伊賀上野が元気になればいいなあ!

上野の城下町、どうなっていくんだろう、、、見守る元気はないけれど、静かに生きていこうと思う(笑)。

「ひょろつき鬼」のこと

2012-10-22 09:15:50 | 赤梟の部屋





先般の「ひょろつき鬼」さんの練習模様より


【所作は全て違います (赤梟) 2012-10-21 12:11:35

この「ひょろつき」を出される「三鬼会」さん、これを所有管理される紺屋町さん、相生町さんの方も、当ブログをご覧になられているとすると、僭越で恐縮でございますが、先日、無事秋季大祭も始まりを告げましたし、少しだけ、ご紹介させて頂くと致しましょうか。

さてさて、ひょろつき鬼は、まぎれもなく鬼行列全体の目玉であり、一番人気を誇ってますが、以外に「所作」の違いを知る方は少ないのではないでしょうか?

これをお読み頂いたら、改めて今年のお祭で、確認してみて下さい。今までと違った印象を持って頂ける筈でございます。。

ひょろつきは「釣鐘持ち」「笈持ち」と「斧山伏(よきやまぶし)」がございまして、釣鐘と笈持ち、斧山の1体を紺屋町さんが、残る斧山を相生町さんが所蔵する、4体が努めます。

釣鐘は勿論、奉納する為の物であり、笈の中には経典や生活道具、斧は山を切り開く為でありますから、この行列は、単に大峰山への「峰入り」だけではなく、「山開き自体」を表したものなんじゃないかと、個人的に解釈している所で御座います。  あ、お話がそれました。悪い癖でございます。。

「釣鐘持ち」は、お寺の鐘を担ぐ訳ですから、こりゃま、相当に重い、、従って前屈みであり、下がるときには釣鐘に引っ張られる様に下がります。

「笈持ち」は、重いには重いですが、釣鐘程ではないので、重心が上り、姿勢は比較的立った形になります。
基本後ろ加重の姿勢ですね。シテ方の話ですと、4体の
中ではこれが一番難しいそうです。。

「斧山伏」は長い斧をよっこらしょ担ぎます。前屈みで担ぐけど、疲れてるから顎(あご)が上がっています。やっとこ担いだのはいいが、足元ふらつき、、という感じでしょうか?

これら所作の違いをお教え頂いたのは、紺屋町にお住みになる、三鬼会の重鎮さんでして、大切に伝承する事柄であると、重く受け止めている次第でございます。(とは言っても、わたくしは三鬼会の人間ではありませぬ)

鬼行列はいわゆる「無言劇」ですから、表現は「所作」に限定される事になります。ひょろつき鬼は動きが大きいですからその代表的ともなりましょうが、鬼町が大切に伝承する、所作・かたち、は芸術に匹敵するものもございますから、是非ともお楽しみ頂ければ、、と
切に願う所存でございます。】

丹波篠山紀行 あとがき その1

2009-06-03 00:33:00 | 赤梟の部屋
初めての紀行(奇行?)文であり、それより投稿自体が始めてであったので、この「あとがき」を、驚きと共にありがたく受け止めている。

わたくしが崇拝する、夢枕獏さんの著書には、「あとがき」を「あがき」と書いてしまうくだりがあり、それに非常に感銘を受けた私は、「いつかこれを使ってやるぞ」と勝手に思っていた。

そして、いよいよ待ちに待った「あとがき」なのである。思えば、たかが紀行文ひとつに、4回もだらだらと書き綴ったのは、これを書く為だったのだ。

だから、その1なのである。普通あとがきという物は、ひとつの著書があればひとつだけなのである。でもわたくしは、あとがきを書く為に連載をしたのであるから、「その1」なのである。お許し下され。


そもそも丹波篠山については、町並みや町家といった佇まいや、道幅なんかに親しみを感じ、「もし、伊賀上野以外で鬼行列をやるなら此処やなぁ」とか思っていた。その頃は漠然と思っていただけなのだが、歴史や文化に伊賀上野との奇遇を感て、改めて見直してみると、なかなかに味わい深い趣きがあった。

道幅は幹線道路が5~6メートル、準幹線道路が4メートル位か。これは平均的な城下町の道幅であると聞いたが、勿論伊賀上野の城下町も同じ。

そして建物はと言えば、






同じ場所に見えない?







同じ場所に見えない?


