goo blog サービス終了のお知らせ 

里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

武蔵酪農の歴史 5 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-06 20:31:31 | 嵐山地域

○昭和24年(1949)度事業計画
1 事業の方針 酪農業生産力の増進と組合員の経済的社会的地位の向上を図る。
2 組織の方針 (1)酪農経営者315人 戸数315戸 従事者315人
   当初加入組合員数
       (1)正組合員 酪農経営者 315人
       (2)准組合員 なし
   加入予定者   合計        315人
3 初年度事業計画
 (1)集乳所建設 (2)各支部出荷所設備 (3)優良牛乳生産に関する技術の改善 (4)購買販売事業 (5)乳牛管理に関する事業
4 資金計画
 (1)資金調達計画
  払込出資金      61,900円(出資口数619口1口壱百円)
  東京乳業借入金    200,000
  合計         261,900
 (2)資金運用計画
  固定資金(設備資金) なし
  事業資金購買     200,000円
      販売
  預裕金 預金      61,900
  合計         261,900

 昭和24年度予算(別表4)

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)10頁~11頁


武蔵酪農の歴史 4 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-05 22:50:14 | 嵐山地域

 2 設立総会
 開催公告期日  昭和25年1月7日
 招集通知日   昭和25年1月13日
 開催日時場所
    日時   昭和25年1月22日午後1時
    場所   比企郡菅谷村小学校
 総同意者数   319名
 出席者数    292名(内委任状63名)
 議長選任    議長  濱中 東重郎
 議事
  第1議案 定款案承認並びに役員選挙規定承認の件(理事13名原案修正)
  第2議案 事業計画 収支予算案承認の件
  第3議案 選挙管理人並びに立会人選任の件
       選挙管理人  中島信治
       選挙立会人  田中 盈 高坂清一 市川仙之助 落合兵作
  第4議案 此の組合の設立当時の役員は第1回通常総会に於て、之を改選する案を諮る(付帯決議)
  第5議案 理事、監事選挙の件(理事13名、監事3名)
閉会       5時10分

○設立時役員名簿(別表3)

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)9頁~10頁


武蔵酪農の歴史 3 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-04 22:40:00 | 嵐山地域

○設立準備会
1 開催日時  昭和24年12月11日 午後1時
2 開催場所  武蔵北部酪農農業協同組合設立事務所
3 出席者   50名
4 招集者及び議長
   招集者 発起人代表 中島信治
   議長        山田眞平
5 副議長及び書記の任命
   副議長       田中 盈
   書記        中島年治
6 議事
 (1)組合の名称及び事務所の所在地
   名称  武蔵北部酪農農業協同組合
   所在地 埼玉県比企郡菅谷村大字菅谷128番地に事務所を置く。
 (2)組合の地区 比企郡、大里郡、秩父郡全域
 (3)組合員の資格
   正組合員 組合の地区内で常時一頭以上の乳牛を飼養する者。
   准組合員 組合の地区内に住所があって、この組合の施設を利用することが適当と認められる者
   組合員となろうとする者が組合員たる資格を有するか否か明らかでない時は理事会が之を定める。
 (4)定款作成の基本となる事項の決定
   出資一口の金額 一口に付壱百円
   出資の払込方法 第1回全額払込
   賦課金     事業の為必要と認めたる時総会の決議を経て組合員に賦課する。
   事業      左の事業を行う。
   生産協同事業  流通協同事業 其の他の協同事業
   役員及び職員  理事10名 任期2年 内組合長1名、専務理事1名を互選する。
           監事 3名 任期2年
           本組合に参事1名、会計主任1名を置くことを得、其の他職員若干名を置く。
 (5)定款作成委員選任  議長一任
 (6)創立総会の日取りの決定
   昭和25年1月17日(後に22日に変更) 午前10時より菅谷小学校に於て
 (7)決議録署名者指名の件
   決議録署名者   中島信治  武井與平
7 閉会   午後5時
                (昭和24年12月18日定款作成)

