テレビドラマ「僕の歩く道」。
放送開始時刻は10時。息子は10時は寝る時間。寝る時間なんだけれど、もそもそと隣で見る。
最初は途中まで見ていて、という流れだったんだけれど、回を重ねるごとに「ちょっと見る」時間は増え、火曜は寝る支度をしてこのドラマを最後まで観るのが定着。
娘はすでに寝ている時刻、息子と二人でこのドラマを観る。障害児のきょうだい児の心理にも焦点をあてたドラマ。
「わたしはわたしの人生を歩んでもいいんだよね」と、主人公の妹が母親に聞くシーン。
ああ、このフレーズ。障害児のきょうだい児の立場の人が、それぞれの思いをこめてもつフレーズ。
それを黙って見ている障害児のきょうだい児と、障害児のきょうだい児の母親であるわたし。
ドラマを観ながら、主人公の障害の特性が現れるシーンを見ながら、息子にもう少し詳しく説明してやる。
コマーシャルの時間に、自閉症のこだわりを説明するために、テーブルの上のテレビのリモコンとさっき使った爪切りとジュースを飲んだコップとを整然と並べてみせる。
不安ってのをたくさん持っている人たちなのよ。だから、不安になると決まっていることというものに頼ろうとするの。その決まっていることってのは、たとえばこういう物の並べ方がこうなっていること、こうなっていると落ち着くことだったりするのよ、と。
コマーシャルの後に、今説明したまんま、そのままのようなシーンが出てくる。息子がわたしを見る、わたしは黙ってうなづく。
登場人物の中に、息子の自閉症を受け入れられなかった父親が出てくる。その受け入れられないシーンを見ながら、怖いよおかあさん、と息子が言う。ボクが結婚して、子どもが生まれて、自閉症だったらどうしよう、ダウン症だったらどうしよう。
う~ん、と思う。きょうだい児だから受け入れられるだろうと思う人もいるだろうし、実際きょうだい児だから受け入れられる人もいるだろうと思う。
でも、きょうだい児の立場の人から確かに聞く不安。そして自分の立場であるからこそ、口に出して言ってはいけないような感覚を持っていくのだろうと思うこと。
わたしもアンタ生むとき怖かったわ、と言う。不安だったよ。そういう子どもが生まれるってことをよく知っているからこそ、怖かったわ。でも子ども欲しかったから。
ふうん、と答える息子。そしてまたコマーシャルが終わり、ドラマが始まる。答は無い。そしてドラマはまだまだ続く。
放送開始時刻は10時。息子は10時は寝る時間。寝る時間なんだけれど、もそもそと隣で見る。
最初は途中まで見ていて、という流れだったんだけれど、回を重ねるごとに「ちょっと見る」時間は増え、火曜は寝る支度をしてこのドラマを最後まで観るのが定着。
娘はすでに寝ている時刻、息子と二人でこのドラマを観る。障害児のきょうだい児の心理にも焦点をあてたドラマ。
「わたしはわたしの人生を歩んでもいいんだよね」と、主人公の妹が母親に聞くシーン。
ああ、このフレーズ。障害児のきょうだい児の立場の人が、それぞれの思いをこめてもつフレーズ。
それを黙って見ている障害児のきょうだい児と、障害児のきょうだい児の母親であるわたし。
ドラマを観ながら、主人公の障害の特性が現れるシーンを見ながら、息子にもう少し詳しく説明してやる。
コマーシャルの時間に、自閉症のこだわりを説明するために、テーブルの上のテレビのリモコンとさっき使った爪切りとジュースを飲んだコップとを整然と並べてみせる。
不安ってのをたくさん持っている人たちなのよ。だから、不安になると決まっていることというものに頼ろうとするの。その決まっていることってのは、たとえばこういう物の並べ方がこうなっていること、こうなっていると落ち着くことだったりするのよ、と。
コマーシャルの後に、今説明したまんま、そのままのようなシーンが出てくる。息子がわたしを見る、わたしは黙ってうなづく。
登場人物の中に、息子の自閉症を受け入れられなかった父親が出てくる。その受け入れられないシーンを見ながら、怖いよおかあさん、と息子が言う。ボクが結婚して、子どもが生まれて、自閉症だったらどうしよう、ダウン症だったらどうしよう。
う~ん、と思う。きょうだい児だから受け入れられるだろうと思う人もいるだろうし、実際きょうだい児だから受け入れられる人もいるだろうと思う。
でも、きょうだい児の立場の人から確かに聞く不安。そして自分の立場であるからこそ、口に出して言ってはいけないような感覚を持っていくのだろうと思うこと。
わたしもアンタ生むとき怖かったわ、と言う。不安だったよ。そういう子どもが生まれるってことをよく知っているからこそ、怖かったわ。でも子ども欲しかったから。
ふうん、と答える息子。そしてまたコマーシャルが終わり、ドラマが始まる。答は無い。そしてドラマはまだまだ続く。
