わたしは「ウザい」「キモい」「ムカつく」という言葉が嫌いです。
使っている人が多くなっていっても、わたしは多分、慣れることができない。
いや、慣れることに大きく抵抗しているという気持ちが、自分の中に存在しているのだろうと思う。
人間というものは、集団の中で、互いに想像力を働かせて共存している生き物だと思う。
自分にとって合わないと、自分の意に沿わないと、そう思われる他者の行動というのは、くさるほどある。
大事なことは、そのときに、なぜ自分はその相手の印象や行動に対して違和感を持つのか。
またそのことによって、自分と相手との距離はどうなっていくのか。
それは解決した方がいいことなのか、それとも放置が自然なのか、放置する以上の意志を自分が持つ気にならないのか。
そんな思考や想像力によって、いろいろな発展性を秘めながらやっているのが「生きる」ということなのではないか、と。
しかし「ウザい」「キモい」「ムカつく」という言葉は、思考すること無しに、想像力を持つことも無しに、切って捨てるように相手を排除する。
AとBが会話をしているときに、Aがこういう風にBに対してCのことを表現するとき。
ところが「ウザい」「キモい」「ムカつく」に関しては、その場でこう例えられる第三者を文字通り、「切って捨てる」という印象がある。
Aは単独でCを否定する感情を持つという状態でいるよりも、Bの肯定、支持を得ることで、さらに「Cを切って捨てる」感情を強く持ってしまうことにもなる。
人間なんぞというものは、そんなにきれいなものでもないので、他者に対してマイナスの感情・感覚を持つことなんぞ、掃いて捨てるほどある。
そんなものは、誰しも、お互い様だと思う。
AがBに「Cのマイナスネタ」の話をしたくなる、なんていうシチュエーションは、山ほどあると思う。
でも、思考もせずに、簡単に排除するような言葉を、それこそ簡単に口に出して第三者に言うことって、もっともっと怖いことなんじゃないかと思う。
誰かがネット上でそんなことを言ってくれていないかと、期待するような気持ちで「ウザい キモい ムカつく」と入れて、検索をかける。
攻撃的な他者排除の文章が並び立てられるURLが乱立する中で、「ムカつく言葉」という文章に出会ってほっとする。
池田市の小学校内児童殺傷事件の被告・宅間守を例示に出しながら、言いたいことを言ってくれていることに安堵感を持つ。
以下、引用。
その多数決の中で、他者を排除する感覚を持つ言葉に慣れていく人が増えていくことは、怖いことだとわたしは思う。
ネット上では「相手を攻撃的に排除する言葉」が目につくことが多いけれど、そのネット上でこうした文章に出会えると、わたしはとてもほっとする。
使っている人が多くなっていっても、わたしは多分、慣れることができない。
いや、慣れることに大きく抵抗しているという気持ちが、自分の中に存在しているのだろうと思う。
人間というものは、集団の中で、互いに想像力を働かせて共存している生き物だと思う。
自分にとって合わないと、自分の意に沿わないと、そう思われる他者の行動というのは、くさるほどある。
大事なことは、そのときに、なぜ自分はその相手の印象や行動に対して違和感を持つのか。
またそのことによって、自分と相手との距離はどうなっていくのか。
それは解決した方がいいことなのか、それとも放置が自然なのか、放置する以上の意志を自分が持つ気にならないのか。
そんな思考や想像力によって、いろいろな発展性を秘めながらやっているのが「生きる」ということなのではないか、と。
しかし「ウザい」「キモい」「ムカつく」という言葉は、思考すること無しに、想像力を持つことも無しに、切って捨てるように相手を排除する。