     ○定款作成委員名簿(別表2)

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)7頁~8頁


武蔵酪農の歴史 2 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-03 14:57:40 | 嵐山地域

○設立発起人名簿(別表1)
○設立目論見書
1. 名称   武蔵北部酪農農業協同組合
1. 地域   埼玉県比企郡、大里郡、秩父郡全域
1. 事務所  埼玉県比企郡菅谷村大字菅谷128番地
1. 組合員の資格
 (イ)組合地区内で常時一頭以上の乳牛を飼養する者。
 (ロ)組合地区内に住所があって此の組合の施設を利用する事が適当であると認められる個人、又は団体はこの組合の准組合員として加入することが出来る。
   備考 組合員となろうとする者が組合員の資格を持っているか否か明瞭でない時は理事会でこれを決する。
1. 出資一口の金額  壱百円
1. 出資の払込方法  出資金は全額を一時に払込むものとする。
1. 賦課金
  事業の為必要ある時のみ総会の決議を経て組合員に賦課する。
1. 事業
(イ)牛乳生産に関する一切の事業
(ロ)牛乳生産に関する必要なる物資の供給
(ハ)乳質改善の研究
(ニ)共同利用施設の設置
(ホ)組合員の生産する牛乳の運搬加工貯蔵又は販売
(ヘ)酪農技術及び酪農事業に関する組合員の知識向上を図る為の教育
(ト)組合員に対する一般的情報の提供
(チ)組合員の経済的地位の改善の為にする団体協約の締結
(リ)前各号の事業に付帯する事業
1. 役員及び職員
   理事   15名
   監事   5名
   参事及び会計主任各1名 職員若干名

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)5頁~6頁


武蔵酪農の歴史 1 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-02 14:54:00 | 嵐山地域

