさです。

そんな中
引出しを開けると・・・相当な大金が入っていた通帳は見当たりません。
とりあえず聞いてみても「知らない」という返事、
落胆よりも「やっぱりな」という気持ちしか出てきません。

僕は父が大嫌いでした、
今より当時の方がはるかに嫌いです。

僕の気持ちは固まりました。

嫌いな奴の世話になるくらいなら、死んだ方がマシってもんです。

その後の経緯は
やはり公の場で書けるようなことではありません・・・

僕は100%清廉な人間ではないです。
法的にどうかと言われれば、
自覚がないだけで【あっち側】に関わったこともあるでしょう
それを自分で選んだわけです。
でも、絶対に許せない人間の傘に入るくらいなら
びしょ濡れの方が気持ちいもんです。

社会(法律面)に対しては「ごめんな、まぁ許せよ」って言っときます。
ですが、母はきっと「偉いぞ」って褒めてくれるように思います。

いつも言われてた
【自分でかっこいいと思えるように、
自分のことを好きになれるように活きなさい】

大人になった僕は自分の事が好きになれているから
きっとその教育は間違っていない。

母上様

2009年05月08日 | 家族のこと
5月10日は母の日だそうだ。

小学校の頃、
終りのHRでクラス全員に赤いカーネーションが配られたことがあった。
僕だけ白いカーネーションを渡された。

渡す相手のいない子は白いカーネーションなんだそうだ

花は何も悪くないんだが、
子供心に妙な偽善感を感じて、帰り道で捨ててしまった。

うちのママは、基本的には放任というか、
やりたいことは思いっきりやれという感じで、
あんまり怒られた記憶もない。

喧嘩して帰ってきても「ちゃんと勝ったの?」と聞かれた。
でも、必ず「何のための喧嘩か」を夕飯の時に話した。
たいてい理由を話すと誉められた。

そんなママはよく
【責任】【覚悟】という言葉を僕に話していた。

僕は食べ物の好き嫌いが多かったが
無理に食べさせられるようなこともなかった。

ただ、嫌いというなら食糧難になっても食べたらダメ。
好きっていうなら、毎日3食食べられるくらいじゃないと(笑
・・・後半は半ば冗談めかして言われてた。

人に対しても同じで
嫌いって感じたなら、簡単に信じたらダメ
好きって言葉を使うなら、自分より大切にできないとダメ

今思えば
どこかの女に入れあげて僕らを捨てた父への思いも入ってたのかもしれない。


一番を目指さないといけない。
でも一番強いなら、一番優しくないといけない。

ママは自分自身に対して優しかったのかな?
僕を大切にしてくれたことは
好きっていう言葉の責任を果たしただけなんだろうな・・・

病室で聞いた最後の言葉は、
「ごめんね、かっこ悪いね」だった。

「自分でカッコいいと思えるように生きなさい」
と、事あるごとによく言われた。
もちろん喧嘩するたび言われた。

僕を残して倒れたことは
ママにとって『かっこ悪いこと』だったのかもしれない。

でも
僕の【こころ】を作ってくれたことに感謝している。
誰に対しても「俺は間違ってない」って言える生き方が出来てること。
好きなように生きられる力を備えさせてくれたこと、
大切な人のためならを自分を後回しにできる気持ちを育んでくれたこと、

そんな僕を作ってくれたママは、きっと格好いい。

母の日の頃に
「そういえば去年も今年も墓参り行ってないな
って考えてたら、そんなことを思い出した。