AとBが会話をしているときに、Aがこういう風にBに対してCのことを表現するとき。
「うっとうしく思う」こちらの方が、「ウザい」「キモい」「ムカつく」よりは、その感情を持つ理由やそれで自分が持たされてしまう感情なんぞを、AとBが話すという展開になることが多いんではないかと思う。
「生理的に好きになれない」
「相手に対してカチンと来る」
ところが「ウザい」「キモい」「ムカつく」に関しては、その場でこう例えられる第三者を文字通り、「切って捨てる」という印象がある。
Aは単独でCを否定する感情を持つという状態でいるよりも、Bの肯定、支持を得ることで、さらに「Cを切って捨てる」感情を強く持ってしまうことにもなる。
人間なんぞというものは、そんなにきれいなものでもないので、他者に対してマイナスの感情・感覚を持つことなんぞ、掃いて捨てるほどある。
そんなものは、誰しも、お互い様だと思う。
AがBに「Cのマイナスネタ」の話をしたくなる、なんていうシチュエーションは、山ほどあると思う。
でも、思考もせずに、簡単に排除するような言葉を、それこそ簡単に口に出して第三者に言うことって、もっともっと怖いことなんじゃないかと思う。
誰かがネット上でそんなことを言ってくれていないかと、期待するような気持ちで「ウザい キモい ムカつく」と入れて、検索をかける。
攻撃的な他者排除の文章が並び立てられるURLが乱立する中で、「ムカつく言葉」という文章に出会ってほっとする。
池田市の小学校内児童殺傷事件の被告・宅間守を例示に出しながら、言いたいことを言ってくれていることに安堵感を持つ。
以下、引用。
例えば「ムカつく」。胃液が逆流して気分を害するほどの生理的嫌悪感なんて、特に胃腸の具合を悪くしている人でもない限り、通常そんなに経験することではないと思うのだが、今日では至るところでいろんな人が日常的に「ムカついて」いる。言語文化というものは、原則として多数決で決まっていくところがある。
「キモい」とか「キショい」なんて言葉もありますな。これも「気持ち悪い」という生理的嫌悪感をほぼストレートに表現する言葉だが、理屈や理論はすっ飛ばしてとにかく無条件に誰か(何か)を拒否する、という経験がそんなに日常的にあっていいものだろうか。同じ日本人同士でそんなに「キモ」がっていたら、海外旅行なんて行けないぞ。
他にも「ウザい」とか、理由抜きでとにかく相手を拒否する言葉は世にたくさん溢れており、しかも日常的な感情を示す言葉として使用されている。
自分自身の主観による世界認識を無条件の前提として、その認識にとってマイナスであるものは最初から否定や排除の対象とするニュアンスを持ったこれらの言葉は、私の目には、宅間守の放った「敵性語」と本質的に大して違わないように見える。
これらの言葉は、他人に対する理解ではなくただのラベリングに使用されるものであり、宅間守が「エリート」という言葉をあまりにも浅薄な意味で使用していたのと、原理的には同じである。こういう言葉を他人に対して当たり前のように使う人間を見ると私は、宅間守の言葉に接した時とだいたい同じ程度には「ムカつく」。
その多数決の中で、他者を排除する感覚を持つ言葉に慣れていく人が増えていくことは、怖いことだとわたしは思う。
ネット上では「相手を攻撃的に排除する言葉」が目につくことが多いけれど、そのネット上でこうした文章に出会えると、わたしはとてもほっとする。
「何かむかつくわ~」
と言うことがある。
たぶん子供が使っている言葉や、私がこうやって使っている言葉に「強烈な意味」はない、と思う。世代間の差?
