先だってから何度かブログにもアップしている記事
が、いろんなところで反響を受けてます。
励ましのメールを頂くこともある。
批判のメールを頂くこともある。
どんな形であれ、いろんな人の考えるきっかけになってくれたのならありがたいです。
でも最も嬉しかったのは
当の本人であるアマゾンから『良かったです』と言ってもらえたことでした。
是非一度会いたいという話もあり、
僕も直接話を聞いてみたいということもあって
時間を調整して念願の遭遇となりました。
以前に会ったのは1年ちょっと前でしたが
さすがに少し小さくなってるように感じました。
怒涛の毎日で疲れているはずなのに満面の笑顔で迎えてくれるアマゾンでしたが
やはり最初に感じたのは「無理してないかな?」ということでした。
最初は軽く近況だったりとか格闘技談義から、
いよいよ核心に入ります。
そこで聞けたことは、
やっぱりマスコミなどのフィルターを通さない生々しいものでした。
僕は
いろいろ聞きたいこともありました。
でも現実に直面した時にできた質問は
「死生観とか、変わった?」その程度でした。
・・・
いよいよ危ないとなった時、
脳梗塞から意識が無い状態で脳死の判定テストというのが行われるそうですが、
子供の場合、それが3回あるそうです。
小さい体にいろんな刺激を与えてその反応を見る際、
微弱な脳波を拾うためにセンサーの感度も最強にするそうで・・・
「やっぱり親ですから、奇跡が起きるんじゃないかって、でも
だんだん奇跡が起きないこと、もうダメだってこと、分かるんですよ」
何枚かその時の写真も見せてもらいました。
僕がアマゾンとの話で一番印象深かったのが力の入らない優希ちゃんの体を抱っこした時に
「ああ・・・ここにはもう『生(せい)』はないんだ・・って実感しました」っていう言い回しです。
仮に、脳死だけどただ生きている、っていう状態を続けていくと
長期脳死という状態になり、体はだんだん弱っていくそうだ。
『命』があるのに、まだ温かいはずなのに、『生の終わり』を認めないといけないのは
どんなにか悔しかっただろう。
1時間半くらいの話の中で
アマゾンは一度も『命』という表現を使っていなかったように感じました。
『命』ではなく『生(せい)』、
命のリレーなどと言われるように、優希ちゃんの臓器は新たなレシピエントの中で生きています。
命そのものはつながっているのかもしれませんが、それは次の人の『生』であって、優希ちゃんの『生』は終わってしまっているわけです。
僕は今回会う中で
一つ決めていたことがあって、それは『絶対に泣かない』というものです。
日記や直接話す中でのアマゾンの印象は前を向いて進んでいくというものでした。
本人が乗り越えたという事件に対して外野が蒸し返すようなことはするべきではないと考えたからです。
でも
命の境にいる優希ちゃんの写真を見た時、そんな自戒は守れませんでしたね。
そして移植医療の現実の話も聞きました。
報道などでは『容体が急変したことで大人用の人工補助心臓をつないだ、海外の小児用人工補助心臓は使えなかった』というのが主な論調になっているのですが、もう少し正確に言えば、厳密にいえばドイツ、ベルリンハート社製の小児用人工補助心臓は使えるんです。
ただし、その場合は治験という扱いになって、細かい部分はいろんな誤解を招いたりすることも有るので割愛しますが、
最も重要なことは『国内での移植が前提になる』ということです。
容体が急変するという事は緊急事態なんですが
その状態で国内でドナーを待っている時間などありません。
また治験で繋いでしまうと海外でドナーを探すこともできませんし、見つかったからといってすぐに行くというような事もできません。
ちなみに
治験扱いでこのベルリンハート社の人工補助心臓が認証されているのは2012年です。
いったい2年以上も何をやってたんですかね?
また移植医療の現実というか国内で絶望的にドナーが少ない原因は、
もちろん文化として定着していないということもあるのですが、斡旋する医療機関が無いということです。
この場合の斡旋というのは臓器移植ネットワークのような仲介をする組織ということではなく、
「ドナーになりませんか?」あるいは「ドナーになってください」と持ち掛ける団体という意味です。
提供する側は自分で情報を探して「提供したい」と申し出なければなりません。
家族を失った直後にそんな申出ができるような人が一体どのくらいいるのかということですよ。
もちろん臓器売買につながりかねないとか
いろんな利権が絡みそうとか、疑惑を持てばキリがありませんが、
現実問題として疑惑になるほどの数にすら全く届いていないのが現状です。
もちろん両親には蛇蝎の如く忌まれるかもしれません。
しかし、そういうポジションの人も必要なんではないか?
