自閉症、というものに関しての社会的理解というものの現実は、まだまだお粗末なものだと思う。こんなところで?と言いたいようなところでも、いまだに「自閉症になっちゃう」的発言があると、まだそこか…、なんていう気持ちにもなるというか。
○○すると自閉症になる的な発言というものは、自閉症児の親にとってはつらいものだろうな、と思う。
先日、娘の通う養護学校に用事があり、朝の登校時刻に学校に行く。
娘はすでに登校している時刻で、わたしはひとり、最寄り駅から学校までの通学路を歩く。
その通学路の途中で一人の自閉症児に会う。
いや、もう高校生だから自閉症児、というより、自閉症者、になるのかな。
娘より一学年上のこの男の子は、小学校の障害児学級で娘と共に5年を過ごした。
そして学区の中学の障害児学級に進学。この春、娘の通う養護学校の高等部に入学。
わたしと顔を会わせるのは3年ぶりくらいかな。
小学校は同じでも、この子の家とわたしの家は居住する場所が遠い。生活圏でも顔を合わせることは無かったな、と思う。
「○○くん」と声をかける。3年もたちゃ、わたしのことなんぞ忘れているだろうなと思う。
わたしに声をかけられても彼は特に反応せず、顔をうつむきがちに、目を合わせることはない。
そばに人がいるなんぞということは、まるで気づいていないかのような感じで歩く。
それでもわたしは久しぶりに会えたのがうれしくて。「学校、楽しい?」なんぞと話しかける。
顔をうつむきがちに、目を合わせることなく、彼はわたしに言う「○○さん、元気ですか」。
彼はわたしの名前を呼ぶ。「ちぃちゃんのおかあさん」ではない、わたしの名前。
わたしは歓声をあげる、とてもうれしい。
続けて彼は「○○くん、元気ですか」と言う。これは娘の弟の名前。
わたしはうれしくて、「元気よ」と叫ぶ。
自閉症、ってなに?と思う。
自分の子どもと同じクラスにいた子ども、そのつき合い方もあるだろうけれど、たいがいは高校生の段階なら、クラスメートの母親なんぞと話なんかしたくないのが普通だと思う。
そうやって、意志をもって「人との接点を閉じる」ことなんていくらだってある。
「自閉症になっちゃう」なんて表現に使われる「閉じている」いう要素は、そっちの方が大きくないか、などと思う。
彼は、彼の隣で飛び跳ねるようなテンションのわたしには目もくれず、黙々と歩く。
そして、そっと、歩きながらわたしの腕を取る。
ああ、うれしいなあ、と思う。わたしは彼の人間関係の記憶の中に生き続けていたんだなあと思う。
今年16になろうとしている男の子が、女の人の腕をとるというのは、教育上はやめさせなければいけないことだと思う。
本当は、そっとほどかなければならない手なんだろうと思う。
それでもわたしは反則技というかなんというか、校門まであと数メートルくらいは、こうやって歩いていたいなと思った。
*参考リンク:自閉症という問題
○○すると自閉症になる的な発言というものは、自閉症児の親にとってはつらいものだろうな、と思う。
先日、娘の通う養護学校に用事があり、朝の登校時刻に学校に行く。
娘はすでに登校している時刻で、わたしはひとり、最寄り駅から学校までの通学路を歩く。
その通学路の途中で一人の自閉症児に会う。
いや、もう高校生だから自閉症児、というより、自閉症者、になるのかな。
娘より一学年上のこの男の子は、小学校の障害児学級で娘と共に5年を過ごした。
そして学区の中学の障害児学級に進学。この春、娘の通う養護学校の高等部に入学。
わたしと顔を会わせるのは3年ぶりくらいかな。
小学校は同じでも、この子の家とわたしの家は居住する場所が遠い。生活圏でも顔を合わせることは無かったな、と思う。
「○○くん」と声をかける。3年もたちゃ、わたしのことなんぞ忘れているだろうなと思う。
わたしに声をかけられても彼は特に反応せず、顔をうつむきがちに、目を合わせることはない。
そばに人がいるなんぞということは、まるで気づいていないかのような感じで歩く。
それでもわたしは久しぶりに会えたのがうれしくて。「学校、楽しい?」なんぞと話しかける。
顔をうつむきがちに、目を合わせることなく、彼はわたしに言う「○○さん、元気ですか」。
彼はわたしの名前を呼ぶ。「ちぃちゃんのおかあさん」ではない、わたしの名前。
わたしは歓声をあげる、とてもうれしい。
続けて彼は「○○くん、元気ですか」と言う。これは娘の弟の名前。
わたしはうれしくて、「元気よ」と叫ぶ。
自閉症、ってなに?と思う。
自分の子どもと同じクラスにいた子ども、そのつき合い方もあるだろうけれど、たいがいは高校生の段階なら、クラスメートの母親なんぞと話なんかしたくないのが普通だと思う。
そうやって、意志をもって「人との接点を閉じる」ことなんていくらだってある。
「自閉症になっちゃう」なんて表現に使われる「閉じている」いう要素は、そっちの方が大きくないか、などと思う。
彼は、彼の隣で飛び跳ねるようなテンションのわたしには目もくれず、黙々と歩く。
そして、そっと、歩きながらわたしの腕を取る。
ああ、うれしいなあ、と思う。わたしは彼の人間関係の記憶の中に生き続けていたんだなあと思う。
今年16になろうとしている男の子が、女の人の腕をとるというのは、教育上はやめさせなければいけないことだと思う。