ただ、
「ちょっとむかつく笑」
とか
「なんだかむかつくわー」
と色々つけて「私的には」的な言い方にしてみてるところを見ると、やはり強烈な言葉だと認識しているからだろうか。
あ~なんかむかつく~って言った時、
「ああ、むかつくって言っちゃいけないなあ」
と言った後、目の前で、
「いや、むかつくじゃないや、腹立たしい?怒ってるよ~?何か嫌?憤怒?激怒したい気持ち?」などと類語辞典でも出してこようと思ったら、真面目にガリガリとやり出す。
そんな使い方をわざとしてみたりしてます。
ただ、こうやって並べてみると、やっぱり「むかつくわ」以外の言葉はそれ以外の言葉に置き換わらない・・と思ったわけで。
子供に対する腹立たしさの表現として、
「なんかむかつくわ~」に笑いをふくませたり、何か他の頻度語(っていうのか?)をふくませると、しっくりいくというか、伝えるのに楽というか。
ただ、これを文章にしたら、きっと
「何か」をつけようが「ちょっと」をつけようが、違う、と思う、いや使わないな。
話言葉だから書いちゃだめよ、という言葉に入るってことかな。
1「書いちゃだめ」は「書いてはだめ」とか
2「むかつく」は「腹立たしい」とか
3「~なんです」は「~なのです」とか。
いや、1、と3は同じ種類で、2、は違うのかも知れないけど。
「しゃべる」=「話す」「おしゃべりする」とか。
いい例が思い浮かばない。
ということで、私は「むかつく」を曖昧表現にして使う派、になっています。
うん。
多分世代差。
あのね、わたしの言語形成期にこうした使い方をする「むかつく」というのは、会話の中では存在しなかったのよ。
日本語教師やってたのが20代後半から30で。
この時期にこの言葉の質問を受けた覚えも無い。
だからこの時期に存在したかどうか明確には答えられないけれど、少なくとも一般的に今ほどの市民権は無かったと思う。
えっと、年齢差、確か14よね、わたしとあなたは。
だから言語形成期の時代の変化の差は確実に「認識の差」としてあると思う。
「むかつく」という言葉が子どもの口から出始めたときに、社会はある種、騒然としたんだよね。
「むかつく子ども、キレる子ども」っていう表現で、騒然とした。
子どもの起こす暴力事件と、セットに見てたとこ、あったんじゃないかな。
そのくらい、今の「むかつく」という表現というのは、わたしあたりからわたしより上の世代にとって、強い表現なんだと思う。
今は、使う人たちの様子を見て、(それほどでもないのか)って、ちょっと安心してるかもしれない。
そうねえ、ちぃちゃんが小学校に入学したばかりの頃に、一年生の子が簡単に「むかつく」って言ってるのを聞いて、最初はやっぱりぎょっとしたなあ。
>やっぱり「むかつくわ」以外の言葉はそれ以外の言葉に置き換わらない・・と思ったわけで。
これは理解できる。
従来あった表現に、新しいニュアンスがついていったってことで「新語」扱いってとこになるかもしれない。
>話言葉だから書いちゃだめよ、という言葉に入るってことかな。
さあてねえ。
書く言葉を「評価する立場」にいる人間がそっくり世代交代したら変わるかもねえ。
あなたのように、お仕事として子どもの学習を指導する立場としては、この「評価する立場の世代に合わせて」ってのが現実的でしょうね。
>いや、1、と3は同じ種類で、2、は違うのかも知れないけど。
これはわたしもそう思う。
種類が違う。
3はね、日本語の教科書に、単元として出てきたよ。
「会話形」って、まあ言うんだけどね。
日本語学習者が一生懸命「するんです」とか、復唱する。
この「ん」が、妙に力が入るとこが、なんか不自然でおかしかったなあ。
>「しゃべる」=「話す」「おしゃべりする」とか。
これはちょっと反論。
「しゃべる」と「話す」は、内容の重さが違うでしょ。
・友達としゃべる。
・友達と話す。
ほら、話す内容のなんとなくのレベルがわかる。
「しゃべる」はだから書き言葉では「喋る」って書くと、文章系だよね。