あるいはもっと提供側の意識を変えるような広報活動などが必要だろうなと実感しました。
話を聞いてても悲しさと怒りと、いろんな感情が出てしまいますが、それでもアマゾンは
「誰も悪くないし、誰を恨んでるとか、そういうのも無いです」と応じます。
普通なら自分の辛さを紛らわせるために責任を外に求めることだってあると思いますが
この男はそういうことは一切しません。
また当初予定されていた実名での記者会見が突然中止になったことについても
「みんな本当に一生懸命やってくれたと思います。もちろんいろんな意見はあると思いますし、
違う立ち位置から言ってるから責められたりすることもあるかもしれないけど、最終的な目指すゴールは同じだと思うし、
その時点でできる限りのことはやってくれたと思います・・・」
外野でさえ会見中止までの流れにはワナワナする部分が山のようにあるのに
言いたいことは山ほどあるだろうに
そんな風に言えるのは大した男だなと思います。
そしてアマゾンが優希ちゃんをすごく褒めてたのは
『名を遺した』こと、
本人の弁を借りれば「80歳まで生きようが何も残せない人だってたくさんいる。
でも優希は色んなものを遺せたと思う、それって格闘技的な観点かもですよね(笑)」
死ぬほど練習してもラッキーパンチで秒殺されることもある。
好きなのに向いてなくて結果が出せないこともある。
そして、『ここで勝ったら死んでもいい』って思える瞬間があります。
命は手段の一つって考えるのは、そういう世界で生きてきたアマゾンならある意味当然のことかもしれない。
そんな中でも微笑ましい話もあって
今回優希ちゃんはいくつかの臓器を提供しましたが、角膜は提供していませんでした。
僕も知らなかったんですが、角膜って眼球ごと取るそうです。
「やっぱり女の子ですから、顔は可愛いままで送ってやりたいじゃないですか(笑)」
なるほど、
確かに目が見えなくても死なないですしね(笑)
告別式に参列した格闘家たちは
綺麗にお色直しされた優希ちゃんに会えましたが、
それにはこういう心遣いもあったようです。
アマゾン自身は
そういう運動家になるつもりもないそうで、
おかしな制度が変わるきっかけになってくれればいいと思ってます。
ということでした。
そして『選べないこと』の苦しさも繰り返してました。
僕は偉そうなことを言える立場ではないけど
何が一番いいかは
みんな分かってるはずだと思いますし、目的地も同じだと思うんですよ。
だったら、先に目的に到着=制度も変えてしまって選択肢を持てるようになって、
それからいくらでも批判すればいいと思います。
書ける範囲だとこんな感じですが
もっと生々しい話題もありました。
外野でさえ怒りに打ち震えるようなことなのに
本人からすればどれほどの事かって愕然とするような話も聞きました。
ですが、
本人がそれを公開しない以上僕の方から言うことではないと思います。
ただ、
文字通り死ぬより苦しい時間を過ごしてきた両親がいたこと、
それだけは風化させないようにしたいと思いました。
最後まで
聞くのを迷った質問がありました。
「優希ちゃんは、痛かったり苦しかったりしたのかな?」
「そういう感覚はなかったと思います。」
ほんの少しだけ、気休めかもしれませんが救われたような気がしました。
そして
アマゾンからもう少し選手を続けるという話も聞きました。
もちろん今後の将来設計などもあるでしょうけど、僕としては
いつか話にあった「ゆうちゃんが心配で柔道辞めちゃったの?」の答えでもあり
「前、向くしかないですから」と力強く答える笑顔に最初に感じた寂寥感を感じなかったのは、きっと僕の内心が表れていたからでしょう。
帰り際、
見えなくなるまで見送ってくれたアマゾンは
元通りのデカい最強柔術家『杉江アマゾン大輔』でした。
あーぁ
僕も柔術戻るところで、
同じ階級に最強のラスボスが出て来やがったよ(喜)
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