私は未婚ですが、その不安な気持ちは分かるような気がします。
しかし、実際に直面したら受け入れるしかないのかもしれません。 とても困難なことだろうとは思いますけど。
あとは覚悟でしょうか。
ドラマで、息子の自閉症を受け入れられなかった父親が、輝明(主人公)と接することによって、別れた息子に会いに行くという展開があるかもしれないなあ。と思いました。
でわでわ。
まあ、結局のとこ、受容ってヤツには夫婦ってものが関わってくるかな、とも思う。
いっしょに告知を受けても、母親が受けて父親に伝えても、父親が受けて母親に伝えても、事実を受け取るときには、まあ同時なんだけれど。
同時なんだけど、受け入れていくってのには、当然のごとく誤差なんてものは生まれていくわけで。
でも、夫婦の受け入れの度合いに微妙に誤差が生まれたときの難しさ、ってのはあるんだよね。
あの脚本が、それをどこまで意図してるのかはわからないけれど。
あの夫の断片的に出てきた妻は「あなたは」「あなたは」って、責め立てるようなシーンで。
夫の心象風景の中の妻ってのは、自分の受け入れの悪さを責め立てられているようなものだったのかもしれないと。
受容できない配偶者を待っててあげる姿勢とかってのも、また影響してくるようにも思う。
まあ、そんな余裕、全然もてないケースなんてのは山ほどあるんだけどね。
そういうところで、外側からの「支援」ってのが生きていくんじゃないか、とも思うんだよね。
そうね。
受け入れるのは難しいわね、って。
そう言ってくれる人と出会う機会ってのは、父親は無い、ホント無い。少ないと思う。
口をふさがれてしまうんだよね。
で、きょうだい児ってのも、こういう部類の話題では口をふさがれると思う。
mixiのきょうだい児コミュってのに登録していて、親は引いて黙ってた方がいいと思うので、ロム専なんだけれど。
一度、たった一度だけ口をはさんだケースがコレ。
子どもを生むのが怖い、障害児が生まれる可能性が怖い、って。
ばばば~~って、意見されてましたね、正論を。
親に対して恥ずかしくないのか、とか。
そうかあ、同胞でもこうなるんだなあ、とか思った。
いや、言ってもいいよ、と思う。
一番怖いのは、思ったことをつぶさなきゃいけない哀しさを抱え持つことなんだと思うんだよね。
身近に障害者がいるきょうだい児だからこそ、実感を伴った不安があるのでしょうね。
そして、感じた不安を口に出すことが、はばかられる立場にいるワケで。
「僕の歩く道」を、障害児の親の視点やきょうだい児の視点で観ているS嬢家の様子が伝わってくる今回の記事だな、と思った次第です。
でわでわ。
可能性は誰にでもあるんだよね。
で、そのことを事実として知っているきょうだい児、ってことなんだと思うんだよね。
あの父親は会いに行くのかしらね。
会おうと思えば会えるんだ、ってとこにとどまるようにも。
っていうか、そこでとどめて欲しいかも。
やりすぎは、壊すもの、あるからな、とも思いました。
きょうだいの視点もそう。父親の視点もそう。
見ている側にはまだまだ誤解が多いようですが…。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%95%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%8F%E9%81%93
障害がどうの、というより、構成上おもしろいところを見つけてまして。
一話ごとに必ず「表裏」を表すキーが出てくる。
第六話は「約束」。
自分を否定する約束に傷つき、自分を肯定する約束を得ていく。
今回は何の裏表が出るだろう、とかってのも楽しみ。
障害に関しては、とりまく人間の心理、というものが、視点にいいとこもってくな、と思う。
で、霞先生に質問。
紹介してくれたURLの記載文の「誤解」部を教えてくれる?
しかし、その気持ちとは対照的に色々な方に、真摯な気持ちで色々とコメントを提供して下さっているのをみると、”マンザラ”とは思えない気持ちになりつつあります。
喜怒哀楽、色々な思いはあるかと思いますが...
ただ、わたし個人としては、それをなんやかんや言う気にはならない程度に、このドラマはよくできている、と思います。
特に障害をもつ子のきょうだい児というテーマ。
このきょうだい児のもつものに関しては、その障害種別や程度に関わらない一貫したものがあると思っているので。
構成としても、障害のある子を中に、上の子と下の子を存在させ、その葛藤に別種のものを持ってきていることとか。
このドラマを作っていく上での取材に関して、わたしはかなり興味がありますね。