○昭和27年(1952)度
昭和27年4月29日 第二回通常総会 於菅谷中学校
総組合員数 383名
出席者数 288名(内委任状65名)
第二回通常総会に於て定款変更を上程し前定款を廃棄し、新定款に変更した。
信用事業をとり入れられ貯金業務も開始された。
5月12日 専務 山下武二(常勤) 辞任
5月18日 専務 大塚眞一(常勤) 選任
12月 1日 獣医師 玉置源吉退職
(後に明治乳業入社現和光畜産KK社長)
組合の運営も着々軌道に乗りつつあるも酪農戦国の世は厳しく近隣の小川に小川ミルプラントの設立計画(10円牛乳)が進み目先現乳の高買いが始まり、組合内部に於ても八和田、野本等の地域で蠢動的な様相が見えはじめ、数拾名の脱落者を出すに至った。(数年を待たずに乳代の遅延等が生じ崩壊し、出荷者は元の組合に戻るもの他の組合に出荷するもの等に別れた)
かかるなかで、組合は着々事業を進め、当時は田畑は米麦主体の大切な財産であり飼料作物等普及については大変な苦労を費した。
飼料作物指導圃設置について1支部5畝として種子を無償で交付し、推進に努めた。例1.2.3.の圃場設計を出し、各支部より希望を求め、次の通り野本例3、松山例1、大岡例1、西吉見例1、宮前例1、菅谷例3、八和田例1、福田例1、唐子例3、小見野例1、八ツ保例1、竹沢例1の圃場作付が実施され、これにより自給飼料普及推進が始まり、後に山林牧野等にイタリヤン等の牧草が播種されその推進が図られた。
○烏山工場(のちの東京工場)へ送乳
大都市に於ける乳製品及び飲用牛乳の需要は年々増加の傾向にあり、この年の7月明治乳業は烏山工場(後の東京工場)を開設操業した。新烏山工場は、わが国で初めての高温短時間殺菌方式による市乳処理設備をもち、乳業界に大きな革新をもたらした工場で、当組合の原乳も新烏山工場へ送乳することになった。
早速役員支部長会は全員新設操業した新烏山工場を見学した。
玉置獣医師の退職により、獣医師の補充については伊東所長田村獣医師に一任し、当面手不足となった診療について自動二輪車の購入が検討された。
後に購入委員会に依り、メグロ500CCが獣医専用車として購入された。
購入金額24万8000円資金は組合員の負担金によるものであった。
この年度は小川プラント問題等もあり乳価問題について会社側貫当96円、組合側は100円で伊東所長と理事会に於て厳しい折衝が行なわれた。
武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)17頁~18頁