お分かりかと思うが、篠山と上野の建物を並べてみた。

似ている。

「もし、伊賀上野以外で鬼行列をやるなら此処やなぁ」が、

「此処で、鬼行列やってみたいなぁ」

と、なったのである。

それだけである。

それだけだったのに、今回の紀行文連載となったのは、朽ち果ててゆく古き町並みや町家を、なんとかしようと頑張っている仲間たちへのささやかなお土産のつもりだったか。単に「こんなとこ知ってるでー」と自慢したかっただけなのか、自分の事であるのに、どうにも判らないが、ままよ、町造りのヒントの一つにでもなれば、、と。

丹波篠山紀行 其の四 春日神社編

2009-05-31 01:13:03 | 赤梟の部屋
さて、今回の最終となった、春日神社編です。
春日神社は、お城の北側にございます。


(春日神社)

この神社は奈良の春日神社の分霊を勧請したもので、篠山城築城時に現在の場所に移られた様でございます。

文久元年(1861)に藩主によって寄進された能楽殿では、毎年元旦の午前零時に元朝能「翁」が奉納される、日本中で一年の中で一番初めに演能がある能楽堂となっております。又、春には春日能が奉納されます。


(春日神社能楽殿)

そうして、実はここへ来る迄に、既に妻入商家群の入り口で見つけていた、この建物。どう見てもだんじり蔵にしか見えず、蔵の横にあった立て看板で、やはりだんじり蔵であった事が判ったのでございます。



天保四年に創建と読めます。

中にはどんなだんじり・・山鉾が入っているのだろうか?と思っていましたが、神社のご神殿の軒下に、、ありましたよ写真が、ってなんで軒下に?




思わずシャッターを押してしまいました。

写真にある町の幟からすると、これが先程の蔵に収まっている山鉾ですね。2層の囃子屋台、鉦は2連ですね。軒下の写真からすると、全部で8基。どれもほぼ同じ形。お囃子はどんなだろう?

この山鉾が出揃うお祭は、春日神社例祭。10月です。
はい、上野天神祭と同じ月ですね。
観るチャンスは無いでしょうか、、残念であります。

だんじり蔵を発見してからというもの、蔵の中身がずっと気になってしようがなかったのですが、写真とは言え、形や雰囲気を確認出来たので、まずは願いは叶ったと、さあ戻ろうかと歩いていたら、

例の商家群のお家に、これまたどこかで見慣れた「あるもの」が、、、



いやいや、どこまでもよく似た雰囲気の町でした。

伊賀上野と兄弟の様なイメージを持った丹波篠山の城下町、何度か訪れるに連れ、佇まいや空気感をご紹介したくなって、我ながらおこがましい紀行文となりましたが、今回はこの辺でお開きでございます。

まだまだ観る事の出来なかった場所、「肝心の城跡に行けてねーぞ」とか、「武家屋敷群も観たかったぞー」とか、「そう言えば、伝統的町家を観光客向けに休憩所(カフェ)にしてたなー」とか・・・。
いっぱいありまして、勿論この後も篠山を訪れる機会はありましょうが、今回と同じ様に、も一度散策してみたい、と思いました訳でございます。【赤梟】


丹波篠山紀行 其の参 城下町編

2009-05-27 00:42:31 | 赤梟の部屋
商家群を後にして、次は篠山城跡の北側に展開する、城下町にやって参りました。
伊賀上野はお城が北にあって、城下町はお城の南に展開しておりますが、篠山の場合は、その昔どうであったかは不勉強で判りませんが、現在はお城を中心にして北側に城下町、お城の東西、特に西側に武家屋敷群、南から南東にかけて商家群があります。

写真なので見にくいですが、、、

(パンフレットより)


さてこちら、静かな佇まいだった商家群とは異なり、やはり生活空間としての賑わいがございます。とは言え、城下町風情はそこはかとなくありまして、写真から雰囲気が伝わりますでしょうか?





城下町を歩いていると、こんな立て看板を見つけました。



(立て看板)


なんとこの立て看板、町のあちこちに立ててある。
誓文なんて、他の町であまり見かけないですが、ここじゃ何か誇らしげに立ってる。
これが、篠山商店街の気質となっているような気が致します。
暖かく、それでいて商店主の誇りは頑固に持っている。。

お店の店主のお話です。
「これな、丹波篠山産って書いてますやろ?これが、ほんまの篠山で取れた証なんですわ。丹波産っていうのは、丹波地方で取れたっちゅう事ですねん。
そやで、篠山産っていうのを買って頂きたいんです。ほんでこれな、うちの手作りで、お店によって味ちがうんですわ。ぜひ食べ較べてみて下さい。。」