   武蔵酪農設立の経緯
 1 背景並びに設立の経過
 比企郡の酪農については、昭和12年(1937)頃より17年(1942)頃にかけて菅谷村(現・嵐山町)、宮前村、福田村(現・滑川町)、竹沢村、小川町、八和田村(現・小川町)、玉川村(現・ときがわ町)、亀井村(現・鳩山町)、唐子村、野本村、松山町(現・東松山市)、吉見村(現・吉見町)、小見野村、八ツ保村(現・川島町)等の各町村の有志が相前後して酪農をとり入れ、埼玉酪農組合の各支部が結成されていた。
 それ以前は古くは明治の頃より乳牛を飼育し牛舎(牛乳屋)へ貸付けていたのが酪農の前身でもある。
 戦前戦後の埼玉の酪農の原乳は森永の寄居工場に出荷されており、その頃の寄居工場は乳製品工場で乳価についても加工乳価格で取引されていた。
 戦時下牛乳も他の物資と同じく統制下におかれ乳業会社も統制会社として終戦後も業務が続けられ昭和23年(1948)に会社の再編が行なわれた。
 昭和24年(1949)埼玉酪農組合内部に於て、役員間で組合運営取引先等の問題で意見の対立が発生したかに聞き及んでいる。又菅谷村駅前に事務所のあった比企酪農組合に於ても同様の問題が起こっていた。
 そこで新たな目標をかかげた比企郡に於ける武蔵酪農組合発足にかかわる酪農指導者達である武井孝次郎氏(宮前村)、田中盈氏(松山町)、松本完氏(八和田村)、吉田龍次郎氏(竹沢村)、山田眞平氏(菅谷村)、福島敬三氏(八ツ保村)、中島信治氏(菅谷村)、山下米吉氏(西吉見村)、武井與平氏(菅谷村)、高坂清一氏(宮前村)、山下武二氏(菅谷村)、荒井照雄氏(唐子村)、高橋増三氏(菅谷村)、松本博氏(川本村)、市川仙之助氏(野本村)、新井甚次氏(野本村)等その他数多くの有志達は、埼玉県の酪農家の原乳が加工乳価格で取引きされている現状をうれい、今後は埼玉の酪農を市乳地帯の基盤固めにすべく、乳価についても市乳価格で取引きしなければならないという大きな理想をかかげ時代を先取りするためにも、単なる組合の分裂行動でなくして、埼玉県の酪農基盤を市乳圏に入れることにより酪農家の経済基盤の安定向上を図る錦の御旗を掲げ、各地区に於て会合を設け、幾多の困難をのりこえ乍ら数多くの同志の賛同により結束を固めたのである。
 代表者により時の東京都の市乳の主流をなしていた東京乳業株式会社と交渉に入り、国生専務取締役(後の明治乳業KK)と交渉が妥結し、内部に於ては集送乳について着々態勢を整え、集乳については長谷部正氏(宮前村)、木村氏(大岡村)、志村氏(小見野村)、送乳については横塚元吉氏(後の旭運輸KK社長)等の絶大なる協力を得て、昭和24年(1949)10月16日「3石4斗」の原乳をもって東京乳業株式会社板橋工場への出荷が開始された。
 そして武蔵北部酪農農業協同組合設立事務所を菅谷村中島信治氏宅に設けた。昭和24年(1949)10月31日新進気鋭の獣医師伊東勝太郎氏24才(後の明治乳業株式会社専務取締役)が臨床を担当しながら責任者として派遣され着任した。(菅谷村小島屋旅館に単身寄宿、後に宮前村長谷部宅の離れに下宿)、11月1日より直ちに昼夜の別なく勢力的に活動を開始し乳牛の診療並びに地域の会合へと自転車で奔走努力した。
 伊東勝太郎氏は豪快(柔道4段)で人情味豊で明朗な性格と併せて、獣医師として乳牛の妊娠50日~60日の直腸検査による妊娠鑑定では100発100中の抜群の優れた技術を備え、又高度の診療技術を有していたことが生産者により一層の信頼を得ることになり多くの酪農家の同意者を集める要因となった。(組合発足後の獣医陣の礎をなし急患に備え誰か必ず地域内に残り、緊急の場合でも24時間体制で組合員に迷惑をかけないという思想は今でも継承されている。)
 この頃相前後して秩父郡、大里郡に於ても同様の問題が発生して居り、伊東氏は秩父郡の関係(現全秩酪農組合)も兼務した。
 強力な指導者を得た同志の面々は着々組合設立準備の体制に入り組合設立発起人を選考した。

※組合の名称については武蔵酪農農業協同組合で設立準備をすすめていたが県の指導により武蔵では大きすぎるので北部をつける様指示され、武蔵北部酪農農業協同組合の名称で設立準備をした。
 16名の設立発起人は全員出席の基に昭和24年10月23日以来前後3回の協議会を経て目論見書を作成した。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)3頁~4頁