・昨日、友達と話していて
・昨日、友達としゃべっていて
・昨日、友達とおしゃべりをしていて
この3つ、微妙にニュアンスが違うでしょ。
これは要するに、置き換え可能ではない「類義語」だと、わたしは判断しますね。
「むかつく」に関しては、
・友達と話していて、ちょっとした相手の言葉にむかついた。
・友達と話していて、ちょっとした相手の言葉にかちんときた。
・友達と話していて、ちょっとした相手の言葉に苛立ちを覚えた。
こんなとこかな。
語彙に関してのニュアンスや違和感は、確実に世代差を伴うものだと思うし、↑で言ったように「指導する立場」で考えるなら、「評価する側の価値観」に合わせる必要があるでしょうね。
思考や成長を助けることを目的に指導するという立場は、家庭か、または小学校か、または受験の必要の無い付属の中学校かもね。
受験のように「評価に向かって学習する」って場合は、言葉の獲得と使用の熟達に、心の成長まで伴って考えてる余裕は無いかもね。
・・・・1年生の子が「むかつく」って言ったら、私もぎょっとする・・
「家でお母さん、使ってるでしょ?」って勘ぐるかも。
いや、それは親かどうかはわからないけれど、周りにその言葉を普通に使う人がいる、と思う。
生徒を見ていると、「惨劇」や「浮気」は知ってるのに、「猫をかぶる」とか「足をのばす」は知らないとかね、
そういう生活語彙っていうのかなあ、個人個人で語彙ワールドが違うの。簡単とか、難しい、とかそういうことヌキで、
その子供には生活語彙がある。
その中に「むかつく」がほぼ全員、入っているってことは、普通に使う言葉なんだよねえ。
すでに私の中では、日常語、生活語彙の認識になりつつある。
それが8年以上。すっかり「むかつく」は生活語彙なのかもしれない。
>これは要するに、置き換え可能ではない「類義語」だと、わたしは判断しますね
う~ん、それでもやっぱり
「友達としゃべっていて」
っていうのが作文上でとても違和感。「喋る」を小学生は漢字で書けないから、「話す」かもっと
他の表現に直す。
「~なんです」とか「~じゃないので」などの言葉の変化形に似ているからかも。
「しゃべる」が拗音を含んでいるから違和感を感じるのかなあ、、
あ、もちろん話の内容で自然に使われている場合は直していないと思う。
だから、文章の「流れ」かもしれない。
>思考や成長を助けることを目的に指導するという立場は、家庭か、または小学校か、または受験の必要の無い付属の中学校かもね。
受験のように「評価に向かって学習する」って場合は、言葉の獲得と使用の熟達に、心の成長まで伴って考えてる余裕は無いかもね。
確実に6年生が「しゃべる」って書いたらアウトです。漢字で書いたら別だけれど。
私の違和感はそういう「受験指導」に毒された違和感なのかも。
上の子がいる子→下の子→下の子の友達→その友達って感じでね。
家庭ではない。
きょうだい児の影響って意味では、家庭なんだけどね。
そうね、生活語彙でしょうね。
そういえばさ、最近の子どもは「やらしい系」のことを「エロ」って言うね。
あと、最近あまり聞かなくなったけど、数年前まで、自分のことを「うち」という子が目立ったなあと。
京都言葉の「うち」とアクセントの位置が逆。
あれも子どもから子どもへ伝わって、気がつくとあんまり聞かなくなった。
彼らの間にも流行廃りがあるのかしらね。
それと、ゲームやってて、ちょっと調子がおかしくなると、
「コレ、バグった」って言う。
最初、これ聞いたときも「へー」って思ったなあ。
コンピュータ用語の「バグ」が、子どもたちの間で「バグる」という動詞に変化する。
ヤツらの生活語彙は大人がどうということもできないほど、多様だね。
そういやさ、ちぃの妊娠中に国立国語研究所の研修に行ってて。
「生まれた子どもの言語形成が研究対象にできますね」
な~んて言われてさ。
子ども生まれて「ダウン症です」って言われて、
・・・だめじゃん。。。
な~んて思ったなあ、と。
いや、コレがさ、