自分達の品物を大事に作って、「大事に作ったやつやで、さあ食べて!」って、何か、とても嬉しくって。。

次回は、今回の最終場所となった、春日神社編です。【赤梟】

丹波篠山紀行 其の弐 商家群後編

2009-05-25 00:15:21 | 赤梟の部屋

商家群の中に、風情のあるお土産屋さんがございまして、写真にちらと写っているお土産屋さんですが、そこのお嬢さんと少しだけお話が出来ました。とても暖かく接して下さり、(そりゃま、あちらは商売やし、、)いやいや、商売っ気だけでは無い、こう柔らかいというか、なんちゅーか、あ、これはひょっとして、今自分は伊賀の気質に触れてるのかな?とか、勝手に良い様に想像して、勝手に良い気持ちになりました。
も少し長く、お話ししたかったな。。。
それで今回買ってきたお土産は、、、

(管理者:ご馳走様でした)

筆者達の目的地である「能楽資料館」は、この河原町妻入商家群の中にあります。
若干手前味噌ではございますが、能楽を大成させた観阿弥、世阿弥が生まれた伊賀発信の本ブログの事、少しばかり紙面を頂いて、この資料館の事をお話させて頂きましょう。


(能楽史料館1)


(能楽史料館2)

篠山の能楽資料館は、全国で唯一の能楽専門の資料館として、1976年に設立されました。能楽に関係する様々な物が展示されております。

特に筆者が惹かれるのは、ここに展示してある面(おもて)は、古くは室町時代に遡る能面師の手による、いわゆる「本面」である事でございます。
著名な作品が並び、その中には日光や赤鶴吉成、近江井関の初代親政の面も。
・・・聞きなれないお名前ですが、能面界では何しろ有名な方々なのです・・・

能面とは、お能(能の演目)の登場人物に合わせて造られた仮面の事であります。
上野天神祭の鬼行列も、いつもお面のお話ばかりが先行しますが、元々何も無い所にお面だけ出来上がる筈は無く、民俗面であれば先に神話や言い伝えがあったり、能面であれば、先に曲(演目)がある訳でございます。またお能というのは、簡単に新作(新曲)が出来るものではございません。新作の能が出来ないという事は、新しい能面が出来ないと言う事になります。

現在世の中に出ている能面とは、室町時代から江戸時代に掛けて造られた本面を写したものを指す訳で、「いかに本面を寸分違わずに写せるか、能楽師の出したい表情をいかにして出せるか」がその「ゆえん」となる訳です。
言い方を変えると、本面の「写し」でなければ、能面とは呼べません。

ですから創作者の手による本面が、それを見られるという事が、どれ程大切であるか。

維新後、著名な能面が財閥に流れ、そういった物はなかなかお目に掛かれなくなってしまっている現在、この能楽資料館は、能面師や能楽関係者、学識者にとって、非常に基調な資料館となっています。
(撮影出来ないのが残念であります。)

さて其の壱、其の弐では、昔の町並みを保存、復元して現在も生きている、河原町妻入商家群をご紹介致しました。

次回其の参では城下町の生活空間を歩いた記録を綴りたいと思います。【赤梟】

丹波篠山紀行 其の壱 商家群編

2009-05-23 10:22:02 | 赤梟の部屋
さて、いよいよ本編に突入する訳でありますが、前回の「まえがき」にて登場した、篠山とよく似た境遇の忍者が有名な「あの城下町」とは、勿論「伊賀上野」の事でございます。
これより後は、伊賀上野にも遠慮なくご登場頂いて、篠山にぶつけてみようとする訳なのでございます。
勿論それは、優劣をつけようとする為ではございません。
皆さんご存知の伊賀上野と較べる事で、より篠山が浮き彫りになるかと、、はい。

いや、これはまた前置きが長くなってしまいました。お読みの皆様には、「えーかげんにさっさと進めんかい!」としかられそうでございます。おっと、いつの間にか、「講釈ことば」になってしまっています。恐縮ではございますが、なんとなくこっちの方が調子よく書けそうなので、このまま行かせて頂きますとしましょう。


(パンフレットより)

さて、丹波篠山でございます。伊賀上野から入るには、亀岡から国道372号線を、とことこ行くか、あるいは京都縦貫自動車道で園部ICから入るか、はたまた神戸側から舞鶴若狭自動車道でビューンと行くか、になります。城下町へは篠山川に掛かる京口橋あるいは堅物橋から進入します。伊賀上野のお城にはもう存在せず、欄干の擬宝珠だけが残る京口橋ですが、ここ篠山では生活道路として生き残っています。


(いよいよ商家群へ)