村は積極的農業政策の推進を! 山田巌 1958年

2009-04-15 18:03:00 | 嵐山地域

   危機に立つ日本農業
    村は経営合理化に積極的農業政策の推進を!
 今よく農村に聞く言葉に、「働く嫁は貰ひたし家の娘は宿場の嫁に」といふ言葉が御座居ます。これが農村の風潮を表現している言葉の様です。なぜだろうか? これは現今の生活が都市労働者の収入に比較し意外に低く、経済状態そのものが戦後二、三年を絶頂とし、下向の一途を辿って居り、自分の可愛い娘にも思ふ様な小遣も呉れられない実状そのものが、子を持つ母親の心境となって表現されていることは、いつわりのない所である。
 数年前より農家経済の合理化が声高く叫ばれている。而し乍ら農村の実状は遅々として、合理化の方向へ進んでいない様に考へられる。今や日本農業は転換の岐路にたたされて居る。食生活の改善に伴ひ、米の消費量は戦前の国民一人当り消費量一石に対し、現在の都市居住者一人当たり五斗五升~六斗となっている。麦の消費量は大麦の消費減を小麦の消費増で補ひ戦前の消費量を維持している。今や農家の頼みの綱は養蚕であるが、二、三年前の繭の争奪戦もどこ吹く風、昨年の国会を通った業者間の生産制限法により、今までの買手市場から売手市場に変ってしまった。そして今まで、俵二十四万円もしていた生糸も輸出不振と化学繊維の大進出により俵十九万円を維持するのに汲々の様である。この結果、生産者の貫当り繭価は千四百円は争えない価格となった。当地方の特産の甘藷も今までは馬鹿にならない農家収入であったが、今や甘藷を食用とする時期は過ぎ、大部分が加工用となり、保証される価格は二十四円五十銭となってしまった。
 ここに日本農業危機説の唱えられる原因がある。本村がその例外では決してあり得ない。ここに本村の農業収入の実態(推定)を出し参考に供したい。
 米の収益(自家消費を含む)九千八百万円
 大・小麦(〃)五千二百万円
 養蚕(四万貫)六千万円
 畜産(養豚、養鶏は資料なきため略す。和牛は計算出来ず。)
 牛乳日産十一石年間収益二千万円
大体以上となる。
 これを該当農家戸数、頭数で調べて見ることにする。
 米を農家戸数千三百戸として収益計算をすると、一戸当り平均約七万三千円、麦は約四万円、甘藷は約一万三千円となり、養蚕農家は八百戸として約七万五千円となる。ここに無視出来ないのは畜産収入(乳牛)である。現在飼育頭数は二百五十頭(搾乳、育成)である。飼育農家は一五〇戸一頭平均八万円、一戸平均十三万三千円となる。
 之を畑計算にして小麦六俵(一俵二千円)、甘藷五十俵(一俵三百円)で計算し、二万七千円となり、肥料代を三千円を差引くとすると純益二万四千円となる。【畑一反歩からのおおよその年間利益】
 乳牛一頭年間搾乳量二十石として(石五千円)で十万円となり、この五割【五万円】を飼料代として差引いても楽に畑二反歩の利益【二万四千円×二=四万八千円】に匹敵する結果となり、土地の肥培管理の面も考へ合せ、一石二鳥の結果となって現れている。
 本村畜産(乳牛)は二十六年(1951)を一〇〇として、頭数にして二〇八となり、利益に於て三四〇の数字を示している。故高崎村長の家畜導入補助金の是非が論じられたが、その成果は遅々としてではあるが数字の上に現れている。奨励的意義は大きものがあってと思考される。
 この畜産の収入が示す如く、農家経営の合理化は畜産を加味せずにはあり得ないとは現実の数字そのものが如実に物語っている。
 この際、村当局に於ても本村農業政策の基本的なものを打ち出し、農業危機打破の体勢を確立し、農業生産率の上昇を期し、購買力を高めることこそが、中小商工業者の繁栄をもたらしめる最大のものではなかろうか。そして、本村構成の七割の農民の切なる希望に応える唯一の道ではなかろうか。
 比企郡酪農の中心は我が菅谷村にある。三つの酪農団体の事務所を持ち、三つの牛乳処理工場も存在している。この菅谷村を「牛乳と密の流れる豊かな明るい平和の郷に。」
 大方の皆様方の御批判を乞う。(山田巌 筆者は菅谷酪農協会参与・村議)
     『菅谷村報道』87号 1958年(昭和33)2月25日


「報道」より見た1965年(昭和40)

2009-04-13 09:59:00 | 嵐山地域

 村史編纂責任者に小林博治氏を決定した。
 農業委員会長に関根村長が選ばれた。
 三月定例会で助役に七中校長の安藤専一氏が議会の同意を得て決定した。
 三月二十五日、菅中体育館が完成した。
 四月十五日、体育館落成及び合併十周年式典が行はれた。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日


「報道」より見た1964年(昭和39)