本当は、そっとほどかなければならない手なんだろうと思う。
それでもわたしは反則技というかなんというか、校門まであと数メートルくらいは、こうやって歩いていたいなと思った。
*参考リンク:自閉症という問題
アートセラピーに卵画というのがあるのですが、
卵の中から一本だけ突き出ている手を描く子がいるのです。
殻から出るのは恐ろしい。
かといって殻の中は孤独で辛い。
だから、空を彷徨う叫びのように、手を突き出す。
「拒まれない」という信頼感。
柔らかくって、温かい・・腕。
心と心が繋がるときって、こんな感じですよね。
嬉し涙でましたよ。
ありがとうございました。
わたし、うれしかったの、
本当に、うれしかったの。
それ、わかっていただけて、本当にうれしい。
ありがとうございました~~。
通学路にね、通学指導の教員の方が立ってらしたんですよ。
横断箇所にね。
わたしたちがそこを通り過ぎて、距離が離れていっても、きゃーだのなんだのと、わたしの歓声が聞こえていたんではないかと思うと、ちょっとおかしいです。
「卵画」、興味深く読みました。
これもご紹介、ありがとう、です。
正直なとこ、私は自閉症の子たちとどう関わっていいかわからない、こんなことするといやかな?そばにいたらわずらわしいかな?いろいろなことがぐるぐる頭んなかまわって、どうしていいかわからなくなってしまう。
かわいくって好きなのに・・・
こんなふうにしてもらえるなんてよほどの信頼感があるんでしょうねぇ・・・
これからもいろいろ教えて下さいね。
今日は気分がよく、来てみました。来て良かったです。
ただ、顔を合わせるときに、おはようとか寒いねとか暑いねとか、なんとかだとかこうとかだとか。
そんなモン。
だからこの日も、わたしの出だしは、そんなモン。
自閉の子だからってスタートでもなく。
ただ、娘のクラスにいる子だったからって。
もともとも、そんなモン。
すっごい美少年だったんだけどね、小学生のとき。
身長ぐわーっと伸びて、ぶわーっと太って、美少年だった片鱗は無い現在。
見かけが全然変わってて、うちの娘は同一人物と認識してない模様です。
その小冊子は、ティーチ啓発の講演を簡潔にまとめたものでしたが、私は目からウロコが何枚も落ちる思いでした。
ティーチによると自閉症者は、内面で機能の“統合化”ができていないそうです。ひとつの物事に向けて複数の機能を同時に働かせることが苦手。だから、相手の話を聞いている時に、目が別の方を向いていたりする。自閉症者は相手の目を見ないと言われますが、それは他者を拒絶している訳ではない。興味を示すし、話も聴いています。「目を見て話を聞かない」と怒ったり嘆いたり諦めたりするのは健常者の勝手な価値観でしかなく、自閉症者の特徴として理解していれば良いだけだと分かりました。
また、自閉症者は類推も苦手だそうです。物事の応用が利かない。だから「ごっこ遊び」ができない。相手の気持ちを察することもできない。ですが、それは自閉症者の心が機械のように無味乾燥な訳でも、動物のように原始的な訳でもない。そういう特徴があるだけだと理解していれば、「真心が通じない」などと涙を流すことはありません。
先日、実家がやっている施設で半日ほど、自閉症の成人女性の相手をしました。職員さんが病欠で人手が足らず、たまたま仕事が休みだった私が手伝いに行ったのです。
ティーチによると、自閉症者は視覚認識の“感度”が非常に高いとのこと。そこで、最初に紙切れに「静かにします」と赤マジックで書いて見せました。
女性は本を読んでもらうのが好きだそうなので、私は読みかけのミステリを音読して聞かせます。それでも、見知らぬ人が突然やって来ると、興奮してパニックに。自閉症者は、決まったスケジュールに沿って行動することを好み、突発的な出来事に弱いそうです(だから正月とか運動会とか自分の誕生日などの非日常的祝祭はストレスでしかない)。
以前は「はい、静かに静かにぃ!」などと慌てて制止したりしていたのですが、今回は「静かにします」の紙をサッと見せました。すると、女性は思い出したようにうなずき、すぐに落ち着きを取り戻したのです。ストレートに意思が伝わったので、私は驚いてしまいました。
ティーチの先進地域や施設では、例えば「話しかけないで下さい」カードがあるそうです。話しかけてほしくない自閉症者が、サッカー審判よろしく相手に掲示する。それを見て「ああ、そうなのね」でおしまい。自閉症者も健常者も傷付いたり思い悩むことはありません。
日本での応用と実践は始まったばかりのようですが、アメリカ生まれだけに、極めて合理的です。
http://www.interq.or.jp/japan/aschiba/Michi/No56/m56_abe.htm
コミュニケーションが円滑に図れるってことは、本人たちを楽にするっていうことでもあるんだなあ、と、お話を読みながら思いました。
今、横浜市では、こんな運動が進んでいるんですよ。
http://www.city.yokohama.jp/me/kenkou/shogai/board/index.html
このURLでは、配布期間というものがありますが、継続して配布は進められています。
地域の店舗の中に日常的に置かれていくことで、地域の拠点にこうした「共通語」が生まれていくってことの大きさなんぞを感じたりします。