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伊賀上野が元気になればいいなあ!

上野の城下町、どうなっていくんだろう、、、見守る元気はないけれど、静かに生きていこうと思う(笑)。

■シリーズ 活き活き商店街とまちづくり■ ①

2009-08-11 08:37:03 | 町づくりって楽しいかも!
NPO法人まちづくり協会 三橋重昭氏(中小企業診断士)から定期的に送られてくるメールより、ご紹介。

【地域コミュニティの担い手として商店街「東京足立区・東和銀座商店街」の場合】

1. 朝市の盛況

東和銀座商店街の田中武夫理事長から、今うちの商店街を見るなら、朝早くきてごらんといわれた。
朝7時にはピークを過ぎるからその前の方がいいよ!言われて、6月14日(土)朝6時半に訪れた。
東和銀座商店街は、大勢のお客さんで賑わっていた。

現在、毎月第二土曜日には朝市を開催している。
この日はその朝市の当日だった。

八百屋さんの前には、新鮮な野菜、果物を求めて、肉屋さんの前には炭火で焼いている焼き鳥を求めて大勢のお客さんが列を作っていた。
50人くらいのお客さんが並んでいる前には、米屋さんがおこわご飯を炊いていた。

主人にお聞きすると、朝市では1俵(60kg)のおこわが炊き上がるとあっという間に売り切れるという。
 
田中理事長は、朝市全体を見回りながら多くのお客さんと笑顔で会話を交わしていた。
午前7時に、近所の小学校の校庭で朝市開始を知らせる花火が上がったが、その時には買物を済ませておしゃべりしている人や帰る人もいた。

田中理事長に最初にお目にかかったのは、もう20年位前でその後も度々お会いしているが年齢は全く感じさせない。
現在は、足立区商店街振興組合連合会理事長、東京都商店街振興組合副理事長、そして全国商店街振興組合連合会理事も務めている。

2. 近江商人として教育

田中理事長は、滋賀県草津市の生まれ。
昭和19年(1944年)に、“近江商人の士官学校”とも評された滋賀県立八幡商業学校に入学。
当時は草津の実家から近江八幡市にある学校まで2時間ほどかかった。

入学して最初の1ヶ月間は、授業の前に新入生講堂に集まれ!と号令がかかり、“商い”とは何かについて1時間教育を受けた。
それは今で言う近江商人の「三方よしの精神」で、“商い”は、まずお客さんのため、次に地域社会のためにあるものであって、利はその結果として与えられるものというもの。


今から60年以上前のこの授業前の講話が、今日の田中理事長の商売の根本に息づいている。

終戦後、学校を卒業し、東京に出て、繊維卸に勤めたがそこが倒産してしまった。
店を持ってしっかりとした商いをやりたいとの思いが募っていたときに、現在の
商店街で、2坪の空き店舗が出たということを知る。
しかし元手に不足していた。
困っていると繊維卸時代の得意先の呉服店の主人が、お金を立て替えてくれるという。

この呉服店の主人は、ある土砂降りの夜のこと、布団生地を2反至急届けて欲しいと注文したところ、田中さんが会社のあった両国から板橋まで自転車でおよそ2時間かけて嫌な顔を全く見せずに納品したくれたことで、田中さんが困っているときには手を差し伸べたいと思っていたという。

独立して5年後、東和銀座商店街の中に、店舗が売りに出された。
是非とも買いたかったが、まだ資金不足。
半ば諦めていたところに当時の商店会会長が信用金庫の支店長を呼んで、うちが保証人になるから全額融資をしてやってくれと頼んでくれ、現在の店舗を持てたという。

田中さんは昭和60年4月以来、毎朝5時過ぎに起きて400mほどある商店街の端から端まで掃除をすることを日課としている。
10年ほど前に商店街婦人部が日曜日だけは私たちがやるということで、今は日曜日だけは除いているが、これも、自分のためにやるのではない。
人に喜んでもらうために行っていること、それがこれまで薬を飲んだことのないような田中さんの健康維持に役立っている。

人のためと書くと、「偽」になるが、人に喜んでもらうための行いは、結果的に全部、自分に帰ってくるとの実感を「健康」という財産をもらって、感じている。

3. 厳しい商店街環境

昭和30年代、日本の商店街はどこでも賑わいを見せていたが東和銀座商店街は、その先端を走っていた。
東京の商店街で初めて徳島の阿波踊りをイベントで呼んでいたのが東和銀座商店街。

阿波踊りの一行がその帰り途中に寄った高円寺商店街では、立地環境のよさも手伝い、阿波踊りが定着し、今年8月には53回目を数えるに至っている。

一方、東和銀座では近くにあった工場の移転、踏み切り待ちの解消による購買力流出、大型店の進出によって次第に陰りを見せていた。

昭和56年(1981年)に、東京都の「マイタウン構想」で商店街活性化事業のモデル商店街の第1号となった。

その構想にもとづいて昭和60年(1985年)3月、現在のカラー舗装(モール)、アーケードが完成した。
このアーケードは珍しいルーバー(よろい格子の日よけ)状のもの。

田中理事長に聞くと、雨が降るのは年間約50日。
見積り金額は、屋根つきが8億円に対し、ルーバー状の場合は1億4500万円。
それだけの差であればその分お客さんに還元した方がよいと判断したからだという。

当時、太陽を取り入れたアーケードとして話題になった。
既に20年以上経過しているが、特殊な塗料を使っているために腐食はなく、修理することもなかった。
夏場はヨシズ貼りにしており、涼しさを感じる。
省エネを意識した先端的なアーケードとも言える。

それでも商店街内部では、後継者難等により閉店する店舗も増えてきた。

周辺の大型店といえば、約4km離れたところに、昭和32年にセルフサービスを取り入れたイトーヨーカ堂の1号店がオープンしている。

最寄駅の亀有駅前に平成8年(1996年)に、そして平成18年(2006年)に近くの工場跡地にイトーヨーカ堂グループ最大規模のショッピングセンターアリオがオープンした。

両店とも東和銀座商店街から1km圏内にある。
東和銀座商店街の立地条件は恵まれたところではなかった。
JR線及千代田線の亀有駅から、徒歩で約8分の住宅地。
丁度、足立区と葛飾区の区境近くに商店街は位置する。

衰退傾向がはっきりしてきたのはバブル経済が破綻したころで、地元スーパーも含めた大型店との競合は激しくなっていた。

②に続く