2009-04-12 09:58:00 | 嵐山地域

 「報道」百五十号発行記念祝賀会は二月十一日、信金菅谷支店の二階で開かれ、保存者の六名を表彰した。
 七小中給食室完成、二月十日給食開始、工費二八六万円、給水タンク二〇万で総計四一九万円である。
 菅谷中央簡易水道完成。日本水道が二千六万円で落札して工事をしたもの。
 太郎丸の精進橋は五月完成した。
 菅谷幼稚園は四月開園した。根岸忠与氏が園長で定員八十名。
 小林助役辞任、五月末日で十七年にわたる収入役と助役の生活から退いた。
 九月六日に行はれた村長選挙は新人関根茂章氏が前議長の青木高氏を圧倒的に引き離して三代目の村長に就任した。関根村長は三十九才の青年であり「愛と道義の行政」を基調として、理想の田園都市を建設する基本方針を述べた。
 九月の定例村議会で議長に奥平武治氏が選ばれた(十代目)。
 教育長金子慶助氏は十月二十六日急逝した。教育委員長関根昭二氏を葬儀委員長として教育委員会葬を二八日に七小講堂で執行した。
 社会教育主事補の井上文雄氏は十一月十八日死去、十二月一日の教育委員会で教育長に奥住清氏を選任した。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日


「報道」より見た1963年(昭和38)

2009-04-11 09:56:00 | 嵐山地域

 七中技術科教室完成、建坪四〇坪、物置三坪、テラス一〇坪、工費二五五万円。
 村史編纂委員会発足。
 嵐山駅-古里間バス開通。
 将軍沢ダムの建設計画があり、三年計画で調査することが明かになった。
 小川信用金庫菅谷支店が新築完成し、四月二日披露の祝賀式が行はれた。
 町制施行準備委員会は八月三十日菅小で開かれ、会長に青木高議長、副会長に市川武市氏を決めた。
 十月、村会議員選挙があり十二名の新人が当選した。議長に山下欽治氏が就任した(九代目)。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日


「報道」より見た1962年(昭和37)

2009-04-10 09:54:00 | 嵐山地域

 新村建設五ヶ年計画(三十五年~三十九年まで)を立案。
 二月、大映の「情熱の詩人啄木」の映画ロケが鎌形小学校であった。
 四月、役場事務機構を改革し、新たに課制を設け四課一室となった。
 庁用自動車を購入した。
 消防団長に松本晴次氏が選ばれた。
 小川町、玉川村と三町村の連絡の焦点である谷川橋は五月落成した。工費二四〇万円。
 六月定例村会で小林博治氏が助役に再任された。
 十月、議会議長に青木高氏就任(八代目)。
 鎌形小学校創立七十周年記念祝賀会は十一月三日、同校校庭で行はれた。
 収入役に関口高吉氏が選任された。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日


「報道」より見た1961年(昭和36)

2009-04-09 09:52:00 | 嵐山地域

 新庁舎落成式は二月二十五日菅中講堂で行はれた。将軍沢と鎌形地区に建設予定の嵐山カントリークラブの地鎮祭が三月九日に行はれ、ゴルフ場建設が本格化した。
 五月、平沢に栄建設が分譲地を造り売り出した。これをきっかけに各所に団地が造成され、団地ブームが生れた。地価の値上りはこれから始まった。
 内閣官房副長官細谷喜一氏は五月十二日「茶の湯と人生」と題して講演した。
 小川信用金庫の菅谷出張所は六月十五日支店に昇格した。
 収入役安藤安雄氏は八月一ぱいで辞任した。
 東武バス武蔵嵐山線が九月十六日開通した。
 明星食品嵐山工場は十月から操業を開始した。
 八月の臨時村会は農業高校の存廃問題、村有土地を明星食品、根岸電材等に売却する問題、向山光学問題などをめぐって論議が沸騰した。
 十月臨時村会で瀬山修治氏が議長に就任した(七代目)。
 十一月、嵐山ゴルフ場の竣工式。
 十二月、役場職員組合は給与引上げで村長と団交したが要求が入れられないので闘争態勢をとった。このため廿四日に予定されていた比企中部一周駅伝競走は中止になった。
 村長は二十四日午後、組合側の要求を入れることを即答したので解決したが、村長は「課長制をとる考えである」と述べ、中島執行委員長は「長い間の不満の爆発である」と組合側の立場を訴えた。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日