始めに訪ねたのは、「国選定重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている、河原町妻入商家群。お城の南東に展開しています。最古の商家は500年程前に建てられた醤油屋さんだった建物。それ等を始めとして、明治、大正期の家が現役で残ってございます。
建物は、間口が3間くらい、奥行きが20~60間と、間口が狭く奥行きが深い事が特徴だそうで、主家は妻入、中二階建、桟瓦葺(さんかわらぶき)が主で、平入も少ないながら存在してございます。


(西坂家住宅 出格子)


(川端家住宅 明治・大正期)

窓は、出格子窓(でごうしまど)か虫籠窓(むしこまど)が一般的で、表構えは大戸と格子です。なんか、ウンチクばかりが先行してしまいますが、実はこれ、伊賀上野と較べると、妻入と平入が違うだけで後はまったく同じなんでございますね。
「なまこ壁」の蔵を持つお家などは、地元のどこかで見るお家と同じに見えます。


(なまこ壁)

大半が妻入だから、なんとなく違いは感じますが、農○町や西○、中○の風景によく似ていて、空気感というか、同じ匂いなんですね。


(平入虫籠窓格子)

河原町商家群はさすがに「群」と言うだけあって、建物の連続性が素晴らしゅうございますね。どこをどう撮っても、良い写真が撮れます。

町家の連続性という意味では、伊賀上野も勉強の余地が大きくある気がします。
次号、次々号で、城下町の生活空間ご紹介する事となりますが、あまりに自然で気がつきにくい大きな伊賀上野の城下町との違い、、それは駐車場でしたね。

城下町の表通りに駐車場(生活駐車場含めて)が見当たらないんでございますよ。

様々なご意見はあるかと思いますが、ここを見てると、やはり町並みのスキマとなる駐車場の存在は、大きく景観を損ねることだけは認めなければならない気がします。【赤梟】

丹波篠山紀行 まえがき

2009-05-20 02:02:44 | 赤梟の部屋
『これまで、能面師である親父のお供をして何度か訪ねた兵庫県篠山市。
今回も、親父の運転手で行きました。ただ、いつもと違い、以前から気になっていた、城下町や町家を見て歩こうと思い立ち、無事実現した次第。



丹波篠山と言えば、黒大豆や丹波大納言小豆など、又マツタケをはじめとする山の幸、そして丹波杜氏を排出した酒造りの町として有名です。

その実、篠山は古くから京都と山陰、山陽を結ぶ交通の要衝(ようしょう)であり、江戸時代には、大阪城(豊臣氏)と西日本の大名を分断する格好の地として、軍事上重要な位置づけがされ、慶長14年(1609)徳川家康の命による天下普請によって、篠山城が築城されました。

翌15年(1610)から城下町が整備され、丹波国篠山藩6万石の中心地として栄えました。
(篠山市観光パンフレットより引用させて頂きました)

・・・交通や文化の要衝であった事、大阪城を睨む目的でお城が建設された所、成り立ちがとてもよく似た町を自分達は知っています。そう、忍者で有名な、「あの城下町」です。

篠山のお城の「縄張り」は、築城の名手だった藤堂高虎が行っています。
「あの城下町」だってお城造りと城下町整備を「藤堂の殿さま」がされております。

篠山は現在「築城400年祭」の真最中。そういえば「あの城下町」では、昨年「藤堂高虎入封400年祭」があって、再来年の2011年には築城400年を迎えます。

ここまで歴史や地域特性が似通ったそれぞれの町、遠く離れてはいるけれど文化や人の気質はどうだろうか?

こうして書いていても、文字が勝手に躍りだす様な、不思議な興奮を覚えた紀行文を記録しようと思います。


いやいや、さてさて、はじめましょうか』【赤梟 記】

ミステリアス! わくわくしますねぇ~
黒豆・マツタケ・酒・・・ とっても魅力的!
違うちがう 「城下町」の成り立ちに「縁」を感じますねぇ、篠山と伊賀って。

丹波篠山の土産話を

2009-05-18 01:18:00 | 赤梟の部屋
聞いたので、いずれゆっくり近いうちに(本人の許可を得て)写真など載せてみたい・・・
「とても親近感のある町である事は勿論、住んであられる方の気質も含めて他人とは思えぬ、まるで兄弟姉妹であるかの錯覚にとらわれる・・・」らしい。

なぬ!こんなことを聞いてしまったら、行きたいではないか。

「まちづくりをみるか」か「歴史を読むか」 さぁ、どっち。


どこかの城下町でも見ることのできる風景がある!

丹波篠山紀行記、寄稿してくださいな、Yさん・・・(不許可にて載せてしまいました、ごめん)