霊祠を去って梅林を尚南え向うと忠魂碑を仰ぐ七百年後の現代戦に一命を捧げた将士の眠る碑である。梅を賞でて再び梅林を本丸に向う。常に「清廉を思い潔白を志して傍人劣らじ」と願っていた重忠の風格を想像するにあまりある清く香り高い梅林を出て本丸埋門に至る眼下に深濠を見雑木林のだらだら道の急坂を上りつめて門跡に出れば前方に展開するのは本丸内郭である。周囲に高塁を廻わし、その右方前方の檜林の中に矢倉跡が見える。
左方高塁を廻って西方を望むと、はるか彼方に秩父連山を見る。連山は甲武信の三国にまたがってその山姿は四季美わしい。眼下槻川都幾川の二瀬の清流にはさまれた鎌形八幡の森を見る。延歴年間(えんりゃく、782-806)坂之上田村麿草創、頼朝八幡宮崇神の志し強く塩山よりこの地に遷宮したと云われているこの宮には木曽義仲生湯の清水がある。即ち源義賢武蔵上野の武家の統領として鎌形の地に居をかまえ、のち大蔵の豪族大蔵氏を名乗りこの左方にひろがる大蔵の地に大蔵館を建て久寿元年(きゅうじゅ、1154)義仲を生みこの清水をもって生湯に使った。その翌年義賢、娚義平に敗れ討死。義仲は重忠の父重能と斉藤実盛の計により中原兼遠にだかれて木曽谷にのがれ、二十有余年三十才にして旭将軍と云われる武将になったが、「木曽の旭も上れば落つる、落ちて粟津の夕煙散るは涙か草葉の露か」と歌われる運命となり野末の露と消えた。
一方悪源太と云われ武勇をほこった義平も、父義朝と共に平清盛にやぶれて「平氏にあらざれば人にあらず」とその繁栄をうたわれた、平氏も「祇園精舎の鐘の音諸行無常の響あり沙羅双樹の花の色盛者必衰のことわりを現わす驕れるものは久しからずたゞ春の夜の夢のごとし猛き心もついにはほろびぬひとえに風のともしびに似たり」と諸人のため息のうちに夢のように美しくほろびた勝者関東の白旗も九郎判官義経の悲劇等を惹起しその末を縮め頼朝と云う大樹一たびたおれた後は雄図夢に淡くその間重忠公始め音に聞えた関東武士達は悲喜こもごもに興廃していったのである。
菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月