「報道」より見た1960年(昭和35)

2009-04-08 09:50:00 | 嵐山地域

 七郷農協の有線放送は四月に通話を開始した。総経費五一一万円。
 四月一日から七郷支所を廃止した。
 九月四日の村長選挙では青木義夫村長が無投票に近い状態で当選した。
 作家の今東光氏は大蔵安養寺の住職として八月二十五日入山式を行った。また、この模様は日本テレビで放送された。夜は七時過ぎから約一時間にわたり、菅中講堂で講演した。
 役場職員組合が結成され、執行委員長に中島立男氏がなった。組合員数は二十五名である。
 十月の臨時村会で青木高氏が議長に就任した(六代目)。
 一月に新庁舎建設委員会が結成され、五月に敷地が決定した新庁舎は、十二月二十五日に落成した。総工費は本館一〇二九万円、附帯工事百三十万円である。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日


「報道」より見た1959年(昭和34)

2009-04-07 09:48:00 | 嵐山地域

 二月二十二日自民党菅谷支部が結成され、支部長に内田幾喜氏が選任された。
 皇太子殿下御結婚祝賀式が四月十日菅中講堂で行はれ一四一名が出席、盛大な祝賀式を行った。
 四月の臨時村会で青木高氏が議長に選ばれた。
 県会議員の選挙があり、本村平沢の山田薫氏が立候補し、本村から二〇九五票を得たが落選した。
 「報道」は六月十日発行号をもって百号になったので、七月十一日菅中講堂で祝賀式を開き、「報道」百号保存者を表彰した。
 十月、全村一区による村会議員選挙が行はれ二十九日の初議会で内田幾喜氏が議長に選ばれた。
 長島崇氏はNHK「青年の主張」で県一位となり、関東甲信越大会では二位となった。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日


「報道」より見た1958年(昭和33)

2009-04-06 09:43:00 | 嵐山地域

 一月、鎌形小学校の給食室が完成した。建坪十二・三八坪、工費四十万八千円。村内で初めての給食開始となった。
 二月、菅中増築校舎落成。総予算五百五十万円、建坪百二十四坪。
 NHKのど自慢県大会で笠原活男氏は歌謡曲の部一位となり関東甲信越大会に出場した。
 五月、教育委員が改選され、田中昇氏が委員長に、金子慶助氏が教育長に選ばれた。
 旧鎌倉街道記念碑の建設が行はれ、その除幕式が四月二十日にあった。
 異常渇水のため水稲の植付が不能になったものは百六十町歩に及び、村はその対策費として百十万円を計上した。
 興農研修所の夏季大学に作家の尾崎士郎氏が「文芸と人生」と題して講演した。
 平沢の水道工事は十月に完成、三三戸に給水することになった。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日


「報道」より見た1957年(昭和32)

2009-04-05 09:38:00 | 嵐山地域

 前年三月に着工し七中校舎は二月に落成した。敷地は三九二九坪、運動場は一五一七坪、校舎四三七坪、総予算額一七二一万。
 嵐山遠山道路完成、延長七八八米、幅員三・七米である。
 菅中は創立十周年に校旗を作り、校歌を定めた。作詞は安藤専一氏で安岡正篤氏が監修した。
 四月から教育長に安藤義雄氏がなったが名前だけで実際の仕事は助役が代行した。
 九月十九日、皇太子殿下は県立貢納研修所へお出でになった。
 武蔵嵐山は週刊読売主催の新日本百景で三十五位に入選した。
 十月の臨時村会で工場誘致条例が成立した。
 松永東文部大臣は十二月七日菅小で講演した。
 菅谷青年団の団歌が決定した。作詞は根岸進氏(根岸出身)である。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日