ちぃはちぃで言語習得のオリジナリティな面が楽しいよ。
ダウン症独自の問題点、なんてのも興味深いトコがあるわ。
はは、話、脱線しましたね。
さて「話す」と「喋る」。
わたしが書いたのは、大人の使用する日本語というレベルの話だと思う。
中学受験の6年生では確かに「しゃべる」はアウトでしょうね。
これはさ、Taka氏のHPに出てくる「中学受験は親の受験」ってのがヒントになると思う。
つまりね、まあ、志望校にもよるんだけど、中学受験する子はいかに「しゃべって」いても、すました顔で「今、話してました」なんてことを言えなきゃけいないわけだよ。
そういう風に、思考の転換をかけることを暗に要求されてる。
「親子でしゃべる」んではなく「親子で話す」家庭を要求されてるようなとこがあるのが、中学受験なんだろうと思うよ。
わたしがガキの頃から作文得意だったことを、ひどく損した感じがするのはここだろうなと思う。
「しゃべる」というような行動をたくさん遊んでたくさんまちがえて、たくさん「気持ちの本質」を持てる時期に、いとも簡単に「話す」という語に変換をかけて文章を作ってた。
実は失ったもの、得られるはずの時期をかっ飛ばしてしまったような気分、
そんなものを感じるんだよね。
文章下手な子の文章は、すばらしいものたくさんある。
それがさ、なんかこう、とても魅力的に思えるし、損した気分にもなるとこなんだよね。
大人に走らされる成長によって、失うもの。
そういうことって、あるような気がするんだよねえ。
「やらしい」とか「エッチ」ってのが直接的なのかな。
私としては「エッチ」はハートがつきそうな勢い。「いやらしい」は親を思い出す。
エロってのは粘着系ですね。
子供にとってはじゃあ、「エロ」かな、と。これでいいような気がする・・
子供に「エッチぃ」って言われたらかわいいなあ、とは思うけど、オトナにとって「エッチぃ」でも子供にとっては
「エロ」なのかと。
エッチってもっと「遊び」の軽い感覚が強いような気がする。
>あと、最近あまり聞かなくなったけど、数年前まで、自分のことを「うち」という子が目立ったなあと。
>京都言葉の「うち」とアクセントの位置が逆。
>あれも子どもから子どもへ伝わって、気がつくとあんまり聞かなくなった。
>彼らの間にも流行廃りがあるのかしらね。
ああ、勤めてた時は聞いた。確かに最近聞かないかも。
こっちの方でよく聞くのは「オレ」の「オ」にアクセントが来るやつ。
これは今でも多くて。最初、下町特有の方言なのかと思ってた。以前薬師丸ひろこがやってた「ママの遺伝子」というドラマの
主人公がこの発音で「オレ」。
おお、方言じゃないのか?と。
新宿区・渋谷区では聞かなくて、北区・足立区だと聞く。だから方言かと思ってたんだけど。
>「しゃべる」というような行動をたくさん遊んでたくさんまちがえて、たくさん「気持ちの本質」を持てる時期に、いとも簡単に「話す」という語に変換をかけて文章を作ってた。
私は簡単に、ではなく、「しゃべる」ことを禁止されて、苦労して獲得した感じ。
能力や器を超えてたたきこまれた感じはある。
最終的に「言葉」について興味を持って今この仕事をやっているのだから、それが悪かったとは一概に言えないのかも知れないけれど。
こう、ちらちら横目で気持ちを際限なく「しゃべる」ことをうらやみながらぐっと我慢している自分。
「しゃべる」にはそんな痛い思い出が出てくるね。
損、なのかな。
そのことに影響あるのかしらねえ。
「エロ」というのは、文字として目にふれることがあるのかもしれない。
今の子どもは「氾濫する性情報から守るための性教育」が必要って言われる。
そのくらい、氾濫してるとこ、あるよねえ。
「オレ」ってのは、わたしも聞く。
大人が使う「オレ」と、子どもが使う「オレ」のアクセントの位置が逆だ。
方言じゃないと思う。
>損、なのかな。
わかんない。
でもね、これだけは言える。
「損して得取れ」。
結果的には、得るもの得たモン勝ちよ。